9章 ー みされぽ ー

 ミーンミーンミーン。

 ちりんちりん。

 ぅぅぅぅぅぅぅん…。

 夏休みの半分が過ぎた。扇風機が静かに回っている。


(……ああ、そう言えば、教会のレポート、まだ書けてなかったぁ……)

 昼下がり、自室のベッドに体を仰向けに放り出して、右手の甲をひたいに乗せた格好でぼんやりと思い出す。

 暑い。

 あづい。

 美沙の部屋にはクーラーがない。夏の間に熱帯夜が1週間あるかどうかの仙台ではクーラーは必ずしも必需品ではなく、扇風機だけでも十分何とかなる。ちなみに熱帯夜でどうしても眠れない時は、唯一クーラーがある1階のリビングにみんなで布団を持って降りていって寝るのである。

 今日は、暑い。湿度も高い。やる気が出ない。

(千尋ちゃん、どうしてるかな……。)

 横になりながら考える。じんわりと汗がにじむ。


 意識して考えようとしたわけではないが、これまで起きた事をぼんやり思い返していた。

 教会訪問をして、メッセージをうまくまとめられなかった。

 もう一度行った教会で台湾人チームのダンスに号泣し、ナンシーさんと話して慰められた。

 父と話して、地下鉄サリン事件のことや、祈りを通して病気が治った事を聞いた。

 静まって祈る中で愛子ちゃんの事を思いだし、その直後に愛子ちゃんの手紙を母が見つけ出した。

 街中で高校生5人組に絡まれ、偶然休みだったタカさんが通りかかって救出された。

 今までタブーだった性について、母親と正直に話すことができた。性欲それ自体がきたないんじゃなくて、自己中心な心が性を汚すと知った。


 ここ最近、泣くことが多くなった。悲しみや苦い涙ではなく、心がほぐされ、安心し、束縛が解けていくような涙ばかりだった。

「……神さま、あなたは、どんな方なんですか……。」

 考えようとか祈ろうとかしたわけではなく、ぽつりと心から言葉が出てきた。

 神。主。イエス・キリスト。それまで自分の人生に何の関係もないと思っていた存在が、急に自分の人生に存在感を持って入りこんできた。自分はそのことをどう感じているのだろう……?

 正直言うと、起こったことは迷惑だった。心の底に沈殿していたものを引っかき回され、今まで封印してきたものを見ざるを得なくなる感じだ。

 しかし、起こったことは同時にありがたくもあった。結果はいつも良いものだったことも認めざるを得ない。手放しに歓迎したいことばかりではないが、それらを通して確実に回復と成長が自分の内側に起こっている事を、美沙は感じていた。

「……もう一度、牧師さんのメッセージ、聴いてみよう。」

 書きかけのレポートとノートを持って、パソコンのある居間に降りていく。


「あら美沙。今は食べるもの特にないわよ?」

 尋ねてもいないのに母が答える。

「大丈夫、いらな……あ、飲み物はほしいかも。」

「冷蔵庫に麦茶があるわよ。」

(もっとこう、頭にブドウ糖を補給できるものがいいのに。)

 そう思ったが目ぼしいもはもなく、麦茶で手を打った。大きめのグラスにたっぷりと注いで、コースターを敷いてパソコンデスクに置く。気分的には鉢巻でも締めたい所だが、暑いので省略。代わりに冷凍庫から小さな保冷剤を取りだし、タオルにくるんで首の動脈に当てる。暑さ対策だ。

 ヘッドフォンを着けようとして、蒸れそうだと気付く。

「おかあさーん、牧師さんのメッセージ、スピーカーから聴いてもいい?」

 母、一呼吸置いて「いいわよー。」と台所から答える。タブレットでレシピを見ながら夕飯の仕込みをしているらしく、鼻歌が聞こえてくる。美沙はタカに教えてもらった聖書放送のホームページからメッセージのページに飛ぶ。

クリックしたメッセージは、いつもの増田牧師ではなく、たまたまその日教会を訪れていた別の牧師のメッセージだった。

(ありゃ……。)

