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ミスター麻雀・小島武夫

5月28日

2018年5月28日に亡くなられたミスター麻雀・小島武夫プロは言わずと知れた麻雀界の大スターだった。豪放磊落で、遊び人のアニキみたいな人で、明るく楽しく、伸び伸びと人生を謳歌した人だった。麻雀界の太陽だった。私たちはその姿に憧れた。皆が大好きだった。同じように、小島プロも皆のことが大好きだった。小島プロの晩年のメッセージを、すべての麻雀ファンに捧ぐ。


神の神対応

 小島武夫プロが神妙な面持ちで対局者の後ろに立ち、何やらメモを取っている。もう2時間にはなるだろうか。
 コナミの麻雀格闘倶楽部のイベントで、ゲーム筐体で好成績を収めた人が参加できる麻雀大会だった。その大会で勝ち残った人は、プロ雀士と対局できるという趣向である。
 後から出てくるプロ雀士たちはバックヤードで待機していた。
 私はそのイベントの司会なのでずっと会場にいたが、同じように小島先生もいて、対局者の後ろに立っていた。

 先生、疲れませんか? 椅子持ってきましょうか?
「年寄り扱いするな。疲れたら勝手に座るからいいよ」
 この時点で70歳は過ぎていたのだから十分に年寄りである。
 対局が終わると、自ら対局者に話しかけられた。
「あの時のウーピン切りがカッコ良かったじゃない」とか「あのチュン、よく止まったねぇ」と、まるで昔からの麻雀仲間にするように、気さくに話しかけていた。話しかけられた人は、とても嬉しそうだった。
 そりゃそうだ。ミスター麻雀・小島武夫に麻雀を褒められたわけだから。
 なるほど、そういうことか。

 私は子供の頃のある「事件」を思い出した。夜中、近所の公園で野球の素振りをしていたら、何と初代ミスタータイガース・藤村冨美男さんがそばを通ったのである!
 近所に引っ越してきたことは知っていたし「必殺!仕事人」で晩年のお姿も拝見していたから、すぐに藤村さんだと分かった。
 私はメチャメチャ緊張して、物干し竿を意識し、できるだけバットが長く見えるように持って気合を入れてスイングしまくったが、まったく何も言われなかった。
 そりゃそうだ。藤村さんからしたら、近所のガキが下手くそな素振りをしているだけなのだから。
 でも、その時もし藤村さんが「お前へたくそやな」でも何でも良いから言ってくれたなら、一生の宝物になった。友達にも自慢しただろう。
 そういうことなのである。

 先生、そういうことですか。
「おお、そういうことだよ」
 先生はやっぱり、ファンを大切にされるんですね。
「当たり前だよ。フアンがいなきゃ、俺たちはただの遊び人じゃないか」
 先生はファンのことを「フアン」と言うが、私はこの「フアン」という言い方が好きだった。
 先生はその後もずっと対局者の後ろに立たれていた。
 私は恥ずかしくなって、バックヤードで休憩している若手プロたちを呼んで来ようとしたが、先生はそれに気づいたのか、
「余計なことしなくて良い。押しつけがましいことはするな」
 そう言われて、また別の対局者の後ろに陣取った。
 先生はたぶん、ファンの人を無理して大事にされてきたわけではない。ファンの人が好きだから、自然とそういう接し方になったんだと思う。



 4年前、パリで第1回リーチ麻雀世界選手権大会が開かれた時、小島先生も行くとおっしゃった。
「だってフアンの人が待ってるだろ」
 私は正直、パリに小島武夫のファンがいるとは思っていなかった。
 先生、さすがにパリですから、先生のファンがいるかどうか分からないですよ。
「いなくたって、麻雀のフアンなんだから良いんだよ。俺のフアンじゃなくても、麻雀のフアンなら一緒だよ」

 私は何度か小島武夫の言葉を聞いて体中がシビれる思いをしているが、これがその最たるものだった。
 そうだ。小島先生はそんな小さな器の男じゃない。別に小島先生のファンじゃなくても、麻雀さえ好きなら、もうその時点で「仲間」だ。だったらパリだろうがどこだろうが、仲間に会えるなら行くのが小島武夫なのだ。
 かくして小島武夫78歳はパリへと旅立った。
 この時すでに足を悪くされていて、あまり早く歩けない状態だったが、先生は皆と一緒に行ってくれた。
 実際にパリの会場に着くと、遠くからデカイ3人組がこちらをジロジロ見ている。聞くと「あの方はもしかして小島武夫さんですか」と、緊張した面持ちで言ってきた。
 先生、参りました。先生は「俺のフアンなどいなくてもいい」とおっしゃいましたが、実際には先生のファンがちゃんといましたよ。
 彼らは、先生と握手して写真を撮って、とても喜んでくれた。先生は「どこから来たの? アメリカ? 遠いところからご苦労さん」と、いつもの博多なまりで言われた。日本の雀荘やゲームセンターでファンに「神対応」している姿と変わりはなかった。
 大会では、小島先生は予選落ちだった。負けた選手も、最後までランキング戦を打たねばならないが、辞退することもできた。
 森山茂和会長は先生の体調を気遣って「疲れたらほどほどで休んでくださいよ」と言ったが、先生は最後まで打ち切った。
 1日に半荘6回も7回も打つ。しかもこの時のパリは異常気象で気温は30度を越え、会場にエアコンはなかった。
 それでも、先生は真剣に打った。

