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『竹の、箸だけ』株式会社ヤマチク・山崎清登社長の、怒涛の事業再建譚。

「できるとうれしいし、できないと悔しい」

「仕事と趣味がだんだん寄ってくるんですよ」

熊本県の新大牟田駅から工場までの道中で、気さくにそう語るのは、熊本県で「竹の、箸だけ」をつくっている、株式会社ヤマチクの取締役、山崎彰悟さん。ヤマチクは、日本の竹のお箸を生産する業界のトップメーカー。常時30~40の案件を同時並行で進め、製造を行なっている。

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今回は、彰悟さんのお父さまでもあり、株式会社ヤマチクの代表取締役社長を務める山崎清登さんに、ヤマチクの創業からこれまで、そしてこれから目指すヤマチクの姿についてお話を伺いました。

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独立直後の“晴天の霹靂”   売り上げ最大の顧客が倒産


――ヤマチクは「竹の、箸だけ」をキャッチコピーとして、文字通りお箸を売られていますが、創業者の山崎辰巳さん(清登さんのお父さま)の創業のきっかけは何だったんでしょうか。

清登さん:親父には20歳ほど年の離れたお兄さんがいまして、木や竹で割り箸を生産する工場で工場長をしていたんです。そこでずっと一緒に仕事をしていたうちの親父が、あるとき40歳くらいで独立を決めて、事業規模として小さかった竹の割り箸のほうを譲り受けたわけです。いわゆる暖簾分けですね。

そうして、「山崎竹材工業所」という屋号で独立したのは、ぼくが20歳くらいのころでした。それから28年ほど経って、平成3年に「株式会社ヤマチク」という社名で法人化したんです。

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▲山崎清登社長。株式会社ヤマチク第2工場事務所にて。

事業を始めた当初、親父は財産もお金もない “冷や飯食い” でした。その奥さんは——ぼくから見れば母親ですが——苦労するのがわかっていながら、よく親父のもとへ嫁に来たなと思いますね。

最初は箸よりも、合板メーカーの下請けとして竹を提供する仕事が主でした。もともとは福岡の工場で10人くらいの従業員でやっていましたが、熊本に工場を移してから20人くらいに増えました。

しかし、わずか1年後、売り上げの9割を依存していた取引先の合板メーカーが潰れたんです。メーカーの負債総額はおよそ280億円にも上ったそうです。

原因はよくわかっていました。当時の住宅は合板を床に張っていたのですが、クッションフロアという塩ビを使用した柔らかい床材が主流になったんです。それで業績は急激に衰退し一気に倒産に至ったわけです。

ぼくが大学を卒業する間際のことです。倒産した合板メーカーの下請けとして竹を提供していた親父にとって大変な事態でした。

奇跡の生還 山崎竹材工業所を救った1軒のスーパー


――創業直後に取引先の倒産に見舞われたんですね。

清登さん:熊本に工場を移して20人ほどに増えていた従業員も5人ほどまで減らさざるを得ませんでした。

そんなとき、「建物のスペースを借りたい」という話が来たんです。運だけは強かったわけです。

ちょうどそのころはダイエーをはじめとしたスーパーが出店し始めたころでした。福岡の工場はまだうちで持っていたので、スーパーの出店にスペースを賃貸契約で貸すことになったんです。

スーパーも広いスペースを必要とします。工場が持っていた建物のスペースをスーパーに貸したことで少なくない家賃収入を得られるようになり、赤字の補填ができました。そこはいまでも、うちの大きな収入源になっています。

なかなかいい利益になっているので、「本業(竹のお箸の生産)をやめてしまって、家賃収入だけに絞ったほうが楽なんじゃない?」とか「本業で逆に食いつぶしてないか?」と言われることもあります。

しかし、むしろ本業のほうが稼いでいるし、今後も家賃収入はおろか、スーパーという業態そのものがいつまで続くかもわからないわけです。なので、ある意味で多角経営を取っているというのが現在の形です。

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▲手前にあるのは今回の取材のきっかけとなった『NASU本』。

いつも人に恵まれていた

――奇跡的なできごとですね。大学卒業前だったとはいえ、清登さんもその現場を目の当たりにしていたわけですね。

清登さん:間借りの話が無ければ間違いなく潰れていました。

とはいえ、当時それだけで賄えたわけじゃなく、兼業農家でもあったので持っていた田んぼもすべて売り払っています。うちの母親も景気が良かったときに買ったダイヤの指輪を質屋に持って行ってお金をつくるようなこともしていました。

