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金魚の塩浴

桜木を手折る、その心はしあわせだったかい。
せめても、そうであってほしいと思う。桜のために

心無いと思わせないでほしい。

この世で酷く儚いものが家族(ひと)という名だった。それを必死に守ろうとしたわたしは愚かだっただろう。それでも、在るもの無きとは誰が云えるだろう。蔑み、貶める安易さを許容するくらいなら、わたしはそれでいい。それが知らぬものだとしても、わたしは同様にしか在れず。偽善の成り立ちを知ればいい。人在るが為ならば、人の造る迄。

なぜ生まれてきたのかと問う。

それは必要だったからでしかない。
知っていて尋ねることほどくだらないことは無い。

認知など必要にない。
 
 
 
 
昔々、横須賀沿線のどこかに捨てられていた女の子は、いまも生きている。
 
 
 
 
桜の咲く理由を考えないのはなぜかな。
簡単ではないからだよ。

なにをどこをみているんだい。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
ことしの春に心地惑う。
排出に困難をきたすと、金魚は死ぬ。
それは、ひとも同様にある。人間が真水を飲みつづけると死に至るのは、体内の塩分が奪われるゆえだ。纏わりには水中毒という言葉もある。金魚と人間の体内塩分濃度に差はあれど、真水に生きる金魚はやはり死に近づくでしかない。考えればわかりそうなものだ、真っ当かどうかなど必要ではない。知るか否かだ。金魚は潜水しなければ生きてゆけない。桜は散るもので、折るものでない。いつか、またを思考する。「いつか、また」