文章整理は部屋の掃除

文章を整えていくことは、部屋の掃除に似てると思った。

記事そのものは部屋。段落や節は部屋の一角(本棚を置くところ、ベッドを置くところなど)。一文一文は棚や机。単語や文字は細かい物品(コップや鉛筆など)。加えて記事を公開することは、「まあゆっくりしていってくれよ」と、部屋に人を呼ぶような感じ。


言葉を文字に起こしてみると、どんどん思考が進んでいく。欲しかったあたらしい自分の部屋をつくるみたいだ。

書けば書くほど考えが浮かんだり整理されたりするので、思いついたことを次々にノートに書いていく。

一通り書き終えて、「ふう、けっこう書いたかな」なんて思っているとまだ足りない気がしてくる。出し切れていないと思う。だからもっと書く。


書ききって、「もういいだろう」と思って記事を見てみると、ぐちゃぐちゃな言葉の塊ができあがっている。きたない。「なんだこれは」と、一つひとつ整理し始める。


無駄なものがたくさん見つかる。助詞や接続詞をみて、「これいるのかな? 使えるのかな?」と、掃除をするように、捨てたり整えたりする。一文まるごと消すこともある。

一通り上から下まで整理したら、「よし、公開」とボタンを押したくなるけど、一旦時間をおく。別のことをして忘れるか、寝るか。


スッキリしてからもう一度文章を見てみると、不要なものがたくさん見えてくる。「こんな部屋にするつもりなかったのに」という気分。語尾や言い回し、構成にも違和感を覚える。用途を誤った言葉まで見つかる始末。それはもう出てくる出てくる。「何を見てたんだ僕は」。調べては書き直す。


一通り見直して、公開ボタンを押したくなるところをグッとこらえて、もう一度見直す。すると、2回見ても気づかなかったタイトルと本文のズレや、論理のズレにも気づいてくる。

最初に書いているときは思い込みが働いて、ズレなどないように見えている。それを客観的に見るためには「自分のことを知らない人が見たらどうだろう」と想定して読み返すと、粗が浮いて見える。もちろんいちばん効果的なのは「正直に指摘してくれる自分じゃない誰か」に見てもらうことだ。

それをしたあとでもう一度読むと、書きたかった思いと書いてある言葉の差が縮んでくる。理想の部屋にだんだん近づく。でもけっして完璧ではない。

こんなことを何度か繰り返してやっと公開する。ふと思ったことを書き綴っただけのnoteやブログでも2回は見直す。取材やレポート記事なら、ぼくはかなり慎重に何度も見直して書き直す。読みすぎて、記事の内容が果たしておもしろいのかどうか、だんだんよくわからなくなってくる。

公開してからもまた読み返す。そのときに粗が出てきたときは自分に辟易する。自分のnoteなどならいいけれど、「これがメディアや本だったらどうするんだ」と。そういうことが起きるときは“編集できる”ことが一種の甘えになっているか、妥協がどこかで働いているかだと思う。noteやブログなら気を楽にして書けるけど、精度は落としてはいけないと猛省する。

そうしてやっと、文章じゃなかったものが文章のようになっていく。

これで良い、もうこれ以上にはならない、という文章を僕はまだ書けたことがない。

書けたと思ったときはたぶん僕が書く人として書くことをやめたときだと思う。



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