ぼくは21歳か22歳のときで、その取引先が潰れたときに親父と一緒に見に行きました。関係各所は取り付け騒ぎです。

すると倒産した会社の役員さんが呼びに来たんです。「山崎さんちょっと来てください」と。ついていくと、「本当に申し訳なかった」と、事務所で頭を下げられました。

親父も思うことはきっといろいろあったんだと思います。複雑な筈です。しかし、そこでワーワーと何かを言うところではない判断したのか、親父は大人の振る舞いをしていました。「今までかわいがってもらいました。この事態はもはや仕方がないことです」と。

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うちの親父は大変な苦労をしてきましたが、人に恵まれてきました

手形の買戻しをするときにもお金がなくてどうしようもなかった。そんなときにうちのすぐ近所に住んでいた、取引銀行の支店長が融通を利かせてくれてお金を貸してくれたんです

創業当時、それはそれは波乱万丈ではありましたが、そういった場面で必ず人に恵まれてきたんです。


『竹の、箸だけ』 怒涛の荒波を越えた誇り


――事業の立て直しは何がきっかけとなったんですか?

清登さん:大口の取引先だった合板メーカーへの竹材の提供は完全になくなってしまったので、唯一残った事業が「お箸」だったんです。そこを広げるしかありませんでした。

以前から竹のお箸もやっていたんですが、売り上げはぼちぼち。買ってもいないのに「価格は安いんだけどクオリティがねぇ」と言われてしまう。それに古参の同業者は親戚づきあいのように顧客とつながっており、なかなか入り込めませんでした。

そんなとき、西友(当時:株式会社西友ストアー)の品質管理の方から、PB(プライベートブランド)ができるという話が舞い込んできました。

「西友のPBとして『無印良品』っていうのができるけど、何か出してみる?」

そう言われて、いくつかのお箸を渡しておいたんです。するとすぐに商品化が決まり、現在も続いている無印良品さんへの出荷を開始したんです。今までで30年ほど続いており、無印良品向けのお箸をつくる専用の機械もあるほどです。

そして次々と大口顧客との取り引きが決まりました。今度は、生協さんとの取り引きの話が舞い込んできたんです。それも、竹の割り箸をつくっていた同業他社の社長からです。

「うちにいま生協が来よるよ。あんたのところも取引すれば?」

そう言われて、商品を出してみたところ取り引きが決まったんです。ぼくが32~33歳くらいのときです。

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――最初は鳴かず飛ばずだった事業で一気に昇り詰めていったんですね。

清登さん:ほぼ他力本願みたいなものです。

でも、無印で通用しているし生協でも通用している状況を見れば、クオリティに問題がないことがわかります。すると、いままでうちには目もくれてなかった問屋の社長が、うちに注文書を書いてくれるようになりました。

ここに漕ぎつけるまでに10年以上かかりました。ここまでが一番大変でしたね。

最近でも、地元の近所の人によく言われるんです。

「山崎さんのところ、箸だけしかつくってないと? 箸だけで飯食えるんですね」と。

要するに近所の人は「熊本県内だけで」売ってると思っているんですね。でも実際はそうじゃなく、全国に売っています。

そんないまの会社も、こういった背景があってできてきました。


父親の雑用から始まった経営修業

清登さん:ぼくはもともと証券会社に務めていたんですが、父の病気をきっかけに26歳で帰ってきたんです。

すると親父に「お前、これを全部管理しておけ」と言われて、あれこれと渡されました。

会社の実印、当時の取引銀行の実印、小切手帳、通帳、それから権利書......。会社の重要なものばかりです。

当時、そんな重要な管理を任されたと言うと「すごいね」と言う人もいたんですが、いまになって考えると肝心なお金は全然入ってなかったですね(笑)。

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そういうことで、経理のなかでも貸借に関することはすべてぼくがやっていました。

だけどやはり、お金を借りに商工会議所などに行くと、よく言われたんです。

「お前これ父ちゃん知っとっちゃろね!? お前が勝手に借りに来よるんじゃなかろうね!?」

年齢が若かったせいでしょう。まあ仕方がありませんでしたね(笑)。


――お父さまは厳しい方だったんですか?


