「ズレずに生き抜く (山本一郎・著)」を読んだ

家でネットやってたらfacebook越しにDMがきた。やまもっさんからだ。今度本を出すので献本したいから住所を教えてくれ、という。程なくしてその本は届いた。

良い本だったのでみんな買おう (感想はのちほど)。


こっからは単なる思い出話なので、興味ない人は読まなくていいです。


やまもっさんは本名を山本一郎といい、2011年頃までは「切込隊長」というハンドルネームならびにペンネームを使って活動していた。

それまでぼくは彼のことを「隊長」と呼んでいたのだが、彼が「切込隊長」という看板を下ろして以降はネットでは「やまもっさん」と表記し、会えばそう呼んでいる。

やまもっさんを初めて知ったのはインターネット掲示板「2ちゃんねる」だった。現在映画評論家・デザイナーなど、広いレンジで活動している高橋ヨシキが開設していたホームページ「Inferno Prison 残酷女刑務所(現在は閉鎖)」に設置されていたCGIチャット、「ゲシュタポチャット (名無しで入室するユーザは「ユダヤ人」と表示された)」でテレホタイムにやりとりをしていた際にその掲示板の話が出たので、URLを教えてもらってアクセスした。昔から2ちゃんをのぞいている人向けに時期を説明すると、「トップページにマウスでリアルタイムお絵かきができる領域があって、入ると右カラムが上下二段に分かれていた」頃の話である。2000年くらい。ぼくは九州の田舎で暮らしつつ、ネットサーフィンに明け暮れる日々を送っていた。寝てる間は「波乗野郎」がぼくの代わりにサーフィンしてくれた。ありがとう波乗野郎、君を忘れない。

2ちゃんねる自体の話は置いといて、ビデオゲーム好きだったぼくはそこでやまもっさんが書いていたゲームのコラムを見つけ、その文章に衝撃を受け、罵倒文句はこうやって使うのか!! と目からウロコも落ちた。さっそくYahoo!で検索し (その頃は検索といえばYahoo!トップページの窓からだった)、「死体置き場」というタイトルのホームページを見つけた。さっきから不穏当なネーミングのコンテンツしか出て来ないが、当時はそういう殺伐としたものがぼくは好きだったのだ。

「死体置き場」は現在山本一郎である彼の(つかずっと山本一郎だけど)切込隊長時代の彼の人となりを知ることが出来るサイトだった。今とは結構文体が違い、かつてホームページを開設したことがあるものなら誰もが通る、備忘録スタイルのテキスト群であった。

当時からITや政治や金融の話を書いていて(それは彼が関わっている日常でもあったのだが)、高卒のぼくでもなんだか読んだだけで頭が良くなった心持ちになれたし、2ちゃんねるで読んだゲームのコラムとは違う、世の中のどうにもならないせちがらさが書き連ねられていて勉強になった。

さらに調べると彼は「切込隊詰所」というインターネット掲示板(BBS)を持っていたのでそこへ飛び、彼に興味がある他のインターネットユーザと交流した。切込隊長(煩雑になるのでここからしばらく当時の呼び名で書く)は時々きまぐれに各スレッドへ「光臨」し、「うるせえバカ」とか「まぁがんばれ」とか心のままにレスして、ぼくを含めレスの対象者となる者たちはたいそう喜んだ。

そうやって彼を追っていたのだが、ある日「バンドでも組もうかと思う」という感じの書き込みがあり、ついては3曲入りのCDを出すのでジャケットデザインを募集する、という。当時パチンコ屋の開店チラシとかを作る仕事を請けていたので、デザインに止まらず入稿するまでお手伝いできるかと思い、指定された画像掲示板にバンバン貼り付けていたらその中のひとつが採用された。

「やさしさ」というアルバムタイトルだったのでそこから思い浮かぶイメージでいろいろ作ったが、採用されたのは自宅にあったコンドームをキャプチャし、トリミングしてタイトルとバンド名を置いたシンプルなデザインのものだった。これを採用する、という発表が掲示板であり、担当者である丸尾という男からメールが来て、印刷用に再度これこれこういう規定で画像をいただけるか、という内容が書いてあった。ちょっと手を加えて再送し、ついでに「どうせなら歌詞やクレジットが載るインナーや裏表紙のデザインもやらせてもらえないか」ともちかけた。是非是非、という返事が来たので記載事項一切のデータをもらい、イラストレーターで表裏作って納品した。