 すぐに戻ろうと思ったのだが、最初の聖書朗読を聴き始めたらなんとなくそのまま聴いてしまった。メッセージは旧約聖書イザヤ書61章の朗読から始まった。


「神である主の霊が、わたしの上にある。
 ヤハウェはわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、
 心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

 捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
 ヤハウェの恵みの年…を告げ…」


「ただ今お読みしましたのは、イザヤ書という聖書の預言の書です。今からおよそ2700年前に書かれました。それから約700年経った頃、この地上に約束の救い主、イエス・キリストが来られました。そして、私たちを救う数々の素晴らしい約束をしてくださいました。それをイエス・キリストの『福音』と言います。福音とは良い知らせ、グッドニュースという意味です。暗いニュースがテレビや新聞から流れ続けるこの時代に、一体何が良いニュースなのでしょう?それをお話しするために、最初に人間の基本的な必要をお話しして、その中で福音、良いニュースとは何かをお話しします。次にイザヤ書のみことばを詳しく見ていき、その中で福音をさらに詳しくお伝えしたいと思います。」

(あ、この牧師さんはレポート書きやすいかも。)

 メモを取りながら、美沙はパソコンスピーカーの位置を調整し、耳をそばだてた。

「まず、人間の基本的な必要についてお話しします。人にはがどうしても必要なものがいくつかあります。食事する事、呼吸する事、寝る事、人と健全なつながりを持つ事などですね。しかし聖書を読んでいくと、もう一つ大事な必要があることがわかります。それは、私たちを創られた永遠の創造主なる神を礼拝すること、神と関係を持つ事です。」

(これ、鈴子さんが言っていた、『見えない存在と関係を持つ』ってやつだ。そもそも見えないし聞こえない相手と関係を持つなんて……そんなのどうやって?)

「学者の研究によると、地球上の人間のほとんどは何かを【礼拝】しながら生きているそうです。これはきっと、私たちはそういうふうに造られているからでしょうね。みなさん、犬や猿が何かを拝んでいるのを見た事がありますか?ありませんよね。礼拝とは『神とつながりたい、関係を持ちたい』という、人間だけに与えられた特別な欲求なのです。私たちは本来、創造主であられるヤハウェという神と礼拝を通して関係を持つように作られています。しかし私たちは、後でもう少し詳しく話しますが、このヤハウェ様に対して罪を犯し、本来の関係から断ち切られてしまいました。」

(そう、罪。人はみんな罪人だって、牧師さん言ってたっけ。罪を犯したから、本来の関係が持てなくなったってことは……私が愛子ちゃんとケンカをして、関係が切れたような感じなのかな……?)

「福音、つまり良いニュースとは、創造主ヤハウェ様とのあるべき関係に帰る道が開かれた、ということです。これを別の言葉で表現すると、私たち人間が創られた本来の姿に回復されること、と言うことができます。人間本来のおるべき立ち場にもう一度返り咲くことができる、とも言うことができます。

 私たちは、私たちの命の源であられるヤハウェという神と永遠に愛し合う関係へと回復されます。また、本来の姿に回復した人たちの間には健全で互いに活かし合う関わりへと変えられて行き、調和が生まれます。この命の源であるお方によって、私たちは互いを活かし合い、地域を活かし、国を活かし、環境を活かし、この地上にヤハウェ様が本来意図された調和のとれた世界を実現していきます。」

(ヤハ……ええと、神さまとの本来の関係……ちょっとピンと来ない。でも、愛し合い、活かし合うって、いいなあ。)

「人が創られた本来の姿、それは創造主に似て美しいものです。愛するがゆえに自らを犠牲的にささげて相手を生かし、全てに調和をもたらすのです。私たちの救い主イエス・キリストはまさにその自己犠牲を実践し、私たちを愛してくださっていることを身をもって示して下さいました。

 みなさん、私たちはみな、愛されているのです。人は、自分が愛されていることを知る時、過剰な自意識から解放されて、自分のことを忘れて人のために尽くすことができるようになるのです。私たちが愛されている、そして自分のことを忘れて愛に生きられるようになる、これが聖書の語る福音、良いニュースです。」

(私たちって神さまに似てたんだ……?自分を犠牲にする愛、かあ……。愛されてる……私も?本当に?)