清登さん:まあ厳しいといえば厳しかったんですが、お人好しでした。人から頼まれるとあまり断れなかったんです。

あるとき、親戚の叔父の会社の保障人になると言うので、ぼくが反対したんです。

「この会社、絶対潰れるよ! それが明白にわかっている会社の保証人になんでならんといかんのよ!」

そう言って喧嘩したこともありました。親父にも言い分があるようでした。

「おれがなってやらんとどうにもいかんとばい!!」

「でも潰れたらどうするとよ。うちにぜんぶ降りかかってくるんよ!」

「そしたら、おれが車通りのなかに飛び込んででも返すけんよか!!」

何を言ってもそこまで言うもんですから仕方ありませんでした。そしたら1年後くらいに案の定潰れました。ぼくが27歳くらいのときです。そうなったら、親父が会社から離れるわけにもいかなかったので、「お前行ってこい」と言われて福岡まで行くんです。

会社が少しうまくいき始めるとそういうトラブルが必ず出てきていたんです。でも、今になってみれば、ぼくにとってはいい経験だったんです。26歳や27歳くらいで信用組合の理事長と残務整理の話をするわけですから。このときの経験が、少なからず後に生きたなと思いますね。

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しかし、そうして取引先の倒産や保証先の会社の倒産なども経験していると、夜中に家に脅しの電話があったり、嫌がらせの電話があったりしたみたいですね。でもうちの母親は肝が据わっていて、意外となんともなさそうでした。

――脅しの電話にも屈しないなんて、どっしりと構えた強いお母さまだったんですね。


「箸渡し(橋渡し)」が穏やかな時間をつくる


――プレゼントなどで定期的にお箸を発注してくださるお客さんもいますか?

彰悟さん:いますいます。ネットで毎回、同窓会や誕生日のときに手土産として買ってくださる方がいますね。「お箸を渡す」っていう行為は、人に覚えてもらえるんだと思います。

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――たしかに、お箸のプレゼントをもらったときは、相手が自分の生活や好みを想像して、一歩深いところを見てくれたような感じがします。

彰悟さん:本当にそうだと思います。ちょうど先週末、ポップアップイベントで博多駅にいたんです。そこで感じたのは、お箸を選んでいる時間ってすごく穏やかな時間だなということです。

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「あの人はこの色でこの太さがいい」とか、必ず誰かを思い浮かべながら選んでいるわけじゃないですか

誰かを想いながら箸を選んでいる時間ってすごくいい時間だと思うんですよね。貴い時間です。その時間は、箸を使っている相手を必ず頭に浮かべている筈です。そこに携われている仕事ってすごくいいなと思っています。こうしてポップアップイベントなどで見れるその光景は、うちの工場でつくっている社員さんたちにも見せたいなって思うんですよ。

昔から「箸渡し(橋渡し)」と言って、語呂も縁起もいいんです。つなぐ意味合いも持っている。だから箸は、粋なプレゼントですごく喜ばれるんですよ。

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ルールもモットーも経営理念もない 「楽しくやる」

社長のインタビュー中にお会いした社員さんにも、少しお話を伺った。

――社員のみなさんからの社長のイメージや、普段のかかわりについて教えてください。

社員さん:たとえば、わたしが漆を塗っていたら、社長がいつも手伝ってくれるんですけど、すぐに抜けるんです(笑)。途中で何かを思い出したように「あ、あれをしておかないといけないんだった」と言ってサッと。それで戻ってくるのかと思ったら、いつまでたっても戻って来ない(笑)。

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あと、漆塗りの作業をしたあとだと、手袋を外すじゃないですか。そうしたら、手のどこかしらに漆が付いちゃうんですよ。それで手も洗わないから「あー、またかぶれた」っていつも嘆いてます。

まあ社長じゃないと対応できない仕事もあるので、仕方ないですよね(笑)。

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▲お箸のコーティング作業の様子。

清登さん:ぼくは息子とはちがって、自分では極力仕事をしたくないんです(笑)。だからいつも誰かに振っています。現場の作業に関しては彼女たちが全部わかってるんですよ。

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▲塗装、乾燥の工程。

なので、たとえば納期の確認の電話があったときに、ぼくが出ても「福山さん(社員さん)に代わってください」って言われますからね(笑)。


――社長から、社員さんとの関わり合いで意識されていることはありますか?