しばらくして、掲示板の常連でオフ会を開きます、というスレが立った。その時はWEBデザイン仕事してた会社の社長が飛んで給料が振り込まれないということがわかり、あわてて日払いの土方仕事の面接を受け、その日食う分の日銭を稼いでいるというつまらない毎日を送っていたので、これを逃したらもう面白いことなんか当分起きないと思い、手配師にオフ会の前後含めた3日ほど休みたいと告げ、東京へ向かった。

オフ会の場所は人形町の「どれ味 (現在は閉店)」という鉄板焼き屋で、事前に調べた地図を片手に向かったのだが、オフ会の参加者はすぐに見つけることができた。それは彼らが路上でノートパソコンを広げてネットサーフィンしていたからで、なるほど東京のインターネッターはワイルドだぜ、と思った。声をかけ、あいさつし、時間になったので店に入った。

改めて自己紹介などしつつお好み焼きを焼く準備をしていると、追加メンバーが入店して来た。切込隊長その人である。忙しくて参加できない、という話だったからびっくりするとともに緊張が全身を走ったが、同時にとても嬉しかったことも覚えている。その場で何を話したかまでは覚えていないが、覚えていてもどうにもならない感じの駄話に終始していたと思う。隊長は「ぼく山芋アレルギーなんですよ」とカミングアウトしつつも山芋入りのお好み焼きをモリモリ食う、サービス精神のある男だった。

折角なので二次会としてカラオケに行こう、ということになり、最寄りのカラオケボックスに入った。2時間ほどの間、ぼくはとにかくその場でウケそうな曲をガンガン歌った。もうたぶん二度と無い時間だから「あのときあんなやつがいたなぁ」程度に参加者が覚えていてくれたらいいなぁ、と思っていた。

お時間が来て、エレベーターホールにてみんなで記念写真を撮ろうということになったが、当然ながらカメラマンをすると映れなくなってしまうので、我々は代わる代わるその役をしてオフ会は終わった。

帰りしな、結構酔っ払った隊長から、

「お前田舎で何やってんだよ、東京出てこいよ」

という言葉をかけられた。来た甲斐があったし、彼から何とかその類いの言葉を引き出そうと自分が振舞っていたことは否めない。


田舎に帰ると、自分勝手な休みを取ったことに対する見せしめとして、土方の現場から数日干された。

当面のおかずとなる、カレールーをお湯で溶かしただけの鍋をかき混ぜながら、

「どうせ死んじゃうなら東京行ってみようかなぁ」

と考えた。2003年、4月のことである。


2019年、現在。

...ということをnoteに書いてたら、9時。

今住んでる高円寺のアパートから丸ノ内線使って赤坂のIT企業へWEB運用仕事しに行く時間になったので、続きは帰ってから書きます。

- つづく -
- つづき -

とはいえ、いざ現実に帰還せん、と気持ちを切り替えて再度日常と対峙すると、上京するにせよ解決しておかなければならない諸々が目の前にあった。数日悩んだが、結局上京することにした。

家にはそれまで撮り溜めてきたVHSテープが百数十本と、それを再生するためのビデオデッキとハイビジョンテレビと、またPSにサターンにスーファミ、それから数本のギターとアンプ、PC一式、そして生活用品などがあったが、欲しいという人にはそれらをあげて、残ったものは車を借りて市営の焼却場に乗り付け、全て焼き払ってもらった。

当月の家賃が担保する期日までまだ日があったので、部屋自体を引き払うあれこれについては近くに住んでいる弟にまかせ、お世話になった人に上京する旨メールにて挨拶し、仕事と並行して請けていた今は無きモバイトの事務所へ日銭を取りに行き、その金で東京までの片道切符を買い、バッグに数日分の下着と、おそらく向こうでも使うであろう土方用の作業着を詰めた。

