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知りたいから、話を聞きに行った日のこと

*関連画像→多磨全生園とハンセン病資料館の写真集


多磨全生園を歩いて


7月26日、国立ハンセン病資料館で『ハンセン病と人権』の夏季セミナーを受講しました。

当日は久米川駅からバスで20分、資料館前で下車する予定が、間違えて療養所の全生園前で降りてしまったので、園内を歩いて奥の資料館へ向かいました。


園内は、野原や林の中に車が通れる舗装された道が敷かれていて、とても広くて静かでした。芝生で水撒きをしていたおじさんが遠くからおはようございます、と声を掛けてくれました。入居者居住地、病棟、事務本館、集会所、郵便局やファッションセンター、お食事処もあって、基地のような印象を受けました。

基本的な生活は園内ですべてカバーできる様子でした。

ただ、基地と決定的に違うのは、園内に全生園之墓、納骨堂、慰霊碑も置かれていることでした。




無知と無関心


わたしが今回のセミナーに参加したのは、ハンセン病について、病名と外見から分かる症状以外は、ほぼ何も知らなかったからです。

ハンセン病とその患者さんや家族について、僅か10分でも真剣に考えてみたことは今までなかったです。


昨年、旧優生保護法の違憲性を問う裁判が起きたニュースを見て、その法律が平成になってからも未だ施行されていたことに大きな衝撃を受けたのでした。そして今まで何も知らなかった自分自身に驚きました。


わたしは子供の頃から戦争について、戦争の被害について、戦争が人々にどんな影響を与えるか、憲法9条の意味とは、少しずつだけど自分なりに調べたり考えたりしてきました。

でも優生保護法の存在は昨年まで知らなかったのです。戦争とは、平和とは、人権とは。たくさん考えていたつもりだったのに、障害者の人権に意識を向けることをしませんでした。


思えば優生保護法について学校で教わったことは一度もなかった気がします。また、家族や友人知人のあいだでも、障害を持つ人へ施行されていたこの法律のことを、話し合うことも話題にすることもしませんでした。

自分が障害者手帳を持っていた時期があるにも関わらず、です。

最大の理由はわたし自身の無知・無関心ですが、世間、少なくともわたしの周囲の人たちもおそらく自分と同じであったこと、その無知と無関心を、心の底からこわいと思ったからでした。




セミナーを受講して


*講義*


午前中はハンセン病についての映像資料の鑑賞とと、資料館の社会啓発科課課長/大髙さんによる日本におけるハンセン病の歴史や問題点の講義でした。

歴史資料や実際に起きた事件や社会問題等も紹介しながら、とても丁寧に解りやすく話してくださったので、ハンセン病の背景をおおまかだけど捉えることができました。


大髙さんが提示した最も大きな問題、それは明治以降、国家がハンセン病は恐ろしい不治の伝染病であると間違った知識を国民に広め、法律を定め、ハンセン病患者を強制的に社会から隔離・排除したこと。

ハンセン病は完治する病で、適切な治療を行えば後遺症も残りません。遅くとも戦後、らい予防法というハンセン病患者を強制的に療養所へ入所させる法律を廃止する機会は何度もあったのに、平成の時代なってもなおそれを怠っていたこと。

そのために患者および回復者、さらにその家族の心身へ、長年に渡り大きな被害を国家も国民も与え続けた、間違った知識でもって、意識的あるいは無意識的に偏見を持ち、差別をし、彼らの尊厳を長い間ずっと傷つけてきた、ということです。




*資料館*


午後は資料館を見学する時間も設けられていました。特に深く心に刻まれたのは、入所者の療養所での生活の様子の写真です。


入所者数に対して圧倒的に医師と看護師が不足していたため、療養所内で暮らすための作業はほとんどすべて患者同士で補っていました。

戦前は治療薬がまだ日本に入ってこなかったので、ハンセン病患者への〈治療〉とは筋肉へ注射をして、患部を洗って包帯を巻くことだけだったようです。


失明した患者が、桶に棒を入れて汚れた包帯をかき回して洗っている写真。

部屋の中に大量に積まれている洗い終えた包帯の山、それをまた使えるように巻き直す、毎日の気が遠くなるような作業を行う写真。

〈相愛互助〉という名の元に、軽症患者が重症患者の介護をする写真。



土木作業のような重労働も患者自身が担うので、さらに症状は悪化しました。

ハンセン病の、特に皮膚や肢体に出る症状は、知覚麻痺を引き起こします。熱さや冷たさ、痛みに対しても感覚が麻痺し、感じとることが難しくなるようです。

そのため大きな火傷や怪我をしても痛みが鈍いので適切な手当ての度合いが分からず、症状が酷くなり、最悪、患部を切断するケースもありました。



また、運営側が知覚麻痺症状を利用したのかどうかは不明だけど、入所者が過ごす場所も酷い環境だったと分かりました。

例えば現在でも〈負の遺産〉として復元が残されている栗生楽生園重監房の再現展示があったのですが、とても狭くて真っ暗で、ひどく簡素な小屋でした。真冬はマイナス10度以上の極寒の草津に建てられていたこの房の中で、何日も過ごすことで多数の死者が出ました。



