8章 ー 性 ー

 その晩、美沙は眠れなかった。


 だんせい。

 男性。

 ダンセイ。

 ぐるぐるぐるぐる。


 10時半を回っていたが、美沙はがばと起き上がり、上着を羽織って1階へ降りていった。

「あら美沙、眠れないの?」
 母がリビングで帳面をつけていた。

「うん……。」

 すとん、と母の隣のとなりの椅子に座る美沙。視線はテーブルに落ちたままだ。母はちら、と美沙を見たが、すぐに帳面に目を戻した。話したくなれば話し始めるだろう、と母は待つことにした。美沙は母が電卓で計算するのを、しばらく見るともなく眺めていた。

「ねえ、お母さん……。」
 目を伏せたまま、美沙は母に呼びかける。

「ん?なあに?」
 美智子は手を休めて美沙の方に顔を上げた。

「……やっぱりいいや……。」

 美沙はやはり目を伏せたままだった。母は困ったような顔をして

「なあにー?言っちゃいなさいよ。」
 と促した。

 美沙は眉根にしわを寄せながら、しばらく考えてからおずおずと声を出した。

「オトコの人って、さ……。たとえばさ、私が肌を出す格好とかしてると、いやらしい目で見たりするの?」

 美智子は少し考える風になって、「ふむ」と腕を組んだ。

「美沙、少し質問してもいい?」

「うん」

「美沙は、誰かにそう見られたの?」

「……そう、みたい……。」

「どんな気持ちがした?」

 しばらく視線が宙をさ迷わせてから、美沙は答えた。

「ショックだった……。」

 母はうんうん、とうなずいてから続けた。

「美沙、男性はね、女性の体に興味を持つものなのよ。そしてそれは健康的なことで、普通のことなの。」

「……じゃ、男性はみんなきたないの?」

 不安そうに背を丸めて、上目使いで母を見つめる。手にぎゅっと力が入る。

「そうねぇー……。」

 斜め上を見上げて、どう答えようかと思い巡らす。普段は話しにくいことを伝える、いい機会だ。しかし、人間関係に大きくつまずくこともなく、まっすぐに育った美沙の良さを、疑いや不信感で損ないたくもない。はてさて。


「美沙、お父さんが帰ってくると、母さんは道房さんに抱きつくわよね。」

「うん。」

 目を丸くして答える美沙。小さいころから見てきたのに、何を当たり前のことを、という目だ。

「道房さんは私の事をとっても愛してくれてるわ。そして私も道房さんのことを愛してる。」

「うん。」

「それに私たちは夫婦だから、抱き合っても何もおかしくないわよね。」

「うん。」

「抱き合うって、お互いのぬくもりを感じたり、愛し合ってることを確認しあったりできる、とってもいいものなのよ。」

「うん。そうなんだろうな、ってお父さんお母さんを見てると思う。」

 美智子はにっこりと微笑む。我が子ながら素直に育ってくれたものだと思い、誇らしかった。

「でももし、お母さんが結婚してない男性と抱き合ってたとしたら、美沙はどう感じる?」

「やだ!きたないよ。」

 真っすぐに即答する美沙に、ああ、この子はちゃんと分かってるんだ、と安心する母だった。

「そうよね。私もそう思うわ。正しい関係じゃないわよね。美沙、男性と女性は、大人になって、お互いに好きになって結婚すると、性の関係も持つようになるの。正しい関係の中で、心も体も親密さを深めていく時に幸せや喜び、安心感を味わうものなの。」

 うんうん、と何となく分かる気がしてうなずく美沙。

「だから、女性も、そして男性も、性に対して強い欲求を持っているの。それ自体はすばらいい事なのよ。」

 うん……と、美沙の反応がやや鈍る。

「美沙、男性と女性の、性のこと、ある程度知ってはいるわよね?」

 美沙は無言になった。

 知っている。

 クラスの人たちの会話の中。

 ネットの広告。

 コンビニに置いてある暗い邪気を放つ雑誌。

 自分から知ろうとしなくても、嫌でも視界に、耳に、入り込んでくる。でも、今までそれほど興味もわかなかった。

 しかし同時に、性は何かひどくきたないもの、恥ずべきもの、触れてはいけないものだ、と直感的に感じ取って、意識的に遠ざかってきた。いや、知りたくなかったのかもしれない。美智子が再び優しく語りかける。