 目の前に牌があり、麻雀ファンがいれば、それがどんな麻雀であろうが、決して手を抜いたり、いい加減な打牌はしない。それが小島武夫だった。
 いや、私が知っているのではなく、これは森山会長をはじめ、先輩方から聞いた話である。
 小島武夫は人生で一牌たりともいい加減な打牌をしたことがない、と。
 海外の愛好家たちと打って、アガって笑う。ガハハ。振り込んで、笑う。いい待ちだねぇ、ガハハ。麻雀をやっている時が一番、楽しいねぇ。そう言って、先生は打ち切った。
 パリでも小島武夫は小島武夫だった。


今が一番楽しい

 パリに行くにあたって、私は小島先生と同部屋を希望した。
 後輩に気を遣われるのも嫌だったし、友達付き合いしている相手もいない。先輩に気を遣うのもしんどい。
 森山会長が「小島先生どうしよう」と言った瞬間、私は「楽できる」と思い「僕がお世話します」と名乗り出た。
 会長は「いいのか、黒木も試合があるのに大丈夫か」と気を遣ってくださったが、実際はほとんどお世話などしなくていいと分かっていた。
 そして本当に、私の計算以上に先生との同部屋生活は楽ちんであった。そしてとても楽しかった。
 私が夜、パソコンで仕事をしていると、先生は「先に寝るぞ」と言う。私が「はい、お休みなさい」と言ったか言わなかったかぐらいのタイミングで、先生は寝息を立ててスヤスヤと寝た。
 先生はそのまま朝まで起きなかった。朝、私が先に起きて「先生、そろそろ起きますか」と言うとパチっと目をあけて「おう、飯いこう」と起き上がり、すぐにズボンを履く。そして私の家内が持たせたインスタントの豚汁を楽しみにしてくれて「おい、まだあの豚汁はあるか? あれ、ンマイよなー」と言ってくれた。

 先生、一瞬で寝るんですね。
「ああ、俺は若い頃から雀荘でもどこでも寝てたから、どんな時でもすぐ寝る特技があるんだよ」
 先生はとてもお洒落で、パリにもたくさん服を持って来ていて、これとこれ、今日はどっちが良いと思う? と私に聞いてくれた。
 モンド名人戦で九蓮宝燈をアガった時、左手を骨折していたのだが、その骨折の影響で、一人ではうまくシャツやジャケットが着れなかった。パリにいる間は私がシャツもジャケットも着せてあげた。
 私が肝油のような栄養ドリンクを飲んでいると「お、それは何だ? 元気が出るのか? 俺にも分けてくれよ」と、一緒に飲んだ。
 一回も「つかれた」とは言わないし、ため息をつくようなこともなかった。
 私が勝手に先に風呂に入っても、先に寝ても、先生の存在を忘れて仕事をしていても、何をしてもご機嫌が悪くなることはなかった。いつも最後は「ね!」と、人懐っこい笑顔で相手を見つめてくれる。

 先生の機嫌が悪くなるのは、麻雀プロがつまらない麻雀を打った時だけだった。その時ばかりは、苦言を呈することもあった。
 ただ、一般の愛好家の麻雀を悪く言うことは決してなかった。「こうした方が良かったよ」と教えることはあっても、常に笑顔で優しく接していた。
 とにかくポジティブな人だった。

 パリから帰ってきて、しばらくたったある日の食事中、森山会長が小島先生に聞いた。
「先生、麻雀業界の景気も上がったり下がったりですけど、先生の中で一番良かった時代はいつでしたか?」
「ああ、今が一番良いな」
「え? 今ですか?」
「ああ、今が一番楽しい」

 会長も私も驚いた。若い頃が良かったというのが普通であろう。体も思うように動いたし、金もあったし女にもモテた。そんな話になるのかと思いきや、今が一番楽しいと言う。
「皆が良くしてくれるし、世の中がどんどん面白くなっていくし、やっぱり今が良いよなぁ」
 奇をてらって言うような人じゃない。間違いなく本気で言っていた。