入所者のあいだで問題が起きても裁判を受ける権利はなく、館長の判断で懲罰が決まり、見せしめのために監房へ入れられることも多かったそうです。

戦後の日本で認められた民主主義や人としての権利は療養所内には存在していなかった、ということです。



なお、患者同士の結婚は条件付きで許可されていました。条件とは〈断種・中絶〉、つまり子供を残さないようにすること。

多くは妻となる女性を傷つけないよう、男性が断種手術を受けましたが、手術が誤り、女性が妊娠して中絶手術を受ける場合もあったようです。

プライベートな空間はないに等しく、昭和後期に夫婦部屋ができるまでは、結婚といっても複数で暮らす女性部屋に夫となった男性が会いにくる〈通い婚〉でした。



あるひと組の夫婦について、大髙さんが話してくれた内容を思い返しています。

それは休憩中だった看護婦の代わりに、自分の妻の中絶手術を手伝うよう指示された患者さんのお話でした。

妊娠6ヶ月まで育った胎児を、自分の妻の堕胎手術を、夫であり父親である己が手伝わなくてはいけなかった状況をどうか想像してみてください。




*語り部/平澤保治さんのお話*


ハンセン病を発症した14歳のときに入所し、92歳の現在も療養所で生活している平澤保治さんの講演を聞く時間もありました。

平澤さんは療養所の門をくぐってから始まった閉ざされた生活を当事者として語ってくださいました。


初日、到着してすぐ、まず全裸にされ消毒液の浴槽に浸かるよう命じられたそうです。

その後、所内での名前を今後どうするか聞かれたとのことでした。なぜかと言えば、入所者は皆、偽名を使って過ごすからでした。

本名のままで生活すると、故郷の家族や親類に〈迷惑〉をかけることになるからだと。


ここで言う迷惑とは「身内からハンセン病患者が出た」という事実によって周囲の人々から受ける偏見と差別のことです。兄弟は通学できなくなって、親は仕事をクビになって、経済的にも精神的にも追い詰められる家族は多くいたようでした。

平澤さんは提供された食事を「黒い飯」と表現されていました。


そして2日目には、お坊さんに信じる宗派を何にするか聞かれたそうです。聞く理由が分からず平澤さんが問うと、葬式をあげるときに必要だからという答えが返ってきて、そのときに療養所に入る意味を悟り、受けた絶望を語ってくれました。



つまりは、ハンセン病になって療養所に入ることとは、病気を治して社会へ復帰するためではなく、もはや療養するためでもなく、名前を捨てて、故郷や家族とも切り離されて、死ぬまでずっと自分の存在は日本の社会において無いものとされる。そういうことなのかとわたしは受け取りました。



全生園の敷地を歩いたとき、名前の札が掛かった木がたくさん植えられていたのを思い出しました。入所者が植樹したものだと伺いましたが、果たしてその名前は入所者の本当の名前なんでしょうか。『匿名』と書かれた札は、本名も偽名も明かしたくなかったのか、明かせなかったのか。



そう、納骨堂も園内に置かれていた。それは生も死も何もかも全部この場所だけで完結するほかはない、ということですか。


生きることとは、自分の希望を選びとって暮らしに反映させながら進んでいく作業である気がしているけれど、それができないとなると、ここではわたしはそんなふうに考えることを止めなくてはいけないのですね。



しかし、いま92歳の目の前でお話する平澤さんはとても快活で、たくさんの活動を日々精力的に行っていらっしゃる様子でした。

それからこれは本当に驚いたことだけど、講演の終盤、平澤さんは大事な主張と大事な主張のあいだを繋ぐ接続詞的な扱いくらいの口調でさらりと「日本のハンセン病の歴史は財産です」と言ったのです。