「美沙、性はね、次の世代を生み出すために備えられている、人の大切な機能なの。そうやって、美沙も生まれてきたのよ。」

「……うん。」

「性はね、本来とてもすばらしいものなの。そして、お互いに約束し合った夫婦にだけ許されることなの。」

 こくこく、とうなずく美沙。

「道房さんと私もね、今でも夜に布団の中で裸になって愛し合ってるの。」

 歯に衣着せずに美智子は伝えた。


 美沙の焦点が定まらなくなった。

 自分が安心してきた世界と、自分がきたないと目を背けてきた世界が混ざり合うような、不安さや気持ち悪さが込み上げてくる。視界が歪む。息が苦しい。ややパニックを起こしかけたところで、美智子が美沙の肩に手を置いて、美沙の目を優しく覗き込んでくれた。大好きな母の、いつもどおりのあたたかい眼差しに気付いて、美沙は少し自分を取り戻した。美智子は努めて優しい語り口で美沙に話して聞かせた。

「ね、美沙。お母さんを信じて。性はね、きれいで、とってもいいものなのよ。恥ずかしいものでも、きたないものでもないの。私たち夫婦に、美沙っていう宝物をくれた、本当に大切なものなの。」

 一言一言、ゆっくりと、美沙の心に直接語りかけるように美智子は言った。美沙はやや涙目になりながら、懸命に母の言葉を飲み込もうとしていた。

 堰を切ったように、美沙が語り出した。

「お母さん、あのね……私、学校で、テレビで、雑誌で、ネットで、いろんな所で、性は気持ちいいけど、いやらしくて、恥ずかしくて、きたなくて、人に話しちゃいけないものだって感じてきたの。だから、お母さんがお父さんと……って聞いて、すごくすごくショックで……でも、お母さんのこと美沙は大好きだし、お父さんのことも…。」

 そこまで言って、あふれる感情を制御しきれなくなって、美沙は言葉を切った。しばらくの間、美稚子は美沙が呼吸を整えながら、感情が落ち着くのを待った。落ち着きを取り戻してから、美沙は言葉を続けた。

「……でも、大好きなお母さんが、性はいいものだ、きれいなものだってはっきり言ってくれて……。」

 ぽろ、ぽろと美沙の目から大粒の涙がこぼれていく。

(わたし、最近泣いてばっかりだわ。……なんでだろ?何が起こってるんだろう?)
 どこか頭の隅で冷静に考える自分がいた。


「美沙、よく聞いてね。美沙が今まで聞いてきた性のことは、たぶんそのほとんどが【結婚の外】での関係なの。だから、きたないし、恥ずかしいことなの。さっき、私が他の男性と抱き合うとしたら?って聞いたら、美沙は『きたない』って言ったわよね?そう、きたないの。それは、【これからお互い協力して、ずっと一緒に生きていきます】って結婚の約束をしていない関係だからなの。
 面倒な約束はしないで、楽しい事だけしたいなんて、無責任だわ。性の関係を持つという【自由】には、相手のことを人生の最後まで見捨てない、諦めないという【責任】が伴うの。二人の間に子どもが生まれたら、二人で協力して育てていく責任があるの。自由だけ味わって、責任は取らないなんて、無理なのよ。もしそんなことをすれば、必ずどこかにしわ寄せが来るの。そしてそのしわ寄せはいつも、弱い存在に押し付けられてしまうの……。
 子どもができてしまって、男性が逃げてしまったら、女性と赤ちゃんはどうすればいいの?性の関係はね、美沙、お互いに誓い合い、約束し合って結婚した夫婦の間にだけ許される行為なの。そういうものなのよ。」

 ハンカチ代わりに手近にあった台ふきんを鼻に押し当てて、いつしか美沙は泣きじゃくっていた。母は美沙の隣の椅子に座り直して、美沙の手を握って語り続けた。

「美沙。男性は女性の体や肌を見て性的に魅力を感じるものなの。それ自体はきたなくも何ともないわ。ただ、男性が自己中心になって、自分の欲望を満たすためだけに女性を利用しようとする時、それはきたなくなるの。男性が女性に魅力を感じることで、きたなくなるんじゃないの。男性の心が自己中心でけがれる時、男性の性もけがれるのよ。」

 美智子は片腕で美沙の肩を包み込むように抱き、美沙はぐしゃぐしゃに泣いていた。

(お父さんやタカさんはきたなくない。私のことを大切にしてくれる。よかった。よかった。自分も密かに感じてきた性の興味や欲求も、きたないものじゃない。よかった。でも、自分もきたなくなってしまうかもしれない。人に無用の誘惑を与えないように。自分も自己中心な心で自分の性をけがしてしまわないように……。)

 母の温もりに安堵を覚え、心に自戒を覚えながら、涙と共に心が洗われていくようだった。


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