オタクをめぐる冒険

6/11 雨のち曇り
 オタクというものがなんなのか、まったくわからなくなってしまった。

 日常的な立ち振る舞いを箇条書きすれば、私自身は明確にオタクだ。
 アニメを観るし漫画も読む。Vtuberと加藤純一界隈の配信を楽しんでいるし、ゲームも結構するタイプ。一日中ボカロとアニソンを聴きながら、なろう系小説を読んだりpixivとハーメルンで良質な二次創作を探し求める。密かに同人音声マニアであり、エロゲもやったことがある。

 だが、なんというか、心意気がオタクではないような気がしているのだ。
 具体的に言えば、「推し」がいないのでキャラクターのグッズを買わないし、一つの作品を長年追うことは稀だ。
 「ファスト教養」が問題視されはじめて暫く経つが、オタクコンテンツに対する私の向き合い方が、まさしくそれに当てはまるような気がしている。教養として情報を摂取し、一歩引いた視点からコンテンツの世界観を眺めているのに過ぎない。そのような淡白な楽しみ方であるような心地がしてきた。

 そういう個人的なアイデンティティのこと以外にも、そもそもオタクというのは捉え難い存在だ。別に家に引きこもっているから見つけにくい、とかの物理的な意味ではなく、学術的にも定義が難しいのだ。
 オタクの定義として有名なものは、東浩紀の「コミック,アニメ,ゲーム,パーソナル・コンピュータ,SF,特撮,フィギュアそのほか,たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称」というものらしい(例えばhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/nbukiyou/9/0/9_KJ00006081539/_pdf/-char/ja)。
 この定義にのっとれば、私は間違いなくオタクだろう。

 一方で、以下のような意見もある。

熱心にコンテンツを消費し、それが自身の精神的充足に繋がるような消費性を持つ消費者(いわゆる消費性オタク)のコミュニティにおいては、知識量やコレクション量などが他の消費性オタクから承認される際に「オタク」という言葉が使われてきたこともあり、従来のオタクは、オタクの自認有無に関わらず、他人から認識されることで成立していた。「Aさんよりはオタクだが、Bさんと比べるとまだまだオタクを名乗れない。」といったように他人と比較することで、自身がオタクであるか、にわか(ライトオタク)であるか構造化されていたのである。

廣瀨涼「なぜ、オタク市場調査の結果が発表されると批判的な意見で溢れるのか」(ニッセイ基礎研究所)より

 廣瀨はこのような前提を踏まえた上で、

もし、従来のようなコンテンツを熱心に消費するオタクと呼ばれる消費者を定義するのならば、「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費することを通して精神的充足を目指す人」と定義することができるのではないだろうか。

 としている。こちらの方の定義では、私はオタクという属性からは外れる。バリッバリのにわかオタクだ。

 つまり、私が何が言いたいかというと、オタクは「一つのオタク」ではない、ということだ。
 
そのあり方は非常に多様であり、何を基準とするかによって(東のように趣味嗜好のカテゴリを基準とするのか、廣瀨のように消費者行動を基準とするのか)、様相が万華鏡のように目まぐるしく変化する。
 大学院時代、社会心理学の研究室にオタクを対象として研究していた先輩がいたが、オタクという存在の定義が困難すぎて、研究発表会などで苦しんでいたのを思い出した。これは、なるほど厄介だ。

 そもそも何でこんな話を長々と書いているのかというと、オタクコミュニティにおけるある種の倫理観に強い興味を抱いたからだ。「オタク倫理学」とでも名称すればいいのだろうか。
 より詳細に記述すれば、生成AIに関連する議論、とは形容できないほどの言い争いが、最近ますます激化している。そこで現れているのは、「オタク」同士の表現に関する認識の相違であり、価値観の違いである。
 近日中に「AIアートコンテストに作品を出して賞をもらった結果www」という記事を書こうとしている手前、今一度オタクとはなにか、彼らの倫理観や価値観がどのようなものなのかを、頭の中で整理したくなった。そういう経緯でこの文章を健忘録的に書こうと考えたのだ。

