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胡瓜

今日は朝から、胡瓜ばかり食べている。

生で。

塩もみをしていないのでとても硬い。


頭に噛み付いてばきっと折る。

がりがり、ごりごりと口の中で音が鳴る。

大きなかけらを小さくするのには、そこそこ顎に力を入れなくてはいけなかった。


でもそれが心地よかった。

前歯で噛み切ったかけらを、奥歯で噛み砕く手順に集中できる。

余計なことばかり考えてしまう前頭葉を、

胡瓜の砕ける音が支配してくれる。


涼やかな青臭さが鼻から抜け、喉の奥に落ちる。

口の中は空になった。


先のない胡瓜の頭を見つめ、噛み付く。

かぷっ


ばきっ

ごり、ごり、ごり、ごり

がり、がり、がり

しゃく、しゃく


ごくん








かぷっ

ばきっ


ごり、ごり、ごり、ごり

がり、がり、がり

しゃく、しゃく


ごくん









かぷっ


そういえば、胡瓜の95%は水分らしい。


ごり、ごり、ごり、ごり


こんなに硬くてごりごりしているのに。

このごりごりは5%の部分なのだろうか。


がり、がり、がり


座禅とかしてる人に胡瓜を配ったら、

みんなすぐさま悟りの境地に行ける気がする。

呼吸とか、あんまり集中してやるものでもないものに意識を持っていくのは至難だが、

胡瓜を食べることに集中して無心になるのは

比較的難しくないと思う。


しゃく、しゃく


あと食べることに集中できそうな食べ物と言ったら、蟹とかか。

秋刀魚とかも行けるかもな。


まあでも、どっちもコスパ悪いし、

やっぱ胡瓜だな。胡瓜が一番だ。

カロリーも低いし。


ごくん


右手の中にあった胡瓜は、

その姿を消していた。


もう一本、食べ終わってしまった。

すぐに立ち上がり、冷蔵庫に向かう。

縄が頭にぶつかって鬱陶しかった。


扉を開く。


ブーン、と稼働音が薄く響く。

真夏の気温に負けないように、

今日も冷蔵庫は一生懸命働いている。

そりゃあ、音も出るよな。


中には、まだ5、6本の胡瓜が山となっていた。

そのうちの一際大きな一本を掴み、取り出す。


振り向いて居間に戻ろうとすると、

ベランダと部屋を隔てるガラス戸越しに、空が見えた。

怖いほど鮮やかな青色をしている。

雲一つない晴天とはこのことだ。


カラカラと、乾いた音を立てて戸が開く。

途端に、熱を持った風が吹き抜けた。

熱くはあるが、どうやら水分を持たないらしいので、それほど嫌な心地はしなかった。


窓の下には河川敷が見える。

越してきた時には、都会の河川敷の広さに驚いたものだ。


初老くらいの男性が、川沿いの歩道を歩いているのが見えた。

大柄な男性と不釣り合いなほど小さな洋犬が、

彼の左手から伸びる紐につながれている。


のしのしと歩く男性のおおきな一歩の間に、

犬はくるくると懸命に4本の足を回転させている。


ほど近い中学校の校庭からは、金管楽器の音が聞こえていた。

プア、プアと二吹きほどしたのち、音は旋律となる。


暫く奏でたと思えばすぐに止む。

練習中のようだ。


確かめるように、

踏みしめるように、

プア、プアと途切れ途切れに、

音は鳴り響く。


なんだか心地いい。

自分が、社会から外れた地点から、

その様相の一端を見ているようで。


部屋に戻り、ガラス戸の前に座り込む。

窓からは相変わらず、乾いた熱風が吹き込んでいる。

中途半端に開いたレースカーテンがなびく。

影が、足元で生き物のようにうねっていた。


ガラス戸の向こうで繰り広げられている光景は、聞こえてくる音は、

私が存在していても、存在しなくても、何も変わらない。


まるで、

穏やかな日常を切り取った映像を、

アルミ製の枠で縁取られたスクリーンで見ているようだ。


