「3.11.」に思い出すこと。

12年前の3月11日、私の記憶では午後3時少し手前、
今思えば2時45分過ぎのことでした。

あの日は確か、金曜日だったのを記憶しています。


私は、母と自宅で、大河ドラマ『篤姫』の再放送を見ていたところでした。

細かく静かな横揺れが始まりました。
そう言えば、あの当時は、やけに小規模の地震が多かった気がします。

大抵、十秒かそこいら、長くても数十秒で収まる、
…そのはずでした。 



いつになくの、奇妙に長い横揺れから、
いきなり「ずぅん」という感じの、家屋が下から土台ごと蹴飛ばされたような縦揺れがあり、
ややあって、大河ドラマを映しているテレビの画面に
テロップの地震速報が流れました。

間もなく画面が切り替わって、
東北地方を示す部分が、

…震度6以上を示す意味だったかどうかははっきりとは覚えてはいませんが、

とにかく、福島の手前の茨城県あたりから上が、赤一色に塗り潰された日本地図がしばらく映し出されたあと、

テレビも、暖房も、
家中のありとあらゆる電子機器が、一斉に動きを止めました。


慌てて、手元の携帯電話の画面を開きました。
そこで得られた情報は、現時点では、きちんとしたことは、おそらく誰も、少なくとも堂々と情報発信できる程には分かってないのだろう、…ということくらいでした。

電池で動く式のポケットラジオを点けてみました。
私が住んでいる南関東の一地域だけではなく、
東京の街なかでも大規模な停電が発生し、公共交通機関も全く動かず、交通信号も手旗である…とのことでした。


暖房が切れて20分から30分もすると、室温が明らかに下がってきました。

取り敢えず、当時、昔よりも肉が落ちたせいか、寒さが容易にこたえるようになっていた母が買い溜めて用意していた、貼るタイプの使い捨てカイロを、お互いのインナーの背中に貼り、
その上から中綿の入った上着を着て暖を取りました。

それと、夜に備えて、いつだか頂いた到来物の、
クリスマスにでも使うような、燭台付きの、可愛らしい絵柄まで入った特大の蝋燭と、着火用のマッチを用意しました。


その日の夕飯の調理は、うちの場合は幸いガスが使えたので、
作ったばかりで、鍋に半分以上残っていたお味噌汁に
(ちなみに、我が家のお味噌汁は、元々は母の母、つまり我が母方の祖母以来の「伝統」で、やたらと具沢山です)

電気の切れた炊飯器に残っていたご飯と、
こちらも電気の切れた冷蔵庫にあった生卵で、
味噌味の卵入り雑炊にしました。

いつもなら「我ながら手抜きだ…」と思うところですが、
その時ばかりは、雑炊の温かさがしみじみ有り難かったです。


夕食を済ませてから、懐中電灯を手に外に出てみました。

普段点いているはずの街の灯りは、
ただ高層ビルの航空障害灯を残して、見事なまでに、ひとつも灯ってはいませんでした。

点すべき灯りを失った地上の様子を知らぬ気に、
夜空の星は、普段よりもずっとはっきりと光って見えました。

もうカシオペア座のWではなく、
大熊座の柄杓で北極星の位置が判る季節になったのだ…ということに、
迂闊にも私はその時になって気が付きました。

北斗の七星を漢名で辿り
(もっとも、呼び方もひとつではなく、様々あるらしいですが)、
普段、肉眼でははっきりと見えない、
武曲(ミザール)のすぐ脇の輔星(アルコル)を見つけて、「本当にあるんだ…」としみじみ思ったり。

(後から思えば、成井豊氏の戯曲『広くてすてきな宇宙じゃないか』の世界だったな…と。
…もっとも実際には、その手のことはそうそう有っては困りますが)


寝る時には、捨てそこねた2リットル入りのペットボトルにお湯を詰め、念入りに蓋をした上で、
大きめのビニール袋に入れてよくよく口を縛り、その上からバスタオルに包んだものを
「湯たんぽ」の替わりにして眠りました。

枕元のラジオの音も何もない、ひたすらに静かで真っ暗な夜でした。



今思い返すと、あの日はむしろ「始まり」に過ぎませんでした。



余震と、そのたびに鳴り出す携帯電話。

計画停電。

食料品の入手困難と購入制限で、毎日自転車で、かなり遠くまで買い出しに行ったこと。
また、その食べ物に対する不安。
ひいては「この国」に対する不安。


3月最終日曜日、お昼過ぎのFMラジオで、
果てしなく思われる程に延々と読み上げられる、
自分と同じ姓を持つ行方不明者の方々のお名前。

(父方が元々東北の出身だそうでして。私の本名の名字は、あちらではごくありふれたものなのだとか)


思い出すままの、あまりにミニマムなお話にて非常に申し訳ないのですが、
南関東の片隅にいた人間も、当時、様々に物を思いながら生活しておりましたのです。

あの時、東北だけが揺れた訳でなく、関東も揺れましたし、
その余波は、各方面に及びました。
そして、その影響は、今現在も確実に残り、
場合によっては、いまだに不幸の拡大再生産が続いています。


最後に。
あの震災が原因で、大変な思いをされた、また現在進行形で大変な思いをされている方々が、
せめてこの先、一日でも多く、心穏やかな日々を送られんことを。

そして、亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


2023年3月11日

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