WEB屋の社長が逃げたあとも、何とか食える程度の仕事を振ってくれたデザイン会社の人が、明日立つなら今晩壮行会をするから呑もうよ、とバーへ誘ってくれた。席にはそこで知り合った常連さんもいて、30半ばにして裸一貫で上京するというぼくの話を聞いてびっくりしたあと、酔いも回ったのか、

「でもさぁどうする? これできんたまくんがあっち行って連載のひとつも持つみたいな感じになったら?」と言った。

後述するが、その夢は叶う。彼には悪いことをしてしまったかもしれない。

もう会えないというから来ました、という女と部屋を出る前にセックスをして、上京する途中でヤフーチャットで知り合った、お金がないなら泊まっていけと言ってくれた名古屋の女とセックスして、ぼくは東京に着いた。我ながらモテ期だった。

着いた日は隊長のバンドがライブ兼インターネットラジオの公開収録をするということで、現場である渋谷のライブハウスへ向かった。

出迎えてくれたバンドのギターである池田くんの第一声は、「ホントに来たんだ...」だった。CDを聴いて曲は確認していたものの、隊長のバンドである「キッチンガイズバンド」の演奏は、ボーカルのfalcoを除いて、みな卒倒するくらい下手くそだった。おいお前、切込、切さんよ、あんたギブソンSGレフティ仕様抱えてSPA!の「エッジな人々」でインタビューに答えてたじゃねえかよ。この人ギター弾けるんだ、と思うじゃねえかよ。演奏曲、相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」のカバーがそこそこできてるのは褒めてあげるが、あの曲フェードアウトだからどうやって終わるか決めてなかったろ、みんながみんな終わらせ方分かんなくて顔見合わせてんじゃねえかよ、8小節目にドラムがフィル入れねえからまた8節伸びたじゃねえかよ。相川七瀬無間地獄か。ループ終了の条件コマンド書いてないプログラムの悲哀を音楽で表現したいのか。

ライブ終わりに出待ちして、一応隊長に挨拶をした。「出てこい」という発言を担保に「出てきたのでどうにかしろ」というのも無粋なので、その日はオフ会で知り合った隊長ファンのおっさんの家に泊めてもらって、仕事決めたらすぐ出て行きますからと求人案内で住み込みの新聞配達の求人見つけて王子から中延まで面接にいってその場で落ちて、帰る途中で財布無くして戸越の公園で蚊に食われつつ野宿して、次の日目黒まで歩いてたまたまポケットに残ってた30円使って近くで働いてたネット仲間と連絡がついて目黒駅前で待ち合わせて交通費を借りたついでに居酒屋で奢ってもらって丸一日食ってない腹を満たしたが、いゃああん時は人の情けが心に沁みた (落語「甲府い」の豆腐屋店主のような口調で)。

その後別の隊長ファンから住み込みの道路工事の仕事を紹介してもらい、等々力渓谷あたりの住宅街のアスファルトを敷き変えていた。しばらくして、上京初日に泊めてもらった王子に住んでいる隊長ファン(おっさん)から「htmlが組めるスキルがあるなら、4畳半一間だが会社のアパートの上の階にある部屋を社宅として抑えるのでうちで働いてみないか」というありがたいお誘いをいただいたので飛び乗り、減価償却済みで廃棄扱いとなった会社のPCとモニタを譲り受け、NTTと回線契約をして自室にインターネット環境を整えた。

その頃隊長から「落ち着いたようならうちに顔出さないか」というメールがあり、当時彼のオフィス兼自宅であった溜池山王まで出かけた。

実は彼のホームページの手入れをまかせたい、という仕事を振られていたのだが、触ってみると肝となっているのは彼のエントリ更新だったので特段することもなく、この程度でお金もらえないなと思って先払いで受け取っていた1万円を返した。ただ返してもつまらないので、昔ファミ通の投稿で採用された時にもらった金と銀のガバスを利子として付けた。

当時隊長がホームページとしていた「俺様キングダム」は、2004年あたりはぼくがデザインとコーディングをやっていて、出来としては今のぼくがソース見たら当時のぼくを無言でひっぱたき、「いちからやり直せ」とCドライブをフォーマットしてOSインストールからやり直させたくなるくらいお恥ずかしいレベルのものだったのだが、隊長の著書「けなす技術」の表紙右上にそのトップページがあしらわれているのでみんな買って確認しよう。