「では、なぜ神は私たちを愛しているのでしょうか。どのようにしたら、私たちが愛に生きられるようになっていけるのでしょうか。聖書のイザヤ書の言葉からその理由と根拠を見ていきましょう。

 冒頭のイザヤ61章は紀元前2700年頃書かれた預言ですが、それから約700年後にイエス・キリストによってその預言が実現しました。では、一つずつ見ていきましょう。

 まず、『主がわたしに油を注ぎ』とあります。ここの『わたし』とはイエス・キリストのことです。『キリスト』という言葉の意味は『油注がれた』という意味です。だから、『油注がれた』というのは簡単に言うと『神に任命された者』という事です。つまり、イエス・キリストというのは苗字ではなく、『神に任命された者・イエス』という、いわゆる称号みたいなものなのですね。」

(700年後に実現したって……これが今の日本なら『室町時代に預言したことが現代やっと実現した』ってレベルの話?それはすごいことだわ……。あと、キリストって苗字じゃなかったんだ。)

「次に『貧しい者に良い知らせを伝え』とあります。『貧しい者』とは誰のことでしょう?お金がない人のことでしょうか。それもあります。しかし、別の側面もあります。貧しい者とは、『自分の貧しさを自覚している人』のことです。必ずしもお金がないという事だけでなく、『お金があっても友だちがいない』『自分や人を心から愛することができない』『自分には罪がある』『神の御前に立った時、私は貧しい者だ』など、自分の貧しさを自覚している人のことを指しています。

 『私は十分満たされている、もう何も必要はない』という人は、裕福な人です。そういう人は、救いを必要としません。求めていない人に、神さまは無理やり何かを押し付けるはなさいません。信じて救いの手を求める人を、神さまは救ってくださるのです。

 では、貧しい人に伝えられる『良い知らせ』、グッドニュースとは何でしょうか。」

「『心の傷ついた者をいやすため』とあります。キリストは私たちを癒してくださる優しいお方です。イザヤ書の別の箇所には『痛んだ葦を折る事もなく、くすぶる灯芯を消す事もない』とあります。折れかかった植物のくきを『弱いから折ってしまえ、傷ついたから切り捨ててしまえ』というのではなく、むしろ添え木をするなどして、まっすぐ成長できるように支え助けて下さいます。消えかかってくすぶっているロウソクの芯を消してしまうのではなく、焦げて炭になった灯芯を切り落として、火が再び明るく燃え立つように整えて下さいます。イエス・キリストはそういうお方なのです。私たちの弱さを見下すのではなく寄り添い、本来の輝きを放てるように教え、導き、助けて下さいます。」

(心の傷を癒す……それって、台湾チームのダンスや、ナンシーさんが私と話してくれた時みたいな感じなのかな。お父さんの病気が治ったのも、やっぱり神さまが癒してくれた……のかな?……やさしい方なのかな、イエスさまって。)

「『捕らわれ人を解放し、囚人には釈放を告げ』ます。人はみな、何かに捕らわれて生きているものです。過去に捕らわれ、自分の自意識に捕らわれ、人にどう見られているかに捕らわれ、自分の欲に捕らわれ、お金に捕らわれ、異性に捕らわれ、そして自分自身のこだわりに捕らわれ…そうして私たちは束縛される人生を【自ら選んで】生きてしまっています。キリストは私たちをそれらから解放し、ただ『神にどう思われているか』、それだけに心を注いで生きられるように私たちを変えることがおできになります。神さまはその真理のみことばによって私たちを自由にして下さいます。」

(捕われている、か……。私は……何に捕らわれてるだろう?……人の目?人に嫌われる事が怖いのかもしれないな……。そこから解放してくれるの?それってどんな世界なんだろうなあ……。)

「また、『囚人には釈放を告げ』ます。囚人とは誰のことでしょう?囚人とは、牢獄に鎖でつながれた人のことです。では、牢屋に入っていない私たちは囚人ではないのでしょうか。いいえ、聖書は『私たち全員が囚人である』と教えています。これはどういうことでしょうか?