先生おやすみなさい

 収録の現場では真っ先に動かれた。
 私が「そろそろ出番ですよ」と控室に言いに行くと、最初にスタジオに入られるのは、いつも小島先生だった。
 ディレクターが段取りを説明している時に、無駄話をしたりよそ見をするようなことは絶対になかった。
 人に威圧感を与えるようなことは決してなかった。
 私もずっと本稿で先生、先生と呼んできたが、別に小島さんと言っても、先生がムっとすることはなかった。何となく、皆さんが先生と呼んでいるからそうなっただけの話である。
 荒正義プロと石崎洋プロは、小島さんと呼んでいたし、古くからお知り合いの編集者の中にはタケオさんとか、タケオちゃんという人もいた。
 先生は、老若男女問わず、同じような接し方をされていた。
 新しいものが好きで、日本プロ麻雀連盟の公認インターネット麻雀サイト「ロン2」のサービスがスタートすると、即座にパソコンを購入された。その後「北斗の拳」のタイピングソフトも買って練習され、原稿もファックスからメールになった。
 最後の「天空麻雀」の現場へ行く時、タクシーの中で私がスタバのサラダラップを食べていたら「それは何という食いもんだ?」と聞かれ「ちょっと食わせてくれ」とおっしゃった。
 先生の分も用意していたのだが「うまいな、これは」と、結局私の分まで食べてしまった。

 かなりの食通だった。
「高い店がうまいのは当たり前。安すぎる店もだめ。ほどほどの値段でおいしくて、いついっても味が変わらない店が尊敬に値する」というのがモットーだった。
 店構えで判断して「よし、ここ入ってみよう」と冒険することもあったが、ほとんど外れることはなかった。

 言うまでもなく麻雀の天才で、麻雀の申し子だった。
 超一流の雀力の上に「魅せる麻雀」を戴いて、相手と戦うだけでなく、世間とも同時に戦った。
 先生の魅せる麻雀は、ただの安っぽいショーマンシップではない。
 視聴者との真剣勝負だった。
 一歩間違えれば「やり過ぎ」と捉えられるし、実利を追い過ぎれば「小島武夫らしくない」と言われてしまう。
 先生はいつも、そんな厳しい戦いを楽しんでいるように見えた。
 打ち上げの席では、一番大きな声でガハハと笑った。しゃべる量も先生が一番だった。
 よくあの年でお元気で。
 皆が笑顔になった。

 しかし、ある時から先生の酒量も減り、声も以前ほどではなくなってきた。
 見るからに元気がなくなってきた。
 そしてモンド名人戦、天空麻雀、連盟の公式戦と、次々と引退していった。
 これが最初の、小島武夫とのお別れだった。
 その後、もっとつらいお別れがあることは分かっていたが、こんなに早いとは思わなかった。
 先生のお通夜と告別式の準備をしていても、実感がなかった。忙しすぎたからかもしれない。
 お通夜が終わって、葬儀社の人たちが焼香をされていた。皆がいなくなったのを見はからって、私は初めて、先生の棺の前に行って、お顔を拝見してお別れを言った。

 ああ、先生とはもう会えないし、麻雀も打てないんだなと思ったが、先生には泣き顔を見せずに済んだ。
 告別式の間も、私はどちらかと言うと、悲しくはなかった。
 たくさんの人が先生を見送りにきてくださって、安心した。皆に冗談を言って、笑うこともあった。
 不謹慎だとは思わなかった。先生は、笑おうが泣こうが、気持ちを持って送り出せば喜んでくれると思っていた。
 私はただ、同じ連盟の後輩なだけだが、参列者の皆さんに心から感謝した。
 二階堂瑠美ちゃんは、人目をはばからず号泣していた。彼女たち姉妹は、先生が導いたんだと思う。
 姉妹は麻雀が大好きで麻雀プロの世界に入りはしたが、最初はメディアに出ることに興味がなかった。
 でも、先生と一緒に全国のゲームセンターや雀荘を巡っている内に意識が大幅に変わった。
 先生は麻雀だけでなく、麻雀が好きな人々も大好きだった。
 その姿を見て、自分たちも「誰かの何かになりたい」と思うようになった。

 私が決めつけるのは変な話かもしれないが、先生がいなかったら、二階堂姉妹はプロ雀士の世界から、すでにいなくなっていたかもしれない。
 それほどまでに、初期の彼女たちは麻雀以外の一切に固執していなかった。
 新幹線で移動する際には、先生が彼女たちのお弁当を買ってきてくれたりもしたらしい。
「これがうんまいんだよー。買ってきたから、食べなさい。ね!」

 見たわけじゃないが、先生の優しい笑顔が目に浮かぶ。
 瑠美ちゃんも亜樹ちゃんも、何度も先生にお礼を言ったと思う。

 告別式の後、十段戦の対局があった。
 終わって電車に乗り、降りて、自宅付近の風景を見たら緊張の糸が切れた。
 急に寂しくなった。ただひたすら寂しくて、顔をくしゃくしゃにしてしまった。
 夜道だったのが幸いだったが、それでもすれ違う人から見たら不気味だったかもしれない。でも、それが私にとっての、先生との別れの儀式だった。
 夜空から先生の「泣くなよお前」という、独特の、柔らかくて優しい博多なまりの声が聞こえてきた気がして、私の顔はもっとくちゃくちゃになった。

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