そうしてその王子にあるWEB会社で細々と暮らしてはいたのだが、チームリーダー兼営業の人が全く仕事が取れなくて、出勤してもやることがない日々が続き、雰囲気的にも居辛くなったので辞めることにした。

その当時、隊長がぼくのことを数行書いてくれたのが以下の本である、みんな買おう。探せばどこかに「俺の言葉を真に受けて田舎から出て来たバカがいる」というくだりが出てくるはずだ。

前後となるが、ぼくが会社を辞める前の時期、隊長は新宿ロフトプラスワンにて「大日本ビール党党大会」というオールナイトイベントを打った。要はあの当時ネット界隈でうろちょろしてた人たちがオフ会よろしく集まって酒を呑む、という内容ではあったのだが、2ちゃんねるを知るきっかけとなった高橋ヨシキのオフ会である「東雲会」にて、「東京にはこんな、田舎じゃさかさまに振っても一文も出てこないサブカル話でお金を取る場所とイベントがあるんだ!!」という衝撃と感動に打ちのめされていたので、メールで「ちょっとでいいから舞台にあがってプレゼンがしたい」と伝えると快諾してくれた。結果出演は深夜2時くらいからのMax30分くらいだったが、この時間帯は例えば徹夜麻雀しててもダジャレひとつで笑いが止まらなかったりする時間帯なのでぼくのコーナーは大いに受け、これをきっかけに以降ぼくはビール党イベントのサイドキックとして出演するようになる。

ビール党のイベントはその後も続いたが、突然現れたぼくを快く思わない連中も多少なりいて、やれ提灯持ちだのなんだの言われたので面倒臭くなって一度降りたが、隊長本人から「またやろうよ」というメールが来ると断れず、その後も数回出演した。

その頃仕事は秋葉原でソフマップのメールサポートをしていたが、住んでいたシェアハウスを追い出されて宿無しとなり、これまた別の隊長ファンの人から声をかけてもらって日暮里のマンションに居候することとなる。

幸運にも雨風しのぎつつ仕事が出来ていた2004年の暮れ、いや2005年明けてすぐだったか、隊長からメールが届いた。

「今度光文社で連載はじめるんだけど、今決まってるイラストレーター飛ばすからお前挿絵やんね?」

当時暇を持て余していたぼくは自分のPCでバカコラを作ってはネットのあちこちに貼りつけるという日々を送っていたのでそういうものならできるかもと思い、話を聞いてみることにした。担当となる週刊フラッシュ担当編集山崎さん(よっしー)とは、隊長と一緒に新宿の焼肉屋でお顔合わせさせてもらったと思う。企画書を見せてもらった。

条件をひとつだけ出して、それは今ハンドルネームで使っている「きんたま」を、ペンネームとして使わせてほしい、というものだった。理由は、自分の名前すら「きんたま」と書けないようなら、大して過激な表現はできないだろうから。よっしーはそれを聞いて、「うーん、でも「きんたま」だけだと意味わかんないんで、うしろに「画伯」をつけて「きんたま画伯」って名前でもいいですか? 連載のタイトルが「ネット人民共和国」だから、画伯を名乗れば挿絵もそれっぽくなるし」と提案し、アイデアも響きも良いので承諾した。かくしてここに「きんたま画伯」が誕生したのである(ちなみにぼくのアイコンは、そのよっしーが連載中に中国に出かけた際お土産として現地の人に「きんたま」と掘ってもらった判子の印影を取り込んで使っている)。

とりあえず3ヶ月の期間限定連載で、ギャラは一回につきこのくらいです、と提示された。3ヶ月やれば、居候しているところから引っ越せるくらいの金は貯まるな、という額だった。自分で持っていると使ってしまうので、ギャラの振込先となる口座の通帳と印鑑を隊長に預けたら、呆れた顔をされた。