大きな反省と課題を残す、国家と国民が辿ったこの歴史を、当事者の方が『財産』と表現することにわたしはすごくびっくりして、心のおもりが上昇していく感覚を覚えました。




もう一度歩いた


一日のセミナーを終え、もう一度、全生園の中を通ってバス乗り場まで向かうことにしました。今日見たこと聞いたことを思い返しながら歩きました。この園の50年後を想像しながら歩きました。

全国に14箇所ある療養所で現在暮らしている方の平均年齢は約86歳だそうです。

らい予防法は1996年(平成8年)に廃止され、ハンセン病はその何十年も前に治療法が確立しているので、今後入所する人はいないでしょう。新しい入所者がいないとなると、50年後に療養所で暮らす人は誰もいないかもしれません。

そのときみんなはハンセン病の歴史を忘れてしまうのかなと考えてしまいます。皮肉なことに、そもそも意識にとめたことが一度もないのなら、忘却の過程すら辿ることはないですね。



わたしは日頃から、なんらかの障害を持つために日常生活をおくることが困難な人との接点がなさ過ぎるなあと感じています。例えばわたしは街中でハンセン病になった人(その後遺症を抱えている人)に出会ったことがありません。

もし見かけていたら外見に驚いて、ちょっとこわくて、見ないふりをするのかもしれません。多くの人はそうです。自分が知らないことはこわいことだから。

こわいのは目の前にいるその人の外見ではなくて、知らないことに出会った自分がどう振る舞えばいいのかわからない、自分自身なんだと思います。


わからないとき「その身体はどうしましたか、大丈夫?痛いですか」と尋ねてみたらその人は「ハンセン病の後遺症なんです」と答えてくれるかもしれません。その病気について知らないなら「ハンセン病とはどんな病気ですか」と聞けば教えてくれるかもしれません。

少しだけでも理解できたなら、こわさはなくなるんじゃないかな。



自分と関係ないことに関心を持たないようにするのは最も簡単で楽な方法なので、長い間わたし達はハンセン病を患った人たちの気持ちに意識を向けることをしませんでした。楽な方法を選んできました。

少なくともハンセン病問題への取り組みについては、何もかもが遅過ぎました。




7月26日この日は、3年前にやまゆり園事件が起きた日でもありました。

事件後、警察署へ「労いの言葉をかけたい」「応援しているから差し入れしたい」と犯人を賞賛・支持する人からの問い合わせが相次いだという事実をのちに知り、気持ちが真っ暗になったときがあります。

人の存在に優劣をつけて、優位に立った(と思っている)側が、なにかが劣っているとか生産性がないから必要ないとかっていう思想で誰かを傷つけたり、その行動を讃えたりするのは、あまりにも貧しくて安い考え方だとわたしは思います。


しかし、殺害された人の家族や親族が被害者の名前の公表を控えたことを考えると、当事者でない人には理解し得ない、とても複雑で難しい事情と感情を孕んでいるような気もします。




だから今回のnoteにわたしはなにか結論めいたことを書くことはできません。

なので、資料館でとりわけ印象に残った大きなパネル展示について、終わりに記すことにします。

〈舌読〉の様子です。



失明した患者が、舌と唇を使って点字書物を読み取ることを舌読と言うそうです。

知覚麻痺により指先の感覚がないため、書物を読むにはこの方法以外にないのですが、技術の取得は非常に困難だそうです。しかし文化に触れたい気持ちから一心に練習を重ね、書物は血の色で染まったとのことです。



   
『風を光に』 /  若松英輔    
点字
小島浩二(近藤宏一の筆名)
ここに僕らの言葉が秘められている
ここに僕らの世界が待っている
舌先と唇に残ったわずかな知覚
それは僕の唯一の眼だ
その眼に映しだされた陰影の何と冷たいことか
 (略)  
読めるだろうか読まねばならない
点字書を開き唇にそっとふれる姿を
いつ予想したであろうか……  
ためらいとむさぼる心が渦をまき
体の中で激しい音を立てもだえる
点と点が結びついて線となり
線と線は面となり文字を浮かびだす 
唇に血がにじみでる
舌先がしびれうずいてくる
試練とはこれか──
かなしみとはこれか──
だがためらいと感情とは今こそ許されはしない
この文字、この言葉この中に、
はてしない可能性が大きく手を広げ、
新しい僕らの明日を約束しているのだ
涙は
そこでこそぬぐわれるであろう
   ­­--­­--­­-- 
(出典/NHKテキスト
神谷美恵子『いきがいについて』)  


*全生園内とハンセン病資料館の画像はこちら→ 多磨全生園とハンセン病資料館の写真集




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