 では、オタクの様相を整理するためにはどうすればいいか。
 東浩紀の「動物化するポストモダン」を読めばいいのか、それとも斎藤環らの精神分析を漁ればいいのか、もしくは古巣である心理学に立ち返ってオタク研究をレビューすればいいのか。私が大真面目な評論家ならこれらの手法を選択しただろうが、やっぱりこういうのは趣味で楽しくやりたい。
 なので、生のオタクを見に行くことにした。せっかくオタクの聖地が点在する東京に引っ越してきたのだから、各地を巡ってみよう、と思ったわけだ。

 人生は冒険や! 珍棒は人権や! というわけで、ここ一週間で秋葉原・池袋・中野というオタクの聖地にそれぞれ巡礼してきた。
 結論から言えば、秋葉原・池袋・中野それぞれのオタクとそれを取り巻く様相はまったく異なっていた。「一つのオタク」は幻想だった。

 アキバは若い男性が多く、池袋は若い女性が多く、中野(特に中野ブロードウェイ)は年配の男性が多い。まず滞在している人々の年齢層が大きく違っていたのだ。
 それに、街の雰囲気も随分と異なる。アキバは半ば遊びの場と化しており、歩道のそこらじゅうで野良のメイドが客引きをおこなっていた。中野は怪しげな店構えが多く、それらをヒグマのような大男が幾人も出たり入ったりを繰り返していた。

 一番活気があり、同時に個人的に衝撃を覚えたのが池袋だった。
 信じられないほど大きいアニメイトが聳えており、客のほとんどがオシャレをした若い女性だった。彼女らが長蛇の列を成しており、ヒロアカとか、にじさんじの男性ライバーとか、刀剣乱舞とかのグッズを思い思いに手に取っていた。思わず、世界宗教のマジもんの聖地を想起してしまった。

 民間の調査会社である矢野経済研究所が発表しているオタク市場は、令和3年度が前年比2.2%増の約6687億円、令和4年度は約7164億円で今後さらなる成長予測がなされている。
 オタク市場の成長を牽引する爆心地が、ここ池袋なのだろう。メロンブックスなど、他のオタクグッズ取扱店も巡ったがいずれも盛況だった。私も「リコリス・リコイル」の設定資料集を購入して帰宅した。これで立派な「オタク」になれただろうか。

 家でYogiboに座りながら、オタクの「お気持ち」のことについて考えた。自分のSNS上の立ち位置は研究者や技術者に近いところにあるので、よく「お気持ち」に対する批判ツイートが回ってくる。
 意外にも、私自身は「お気持ち」否定派ではない。「お気持ち」も論理とかデータとは別の側面の真実だと考えているからだ。

 私の好きな「いっせーの」という曲に、

抱きしめた過去の感情論
ただ感情論 でもほんとだよ

という歌詞がある。私の好きな曲なので、歌詞が正しいと信じることにした。

 最近買った「客観性の落とし穴」という本にも、

一人ひとりの個別の経験は、客観的学問にとっては切り捨てられるべきものとみなされた。一人ひとりの偶然的でうつろいやすい多様な経験は、まさにそのうつろいやすさゆえに科学において価値を失った。ところが、うつろいやすさや、偶然、個別性のなかにこそ、経験の重さが宿る。客観的な学問によって多くの有益な知が得られるが、だからといって自分の経験の個別性を切り崩す必要はない。

村上靖彦「客観性の落とし穴」(ちくまプリマー新書)

という記述があった。ちょっと前も「測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?」という本が好評を博していたし、論理・データ中心の見方へのバックラッシュが起こっているのかもしれない。
 オタクの「お気持ち」についても、生成AI周りの議論で再評価・再批判がそのうち起こるのではないか、と勝手に予想している。

 オタク文化の発信地が池袋なら、「お気持ち」や「オタク倫理学」の中枢も池袋にあるだろう。池袋は街として好きなので、またそのうち訪問して、オタク文化の熱を全身で感じながら、ここら辺のことについてじっくり考えてみたい。
 気づいたらメチャクチャ長い文章になっていたので切り上げる。皆様も善きオタクライフを。

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