3ヶ月限定だったはずの連載は「好評なのでもうちょっとだけ続けましょう」ということになり、とりあえず期限を定めない通常連載となったが、居候していたマンションの主ともちょっとした軋轢ができてしまい、「そろそろ出て行ってほしいんだけど」という内容の長文ダメ出しメールをビール党のグループメール宛で受け取り「ごめん、宛先グループメールだったわ」とあからさまな居候戦力外通告を関係者も知るかたちで宣言されたので、それを受信した次の日に「犬であろうが金さえ出せば部屋を貸す」という噂のあった上野の不動産屋に行って物件を探し、「川を越えると安くなりますよ」と勧められたので住まいを足立区の竹ノ塚に決め、隊長に預けてあった通帳を返してもらって金を下ろし、賃貸契約を結んだのち数日かけて荷物を電車で何度も往復して運び、引っ越した。

フラッシュの連載は一度終了となったもののなぜかまた再開して、結果足掛け4年ほど続いた。その間にぼくは2ちゃんねるとビール党を通じて知り合った女性と同棲して、結婚して、子供を授かったので目黒区の池尻大橋へ転居していた。彼女のご母堂様から「子供を育てるなら、何かあった時に近くに頼れる人がいた方が良いから、うちの近くに引っ越して来なさい」と言われ、敷金礼金を出してもらった。2DK+20平米の庭がついた、管理人常駐のマンションに住んだ。

ある日、突然編集よっしーが遊びに来たいというので招き、「連載終わるんでしょ」とカマをかけたら「いえいえいえまだまだ続きます」と言ってはいたがぼくの勘は当たり、程なくして連載が終了する旨連絡を受けた。別によっしーのせいではないので早速他の仕事を探すことにしたがなかなか見つからず、隊長のバンドでギターをやっていた池田くんが独立して社長になっていたので相談に行ったら吉本∞スタジオの裏方の仕事を振ってくれて、やってる途中にヤマハの音楽ライター仕事も紹介してくれて、それらを並行しつつ一年ほど頑張ってみたのだが、諸事情あって当時もらっていた以上の月収を稼がねばらず、精神的に不安定な状態でヤマハさんに頭を下げ、ライターをやめさせてもらった。

そんな中、隊長は新居に奥さんを連れ立って遊びに来てくれた。当時新婚だったから、2008年の出来事だ。差し入れにワインを持って来てくれて、当時の妻が作った料理をみんなで食べて、生まれた息子と一緒に写真を撮ってくれた。当時彼の会社は渋谷にあって、ロッキン・オンも入ってるビルだった。これから会社の呑み会なんだよ、と話すとそれを聞いた当時の妻が「これも縁だからあんたも顔を出して、社員さんと仲良くして働かせてもらいなさい」と言い、そこへ行くことになったのだが、自分の頭の中にあったのは「絶対に"入れてもらえないようなやつ"だということをその場にいる人間全員に叩き込む」という想いだった。記憶がなくなるほど呑んだのでその後どうなったのかは当時の妻から聞いただけだが、「私と息子を置き去りにして勝手に帰って、「残念だけど彼をうちで働かせるわけにはいかない」と誰もが思う程度の狼藉をした」らしい。このあと、ぼくはいよいよ不安定になって、東京武蔵野病院に2週間ほど任意入院し、太宰治の「人間失格」を与えられたベッドの上で読みふけるという新手の聖地巡礼も体験している。

そのくらいから、隊長にリアルで会うことはほとんど無くなった。仲が悪くなったわけではなくて、連載も終わったし、ビール党もやらなくなったし、かつてぼくがサイドキックだったポジションは中川・"TBSラジオ生放送で泥酔暴言"・淳一郎さんが務めるようになり、そこで話す内容はぼくの守備範囲外のテーマだったからだ。分かれ道をそれぞれで選び、元々進むはずだった道を彼は歩き始めたのだと感じたので、自分は自分でがんばることにした。

これからどうやって食って行くかということで頭がいっぱいだった。仕事が見つからず、政府の緊急雇用対策支援に乗っかって職業訓練プログラムに通っていた。月12万の支援手当てを頼りに、どう考えても今この部屋に集まっている人たちがこんな短期間でマスターできるわけないだろ、という内容の授業を受けていた。

そんな中、登録したことさえとうに忘れていた派遣会社から連絡が来た。通常の派遣は大抵3ヶ月更新なのだが、クライアントが独立行政法人のため入札扱いとなり、むこう3年間働けるという。即答でお願いした。その独立行政法人は、理化学研究所という名前だった。