 それを理解するためには、冒頭でお話しした『罪』について理解する必要があります。囚人、つまり牢獄に入っているからには、何かしらの法律に触れる行いをしたはずです。

 と言われても、私たち覚えがありません。警察のお世話になるような事をした人というのは、全体的に見ればごく一部の人たちでしょう。

 どんな法律を破ってしまったのか。結論を言いますと、『神の法律』を破ったから、私たちは囚人なのです。聖書はこの『神の法律』を破ることを『罪』と呼びます。

 では、『神の法律』とは一体どんなものなのでしょうか?聖書には613の守るべき教えがありますが、それをたった一言でまとめることができます。それは『愛に生きること。』これだけです。すなわち、神を心から愛し、隣人を愛する生き方を実行することこそが、『神の法律』を完全に守る道なのです。

 それでは、『神の法律』に背く事、すなわち愛さないこととは一体どんな事なのでしょうか。一つ例をあげてみましょう。

 たとえば、人を殺したことのある方、いらっしゃいますでしょうか。……おそらく、この中にはいないでしょうね。しかし、イエスさまはこう教えられました。『人を実際に殺さなくても、人をバカにしたり心の中で憎しみを持った時点で、【実際に殺人したのと同罪である】』と。イエスさまはそう断言されました。

 非常に厳しい教えだと思いますか?私も非常に厳しいと思います。守れるはずがない、と思います。しかし、この世界の殺人や悲劇というのは、実はこの『心の中の憎しみ』がスタート地点なのです。この憎しみを取り去ることなく肥え太らせ続けた結果、人は本当に殺人を犯してしまうのです。神さまは殺人の果実だけではなく、その果実を生む種自体も取り去りなさい、と教えているのです。

 人を殺したことはなくとも、人を心の中で憎んだりバカにしたりしたことが一度もない、という方は……もしいましたら手を上げてください。……ああ、みなさん正直でいらっしゃいますね。もしも、心の中を全て覗かれたとしたら……私たちの中で、胸を張って神の前に立てる人などいるのでしょうか。

 どうでしょう、数ある神の律法の中のたった1つだけでも、この聖なる神の高い基準に照らして「私には罪がない」と言い切れる人はいるでしょうか。

 そのように罪を犯している人は、決まりやルールから【自由になっている】と錯覚します。しかし実態はむしろその逆の、罪の【奴隷】なのです。なぜなら、自らの力でその悪い習慣を断ち切ることができないからです。自ら選ぶことのできない人生、これは自由ではなく奴隷の姿です。罪に捕らえられ、囚人として生きているのです。」

(いやらしい思い!お母さんが教えてくれた、自己中心だ。神さま、ずいぶん厳しいんだな…。それに、人を憎まない人なんていないよ……いい人ばっかりじゃないもん。でも、それも神様の前に罪だって言われたら……無理。)

「そこで福音、グッドニュースの出番です。イエス・キリストを信じて心に受け入れる人に、キリストはその罪、すなわち悪い習慣から私たちを解放する力をお持ちです。私はこれまでにたくさんの人たちが通常では非常に難しい、あるいは不可能と言われる状況から立ち上がってくるのを見てきました。離婚寸前から夫婦関係をやり直したご夫婦たち、ひどいいじめから立ち直った子どもたち、非行から足を洗った若者たち、ヤクザから足を洗った人たちや、覚せい剤中毒から奇跡的に回復された人たちなど……数えきれない人たちがイエス・キリストに出会い、その力によって罪の力と戦い、そこから解放されて新しい、より建設的で平和的な人生を歩んでいます。

 みなさん、イエス・キリストは愛にあふれた、力あるお方です。人生の早い時期に、ぜひこの方を探し求めてほしいと思います。」

(え……?え……???そんなこと、あるの?本当に???)