清登さん:半分親戚みたいなものですよ。でも、いろいろな部分を助けられていますね。頼りにならん経営者がおると社員さんがしっかりしないといけないからね。潰れたらいかんけんね(笑)。

彰悟さん:社長がこんなんだから必死やもんねえ。

女性社員さん:いやいや〜、社長あってこその、わたしたちですよ。

清登さん:心にもないことを!(笑)

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▲怒涛の事業再建の話から打って変わって、ほのぼのとした会話が広がる。

――社長がいじられてるような会社ってすごくいいなと思います(笑)。

清登さん:おれのこと怖がる人だれもおらんよね。土曜日とかに社員さんの子どもが来ることがあるんですけど、ウロウロするのに飽きたら「社長、遊ぼう」って言ってくるんですよ(笑)。「しゃちょう」の意味はわからないから、たぶんぼくの名前が「しゃちょう」だと思ってますよ。


彰悟さん:「パソコン触ってる=遊んでる」っていう認識なのか、「社長、なんですぐ休憩するのー?」って言われてますね(笑)。子どもたちが社長のこと見張ってますもん。

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――和やかな職場ですね(笑)。そういうフランクな雰囲気をつくるのに意識されていることなどありますか?

清登さん:ないですね。

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――では、何か空気づくりのための社内ルールとかはあるんでしょうか?

清登さん:ないです。

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――ヤマチクとしての仕事のモットーみたいな。

清登さん:ないですね。

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――(笑)。

清登さん:まあ強いて言えば、楽しくやるっていうことですね。

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竹の箸づくりのプロ ヤマチクの社員さんたち

清登さん:新しく入った子にも、たまに「仕事慣れた?」って聞くんですよ。すると「慣れた」って言うんですけど、慣れたときが一番危ないんですよ

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▲高速で回転するベルトサンダーでお箸を削っていく。

工場で見たような箸づくりの工程は、見ていると非常に芸術的なんですけど、油断すると怪我をするので、誰にでもさせているわけじゃないんです。

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うちの場合は女性が多いので、実際、手の皮が向けるような仕事はさせられないじゃないですか。

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▲裁断機で長さを整える

スポンジサンダーっていう、面取りの仕上げだけをしているものは回転が遅いし当たってもスポンジなのでそこまで怪我することはない。でも、高速で回っているベルトサンダーは金属でも削るので、やっぱり怖いですよ。

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ぼくも真似してやったことがあるんですけど、手にビニールテープを厚めに巻いて作業するんです。それでも、ちょっと手が当たればあっという間にビニールテープがなり、手の皮に到達して血が滲むんですよ。肉がえぐれたことはないですけどね。うちの先代の親父が改良して多少は安全にしてあるんですけどね。

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――ヤマチクとして「竹のお箸」をつくることにはどんな思いがありますか?

清登さん:そこはきっと息子のほうがあるんじゃないですかね。

彰悟さん:竹のお箸をつくるうえで何を旗印とするかっていうのは常々考えます。

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この業界は生き残り戦なんです

「日本の竹の箸」をどうやって残していくか。輸入品が増えて、業者が減っているなかで、お客さんも減ってるんですよね。そんななか、竹のお箸をつくる責任ってなんだろうかと。

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いまとなっては、メイドインジャパンの竹のお箸のクオリティはぼくらが左右するわけですよ。ぼくらが最大手なわけだから。ぼくらのクオリティで日本の評判が決まる。その責任は、すごく重い筈です。

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ぼくらが生産をやめたら「日本の竹の箸」はなくってしまうんです。でもそれは起こり得る。だから誇りと責任です。それをちゃんとこれからの社員さんたちにも伝えないとなと思っています。

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逆に言えば、それがブランドの軸になっているので、パンフレットとかブランドコンセプトも、そんなに迷わなかったですね。

うちで初めて展開している「okaeri(おかえり)」っていうブランドも、「竹のお箸を、もう一度、日本の食卓に」っていうのが大前提。そのために何をすればいいのか。竹材を切る人たちがいなくなれば廃業してしまう。それを途絶えさせないためにはどうするか。

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▲2019年4月からの新ブランド「okaeri(おかえり)」

それを支えてくれている人たちがいないと、ものはつくれない。支えてくれる人たちをどう活かすか。それによって、ものづくりは雲泥の差が出てくると思うんです。

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――そのときに、誇りや責任が重要になると。

彰悟さん:誇りや責任は、みなさん各々に持っているものではあるんです。でもたとえばMUJI(無印良品)の商品をつくってくれている、高校新卒3年以内女の子たち。彼女たちは工場のなかでも地味な仕事をしているかもしれないけど、月の売り上げの半分をつくっているわけです。

そういう、ぼくらしか見えていない詳細な部分とか可視化された実績も含めて、社員さんたちに伝えていく役割が、ぼくらにはあると思っていますね。

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次のフェーズは「 “ヤマチク” で売る」


――ヤマチクとして、これからどんなことを目指していますか?

