11章 ー みされぽ 再 ー

 カタカタカタ……。

 パソコンに向かい、美沙はレポートをまとめ上げようとしていた。

 気がつけば夏休みもあと2日。他の課題は夏休み開始から1週間でカタをつけたのだが、このレポートだけはどうしても上手くまとまってくれなかった。学校の課題というより、自分自身の人生そのものに向き合わされているような、まるで天からの課題だった。

「天からの課題、か……」
 椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げてふうっと息をつく。

「美沙ちゃーん、一休みどう?」

 母が甘いミルクティーを入れてくれた。お盆には焼きたてのスコーンも乗っている。どおりでさっきからいい匂いがしていたわけだ。

「わー♪」
 データを保存してから、迷わずダイニングテーブルの席に着く。程よく膨らんだ丸いスコーンを半分に割り、イチゴジャムを塗って、はむ、とかぶりつく。外側さっくり、中ふんわりの口当たりに、ふんだんに使ったバターとイチゴの香りが鼻をくすぐる。

「……んんん……おいしいっっっっ!おかーさん、やっぱ天才!」
 口いっぱいに広がるしあわせに、目をぎゅっとつぶって足がパタパタと動く。

「あらーよかったー♪美沙ちゃんは美味しそうに食べる天才ね♪」
 母も満足そうだ。

「ねえねえ、今度スコーンの作り方教えてよー」

「簡単よー。材料をまぜて伸ばして、型で抜いて焼くだけよ♪」

「ほんとだ、簡単そうー。やってみたいー」

 ざっくりすぎる説明だが、初心者にはむしろこういう説明のほうがいい。ハードルが下がって取っつきやすく感じられるからだ。母のいろいろ途中をすっ飛ばす性格は、こういう所で長所と化す。物事をシンプルにまとめる力、と言ってもいいのかもしれない。

 今日は久しぶりに過ごしやすい気温で、暖かい紅茶を飲んでも汗ばまない。


「それで、レポートの方はどう?終わりそう?」

 母がカップを傾けながら尋ねる。

「うーん……何とかなりそう……だといいんだけど」
 眉根にしわを寄せながら美沙が答える。

「何が難しいの?」

「んーとね、」
 ごくん、と喉を鳴らしてミルクティーを飲み干してから続ける。

「なんか私、神さまから宿題出された気がするの。」

「ふーん。」
 二つ目のスコーンに手を伸ばす母。

「…え?もう一度言って?」

「お母さん、聞いてなかったね。」

「ごめんごめん。」

「なーんかねぇ、この課題。」

「うん。」

「牧師さんの話聞きましたー。レポートまとめましたー。はいおしまいー。……ってやれば、たぶんどってことなかったと思うんだけど。」

「うん。」

「『それで、あなたはどう応答しますか?』って、神さまから問いかけられてるような気がしてならないのね……。」

「……はぁぁぁ……。」
 なにやら感心したように驚く美智子。

「美沙ちゃん、まさか修道院とかに入っちゃうの?何ていうの、シスターとかになっちゃうの?」
 やっぱりいろいろ途中をすっ飛ばす母だった。

「そういうんじゃないけど……でも、問いかけられてるなら、何かしら返事はしなきゃいけないと思うの。それも、うわべだけでなく、本心から。」

「返事って、どんな?」

「どんなって……わかんないよ。」

 本当は、わかりたくないのかもしれない。どんな返事を相手は望んでいるのか。どんな返事を自分はしたいのか。返事してしまったら何が変わってしまうのか。今までの自分ではいられなくなってしまうのではないか。そんな言葉にできない不安がもやもやと、おなかの底のあたりでうずまいていた。

 美沙は今までの人生に不満などなかった。いや、ないと思っていた。優しくてすてきなお父さんお母さんがいて、数は多くはないが心許せる友達たちがいた。身近に戦争もいさかいも無く、傷ついて苦労している人が周りにいるわけでもなく、人生は概ね順風満帆と言ってよかった。

 よかったのに。

(神さまはどうして私の人生にちょっかい出し始めたんだろう。)