「最後に、『ヤハウェの恵みの年』についてお話したいと思います。

  ヤハウェというのは神さまのお名前の一つです。古代イスラエル社会は、神から与えられた律法に従って国が回っていた、宗教と政治が一体となった国家でした。神さまは50年に一度、ヨベルの年、別名【大贖罪の年】というものを制定されました。この年には、全ての借金は帳消しにされ、自分が先祖から相続した土地は、売却された後でも自分の元に返却されるのです。奴隷として身売りした者も自由の身とされて自分の故郷に帰れる、という素晴らしい仕組みでした。
 ちなみに一説によると、国家の貨幣や金融のしくみは50年が寿命、と言われているそうです。不思議ですね。寿命が来たら一度リセットすることで、富の一極集中や貧富の差が抑えられ、皆がしあわせになれる社会が継続していくのです。いいですね。神様のあわれみ深さを感じます。」

(へえ……?パパとママが家のローンがどうとか借金がどうとか時々愚痴ってるけど、当時はそういうのもなくなったのかな……。ともあれ、極端に貧しい人や極端に富む人の差が減るのはいいと思うなあ。)

「さて、私たちも生きていると色々な負債を抱え込むものですね。人に貸しがある、とか、精算されていない失敗や過ちとか、謝った方がいいとわかっていても、素直になれなくてわだかまりを残したまま、とかです。長く生きていると、傷つけたり傷つけられたりして、金銭面以外にもいろいろ抱え込むものです。

 イエス様は互いに赦し合いなさい、と言われました。そして、私たちがお互いに赦し合えるようにと、まず神ご自身から、私たちの全ての過ちや反逆、罪の責めを帳消しにして、ご自分を信じる人たちに完全な罪の赦しを与えてくださいます。これは過去の罪はもちろん、現在犯している罪も、またこれから犯す罪も含めて全ての罪を、です!それを実現してくれたのが、イエス・キリストのかかられた十字架です。

 イエス様は自らのいのちを投げ出して、私たちの罪を自らその肩に引き受けて、拷問と極刑によるすさまじい激痛に耐え、父なる神から下る義の裁きと刑罰を私たちの代わりに一身に引き受けて死んで下さいました。しかし、イエス・キリストには罪がなかったので、キリストは三日目に死からよみがえられました!罪の結果である死を打ち破られ、キリストは復活されたのです!キリストはご自身に罪がなかったからこそ、罪ある私たちの身代わりになることができたのです。

 イエス・キリストはこのヨベルの年、大贖罪の年を預言的に成就されました!罪の負債を抱えて、まるで恐れや不安に身売りして奴隷になってしまったかのような私たちを、再び自由の身にしてくださるのです!私たちは奴隷から解放され、天の父なる神の家族の元に帰り、神の家の子どもとして安心して住み続けることができるようになるのです!

 皆さん、イエス・キリストを信じれば、あなたは今日、すべての罪を赦され、神の子とされるのです!そして、キリストは今も天で生きておられ、信じる人には完全な罪の赦しと、神の治める王国で永遠に生きる永遠のいのち、つまり天の父と御子イエス・キリストと絶え間なく交わりつながりながら生きる豊かないのちを与えて下さるのです。この永遠とつながって生きる命は死んでから始まるのではなく、信じる人に今日、今ここから永遠へと続く命が始まるのです!」

(……ええと……信じるだけで、赦してもらえるの?豊かに生きる力をもらえるの?本当に??…でも、何か裏があるんじゃないの……?)


 その後、牧師のメッセージはいくつかのまとめと勧めをして終わった。今度はメモを取れた。レポートも、多少疑問や質問を多く含みそうだけど、なんとか書けそうだ。よかった。美沙はそう思った。

 ……けど、なんだかすっきりしない。最初はレポートを書くのが目的だった。だけどレポートが書ければ、後は忘れてもいい話なのだろうか。


 もし神さまに

「美沙の人生のレポートを提出しなさい」

 と言われたら、私は胸を張って神さまの前に立てるのだろうか。


 人を憎んだ事がある。

 赦せない思いもある。

 いやらしい思いで異性を見た事もある。

 その場を切り抜けるために嘘をついたことも、人を裏切ったこともある。

 そんな私が神さまの前に立った時、私は何と言われるのだろう……。

(聖生学園め、なんて宿題を出してくれたんだ。レポートが終わっても、全然終われないじゃないか。)

 途方に暮れ、心底恨めしく思う美沙だった。


「美沙、終わった?牧師さんなかなかいい声してるじゃないの。さ、お風呂掃除してくれるかしら?」

 台所から母の声が飛んできた。

「……はーい。」

 頭を切り替えて美沙は立ち上がった。



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