和光市の理研で通算6年、事務員向けイントラサイトのWEB屋として働いた。途中で所内向けWEB広報誌コンテンツの記事を書くようになり、取材と称して横浜や神戸の理研にも行かせてもらった。仕事で扱う文書の半分が英語だったのでいい機会だからと勉強したら、英検は二級まで取れてTOEICは680前後まで伸びた。しかし中でも一番の思い出は、ガチでノーベル賞取ってる理事長が持って来た、本物のノーベル賞メダルを手に記念写真を撮らせてもらったことだ。ギャグでしか使ったことがなかったその本物は、ズッシリと重かった。

個人的には実りの多い期間だったが家庭は冷え切っていて、別居したのち2011年に当時の妻とは離婚している。

6年間でWEBのスキルも向上したが、なにぶんイントラサイトなので新しい技術を導入したりUI/UXに改めてかける予算も割り振られていなかったので3回目の契約を更新せず、満期終了というかたちで収めてもらった。新しい技術やスキルを仕事で身につける機会がなければ、この先いよいよ選択肢は無くなる考えていた。

理研で働いていた、というカードは強く、こちらの返答待ちだったJTをお断りしてNTT系列の会社を選んだ。特に何らかの成果を残した訳でもないのに、面接ではあそこにいたのかと驚かれ、それ以前の、どこへ面接へ行っても「今回は残念ながら」と言われ続けた日々が嘘のように思えた。束になったポートフォリオを見せてアピールしてもダメだったのに、手ぶらで面接に行って「イントラやってたので守秘義務上お見せできるものはないです」という言い訳が、理研で働いた後は通用した。

結局最初のとこは業務もシステムもレガシーすぎて合わず、そこからKDDI関連に移って1年働いて人間関係で辞めて、二子玉の楽天に1年ほどいて仕事で衝突してまた辞めて、現在は赤坂で働いている。名前だけ並べると凄いが、実際にやっているのは誰にでもできる簡単なコーディング作業だ。

その他前述したライター仕事ではハードロック界の大御所リッチー・ブラックモアにメールでインタビューできたし、高校の頃バンドでカバーしていたアーティストたち、ラウドネスの高崎晃やアンセムのメンバー全員、聖飢魔IIのルーク篁やメガデスのマーティ・フリードマンなどに、インタビューの余った時間で当時どの雑誌のも載ってなかった、自分が知りたかった細かな質問ができた。また吉本の仕事で言えば、三枝(現・文枝)師匠、仁鶴師匠、文珍師匠にいろんな話をお伺いできた。果ては小学校の頃から憧れ、自分の人格が形成されて行くなかで多大に影響されたビートたけし主催のバーベキュー大会に招待され、殿の話を間近に聞けたうえツーショットの記念写真まで撮れたのだから、俺の人生は人と比べて不幸だなどと言おうもんならバチが当たる。


でもそれもこれも、あの時きまぐれに隊長が放った「お前東京出てこいよ」の一言がなければ、ぼくの人生はこの軌跡を描けなかったと思うんだ。自身の運の良さは置いておくとしても。


「ズレずに生き抜く」という本が届き、読み終わった後、自分はこれからも自分の大切なことを一番として、「ズレずに」余生を生き抜けるかな、と改めて考えてみたりした。

献本のDMをやり取りする中でやまもっさんは、「貴殿とやってた連載みたいな下世話な奴がまたやりたい」とボヤいていたが、ネットの世界も我々が住む現実世界も最近はずいぶんと変わってしまったので、半分自分への世辞だとわきまえて、あの楽しかった2000年代を、時折こうやって振り返ってみるくらいが良いのかな、と考える。無論何かしらリクエストされれば、それを断る理由は無いのだけれど。

さて、あちこち端折って書いたつもりが、ずいぶん長くなってしまったので、感想自体はまた別エントリにて。半分くらいは、ぼくの才能と努力と運が成した上京後の人生だったとしても、やまもっさん、ありがとう。

フォーエバーいちろう、いちろうフォーエバー。

- おわり -


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気になったノートたち

保存して読み返したいノートを集めました。とくに決まったテーマはなく、気になったものを保存していきます。
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