清登さん:これから、ぼくらよりもっと強いところが現れるとすれば、自分たちで竹も切って、箸をつくって売れる、つまり仕入れから販売まで一貫してできる会社です。ぼくらは今のところ、竹の仕入れは外注しているんです。だけど近い将来には、自分たちで仕入れができるようになるしかないと思っています。

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彰悟さん:さらに直近のフェーズで言えば、自分たちの名前で売る商品を増やしていくことですね。

これまではOEM(Original Equipment Manufacturing:発注元のブランドとしての製造)で、無印さんとか西友さんの名前で商品が売れてきたんですけど、「ヤマチク」の名前で商品が売れているものはまだまだ売り上げの1%程度なんです。

清登さん:とはいえ、お土産屋さんで販売するお箸を売るとしたら、やはりうちの名前は出しづらい。

たとえば、北海道のお土産屋さんでお箸が置いてあったときに、裏を見て熊本のヤマチクって書いてあったら「北海道じゃないじゃん」となって買わないでしょ(笑)。だから商品の裏に載っているのは、製造元じゃなくて現地の問屋の名前なんです。そういったことから、製造元はうちだとしても表には出しづらいというのもあるんですよね。

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まずは足元を固めないといけません。

いま息子のやっているブランド構築への新たな投資も現状ではまだ先行投資ですから、それが利益を出せるようにしていかないといけません。いまでは外に出て行くお金のほうが大きいので、まずは利益を回収していくことですね。


――ヤマチクのブランドとして製作された「okaeri(おかえり)」は今年できたブランドですよね。


彰悟さん:今年です。まだ3ヶ月しか経っていなくて始まったばかりです。それも1個も売れていないような状況ではないので、良いスタートだと思いますよ。

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「okaeri」と合わせて、うちの商品をうちの名前で売れるようになっているんです。自分たちの名前で売るっていうフェーズへ入ってるわけです。

さらには、問屋さんに売っている商品で、これまではうちの名前は出せなかったものを「ヤマチクとつくった商品です」「ヤマチクにつくらせましたよ」って言わせられるようになることですね。

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清登さん:とはいえ、ブランド化は大変ですよ。たとえばエルメス(Hermès)やグッチ(GUCCI)も10年や20年でできたわけじゃないですからね。

「ひと並みはひと並み」


――最後に、清登さんが仕事で大切にされていることは何ですか?

清登さん:そんなたいそうなものはないです。

だけど、親父が言ってた言葉があります。

「人並みにしかやらなければ人並みにしかならない」

これは口癖のように言ってましたね。

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人がやるよりも、ちょこっと上乗せしてやるんだと。それで十分なんだと。でもその “ちょこっと” は自分だけでやる必要はなくて、人の力を借りることもあるだろうと。

ぼくはその点において人に恵まれてきたんですよね。いまの売り上げの柱になっている問屋さんだって、ぼくは自分で見つけてきてませんからね。紹介してもらったもの。だけど、それをやれるだけの素地を持っておいたからできたわけですね。


――常に謙虚と感謝の姿勢なんですね。本当に学び多い時間でした。


清登さん:いいえ、あんまりぼくらみたいなのを基準にしているとコケますよ(笑)。でも遠いところ本当にわざわざありがとう。


――そんなことないです(笑)。また来させてください。


清登さん:また遊びに来てください。

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〈以下、取材終了後、彰悟さんに駅まで送っていただいた車中での会話〉

――清登さんは多くの苦労をされてきていても、ずっと「人のおかげ」「人に恵まれた」とおっしゃっていましたね。

彰悟さん:うちの社長はそんなストイックな人間じゃないですけどね。

でも「自力」を目いっぱいやってきた人です。たぶん、自力を目いっぱいやらないと、他力は得られない。そう思うんですよね。


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【ヤマチクのネットショップ】

『竹の、箸だけ』のヤマチクの商品はネットショップでも販売しています。ブランド「okaeri」の商品も。ヤマチクの彩り豊かなお箸をぜひお手元に!

株式会社 ヤマチク

〒861-0836 熊本県玉名郡南関町久重330

TEL:0968-53-3004 / FAX:0968-53-0840
MAIL:info@hashi.co.jp



ライター 金藤 良秀


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