 そんな風に感じていた。

 けれど、その神様のちょっかい(という言葉は適当じゃないかもしれないけど)のお陰で、いろいろなことに気づかされ始めた。

 震災以降ずっと感じていた後ろめたさから解放されたこと、喧嘩別れに心を痛めていた愛子ちゃんとの関係が修復されたこと、もやもやと言葉にできなかった性についてタカと母から正直な話を聞けたこと、自分からはあまり出してこなかった感情のフタが開いて、心が解放されていったこと等……。

 上げれば幾つも幾つも出てきた。そしてそれは、今振り返ってみれば歓迎すべき変化たちだった。その時はあまり心地よくなくとも、結果として良い変化ばかり起こってきたのだ。楽ではない変化もあったし、受け入れるまで心に痛みが走るものもあったが、結果はいつも喜ぶべきものばかりだった。

 だから、だ。

(こんなに良くしてもらって、一体私どう応答したらいいの?……神さまって、一体何を求めているの?)


 気づくと、母は台所で片付けをしている。美沙はダイニングテーブルに一人ぼんやりと座っていた。考え事をしたまま、ずいぶん時が過ぎてしまったらしい。外はまだ日が高いが、時計は1時間近く進んでいた。

「あわわわ……」
 慌てて食器を下げると、またパソコンに向かい始めた。


 その晩、美沙は遅くまでかかってレポートを書き上げた。4部印刷すると、1つは学校の鞄に、1つはダイニングテーブルの上に、残りの2つはクリアファイルに入れてお出かけ用の手さげ鞄に入れた。




 次の日、夏休み最後の日曜日。

「行ってきまーす!」

「おう美沙、元気いいな。今日はどこ行くんだ?」
 出がけに父が訪ねてきた。

「うん、教会に!」

 いつにも増してハキハキしている娘を見て、微笑ましいながらも多少の不安を感じつつ、道房は尋ねた。

「また行くのか?」

「うん、3回目だよ」

「そうか。……教会、楽しいか?」

「え?……うーん、まあまあ、かな。けど……」

「けど?」

「自分、いろいろ調べたり、考えたり、悩んだりして、一応、整理がついたから、その報告に行ってこようと思うの」

「そうか……どんな風にだ?」

「ダイニングテーブルの上に私がまとめたレポートがあるから、読んでみて。そして、感想を聞かせて」

 やや真剣な語調に父は
「ん……そうか……わかった」
 とだけ言って美沙を送り出した。




 地下鉄に揺られながら、いろんなことを考えた。

 レポートのためリサーチをして見えてきた「神さま」という存在は、まとめるとこんな感じだった。目には見えずとも実在して、しかもその方が「イエス・キリスト」という人となってこの地上を歩み、身体障害者たち(全盲や肢体不自由など)を障害から一瞬で奇跡的に回復させ、病気を一瞬で治し、死人を生き返らせ、人々に希望を与えた。

 もしそんな偉大なお方が【私自身にも訪れておられる】のならば、何かしらの応答をしなければならない、と思った。

 美沙の両親が言っていた、祈りと同刻に起きた病気の回復も、聖書に同じ出来事が書かれているのを発見した。ヨハネによる福音書4章46節〜54節だった。病気で死にかけていた息子を持つ父親が遠くから訪れてイエスに癒しを求めてすがると、「帰りなさい。息子は治っています。」という言葉だけをかけられた。その言葉を信じて帰途につくと、家から来たしもべに帰り道出会う。聞くと息子の熱が引き始めたという。回復し始めた時刻を尋ねてみると、父親がイエスに言葉をかけられたのと同じ時刻に熱が引き始めたという。

 また、祈りの中で大切なことを思い出すという体験も、決して珍しい現象ではないようだ。ネットを検索する中で、そのような体験をしたというブログ記事をいくつか見つけた。また、賛美歌を聞いたり歌ったりする中で号泣する事もよくある事らしい。そしてそれは「聖霊」という存在が関与している、とも書かれていた。まだまだ、わからない事だらけだ。しかし、神さまからの問いかけに対する美沙の答えは、ほぼ決まっていた。


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