∃(ターンイー)について。あるいは∀(ターンエー)との関係について。

∃(存在記号)を「ターンイー」と呼ぶのは僕の創作です。というか、∀(ターンエー)のパロディてす。
∃と対になる∀(全称記号)には例外はありません。富野由悠季御大は過去のすべての(自分が関与してないものもふくめた)ガンダムを肯定し包摂するために∀を冠したガンダムを創作し、そこに「ターンエー」という呼び名を与えたのでした。
「∃」を使おうと思いついた時、(いやでもこれ片仮名の「ヨ」じゃん…)と真っ先に思いました。なので自分のツイッターの表示名は「きのとよしづき」から「きのと∃しづき」にしました。
けどこらを何と呼ぶべきか、と考えると「ヨ」じゃちょっと締まらない。∃xistなら伝わるけど、折角なら僕はトミニストなので、じゃあ∀に倣って「ターンイー」と呼ぼう、と考えた訳です。

「オタクのすべてを包摂する何か」、つまり∀は多分ないのです。というか、無数の、様々な、まとめ切れない人達を包摂する属性として「オタク」は存在します。
その懐の深さこそが本来のオタクの美点であって、たとえクラスで友達が一人も居なくても、社会に居場所がなくても引き篭もりであっても、オタクというコミュニティは受入れ、居場所を提供します。それに救われた人は少なくない筈です。他ならぬ僕自身がそうでした。
その美徳は、無数の「∃」がそれとして存在し続けることで成り立っています。居ないことにされて良い存在などいないのです。
「∃!」つまり「#我々は存在する !」とアピールしなければならない事は、ある意味ではオタクにとっては不幸な事です。しかし、オタクがすべて社会から目を背け、自分達の愛するもののみを守る事に腐心する時、必ず仲間の誰かを排除しているのです。それはオタクという属性がもつ「∀」的な性質を失わせてしまいます。
「∃xist.」を通じて存在を明らかにすべきなのは勿論一義的にはリベラルのオタクですが、フェミニスト、外国人、反差別、性的マイノリティ、障害者、etc...、様々な境界的属性を持った人やその支持者も含みます。
これらの人達は時としてオタクのコミュニティのなかで(他の社会で普遍的に見られるのと同様に)時として沈黙を強いられます。仲間との繋がりを保つために自分を殺し、愛想笑いで、時には他のマイノリティへの攻撃に消極的、あるいは積極的に参加する事もあります。それはやはり「オタク」の美点、美徳からは程遠いし、そのようなコミュニティであってほしくないと僕は思うのです。
「∃」根底にある素朴な感情としてはこうした思いがあります。無論、オタクの根本理念である表現の自由がここまで変質したからこそ今敢えて声を上げるのですが、この前提は広く共有出来たらと思います。

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