原作未読了・映画「ハーモニー」について

原作未読了の状態で映画「ハーモニー」を観ました。原作、特に「虐殺器官」を読んでいるかたにとっては「なーに言っちゃってんだよ」と思われることも多いかと思いますが、敢えて現時点で思ったこと、考えたことなどを書いていきたいと思います。「ハーモニー」を未だご覧になっていないかたは読まないほうがよいと思いますのでよろしくお願いします。

「ハーモニー」については、トァンがミァハの母親を訪ねるあたりまでを原作で読んでから劇場へ足を運びました。

優しさや慈愛が人を絞め殺す社会。関係のない人の死や不幸までまるで自分のことのように受け止め、憐れんだり悲しんだり心を痛める社会。この社会に生きる人々は、まさに私自身のことであり、身につまされる思いがしました。かつて私は3.11の際「なぜ、流されたのが彼らで私でないのか」について深く考え、苦しみました。生き残ってしまった、彼らのほうが社会にとって意味があったのにどうして、という思いでいっぱいでした。その後、私はクリエイターの創作活動を支援する活動を行いました。自分自身の貯金から投資もしましたし、差し入れもしました。

これが果たして優しさなのか、なんなのか、自己承認なのかよくわからずに自分の信じる正義をふりかざし、ときにはクリエイターさん自身から「私はかわいそうではない」と怒られたこともありました。

優しさとは何なのか。思いやりとは何なのか。私は人を思いやるふりをして、自分を認めてほしかっただけなのかもしれません。

自分の話はさておき、「ハーモニー」の話に戻りましょう。ミァハの「私は私のもの」という考え方には非常に共感します。管理されて家畜のように飼い慣らされれば、安全で長生きができ、平和な社会を生きていくこともできるでしょう。ただ、「私」という人間が誰かのものになってしまうことに、私はどうしても耐えられませんでした。幼い頃より、「嫁ぐ」ということに違和感を感じ、「私」が別の家の「物」「誰かの物」になってしまうことに耐え難い苦痛や不安を感じていました。実際に、結婚式の衣装合わせの際には花嫁姿の姿を見てショックを受け、悔しさでこのまま舌を噛み切ってしまいたいという衝動を覚えました。涙があふれ、式場のスタッフを困らせてしまったのを覚えています。

また、「死」と「意識がなくなる」ということの関連性も非常に興味深く思いました。「死んでしまう」ということは「意識がなくなる」ということで、そのことを考えるだけで恐怖します。ただ、「意識がなくなる」という状態は「眠っている」状態と同じ状態です。なぜ「睡眠」は怖くないのに「死」は怖いのでしょうか。バスに揺られながらうっすらと考えていたのは、「睡眠」はいつか醒めることがわかっているから「死」のように怖くないのだということです。「死」は「永眠」という名のとおり、「永久に」眠ることです。

ミァハは「意識がない」状態で生きる種族の子どもで、意識がない状態こそユートピアだと考えましたが、私も同じようなことを考えていました。人間全体ではなく、「女性」についてです。ミァハのように「私は私でいたい」という「意思」を持つ「女性」は種の保存にとって大切な「生殖」の邪魔でしかありません。私も然り。「生殖」を最大限に行うためには、女性に意思は必要がない、ないほうがスムーズだと考えることがありました。この考え方は一部のかたを不快にするだろうし、フェミニズム的だというかたもいるでしょう。ただ、私は感情的にではなく、客観的に一つ引いた目線から見て上記のように思うのです。

「健康管理を完全に行われたどこの誰だかわからないような他人の心配までするような親切心であふれた完璧な世界」よりも「意識がない」世界こそユートピアだと唱えたミァハの考え方にはとても共感します。

私のように若干、自分自身の感覚が混ざった感想もありだとは思いますが、もっと科学的な観点からの感想がありましたらぜひお聞きしたいと思ってここに記しました。原作のほうは読み進めていきたいと思います。「虐殺器官」のほうも未だなので「ハーモニー」の感想など書いてしまい大変恐縮です。

「ハーモニー」をご覧になったかたがいましたら、コメントをいただけますと幸いです。


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