ああ、私はそこに、参加しなくてもいいのだ。

私は、無理に私でない何かにならなくて良いのだ。

そう思えた。

すっと、胸のすくような感覚だ。



やっぱり、今日にしよう。

今日は、いい日だ。


居間を振り返る。

中央には椅子と、その上に縄が垂れ下がっている。

縄の先は大きめの円をつくり、結び目は固くきつく、結ばれていた。


死ぬには、いい日だ。


思えば、天井に縄を括り付けてからもう随分経つ。

あの縄を見るたび、

今日こそは、と思いながら日々を過ごしてきた。


でも、

自分が括られている光景を想像すると、吐き気がして、動悸が止まらなくなる。

目眩がして、その場からしばらく動けなくなる。

怖くて、怖くて、仕方がなかった。


今、それもやっと、吹っ切れた気がする。

今日なら、死ねる気がする。


右手の中で、わずかに何かが潰れる感覚がした。

はたとして、目を向ける。

青青とした胡瓜が、手のひらの上に転がっていた。

食べようとして取り出したのだった。

手元の部分には、少し亀裂が入っている。

無意識に力が入ってしまっていたようだ。


このアパートの大家さんが

いっぱい取れたから、

と言って、くれた胡瓜だ。


大家さんはアパートに隣接した庭で、野菜を育てている。

少し遠いが、畑を持っている、とも言っていた。

収穫した野菜を、いつも私などの住人に分け与えているのだ。

おすそ分けは大抵、一人暮らしの私には多分食べきれないだろう、という量だった。


毎回、食べきれないと思いつつなんとなく受け取ってしまう。


おそらくだが、

他人から好意を受け取ることの少なかった私にとり、

この胡瓜は、

大家さんという存在は、

貴重なものなのだ。



無意識的に、この貴重な存在や体験を、

無下にはできなかったのだと思う。


件の胡瓜についても、

死ぬ前にできるだけ消費しよう、と考えていた。


決心が揺るがぬうちに実行に移したかったが、

せめてこの胡瓜は食うか、

と思い直した。


縄を避けて椅子に腰掛ける。

胡瓜を見つめる。

いぼいぼのへさきは、濃い緑のビリジアンだ。

先ほどまで口の中にあった、かけらの食感が想起される。

これが、最期の食事か。


かぶりつこうとした、その時だった。



ガチャリ



突然、玄関のドアが開いた。


我が家は、玄関からベランダへ一直線の通り道で繋がった作りになっている。


おかげで、

開かれたドアの先に立つ、男と目が合った。


短髪で色白、黒いスウェットの上下を着ている。

顔は普通。冴えなくもなければ、イケメンでもない。

見たことのない顔だった。


いや、なんとなく顔に見覚えはあるかもしれない。なんとなくだけど。


まあ、そんなことはどうでもよかった。

詰まる所、男は手に刃物を持っていた。


刃渡り15センチほどのそれは、

薄暗い部屋に差し込む弱った日光を反射し、

鈍く光る。

切っ先はこちらを向いていた。


男の目的は不明だが、

強盗、強姦、殺人、その他もろもろの、

私にとって良くないことをしでかそうとしていることは想像できる。


私は、今日死ぬと決心できていたからか、

自分でも驚くほど落ち着いていることに気づいた。


殺意を込めて刃物を向けられているのに、

慌てることは全くなかった。


むしろ、

よりによってうちに来んのかよ。

とすら思ってしまい、

吹き出しそうになるのを堪えたほどだ。



男は、

部屋の中央に設置された椅子と、

その真上から伸びる縄から何かを察したのか、

ひどく狼狽している様子だった。



えっ?

あっ

あっ…



…あっ、きゅうり…?


男は途切れ途切れにそう呟くと、

勢い良く扉を閉めた。


私は我慢できず、そこで吹き出した。


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