見出し画像

傷口を愛でられたら、日々はもっと豊かになる。金継ぎの哲学が生活に浸透することを想像したなら

6月最後の日曜日、ジメッとした空気が地表にまとわりついた午後一番。ちぎれる兆しも感じさせない分厚い雲の下、それでも賑わう桜木町のシェアスペースBUKATSUDOで行われていた「BUKATSUDO文化祭2017」に参加した。

目的は“金継ぎ”


金継ぎとは

「金継ぎ」とは、割れたり欠けたりした陶磁器を漆で接着し、継ぎ目を金や銀などで飾る修理法のこと。修理後の継ぎ目を「景色」と見立てて楽しむのが特徴です。 室町時代、茶道の普及とともに盛んになったといわれます。(http://kintsugi-170625.peatix.com/ より)

今回のワークショップの講師でもあるナカムラクニオさんのある日のツイートで観たこの動画。欠けた陶器を継ぎ合わせることによって、蘇生された器が社会性を持ったメッセージを提示する一連の流れに魅了され、兼ねてより興味を持っていた。


先週フィリピンから帰国し、連日西新宿にあるオフィスと高幡不動の後輩宅を往復して日増しに濃くなる疲弊感。簡単にそれを悟った仕事仲間が23時に送ってきたLINEにこのツイートのスクリーンショットが貼られていた。

「意図的に日々に違いを」を体現する彼からのメッセージがすぐにわかったので、即座にナカムラさんに連絡したところ快諾いただけた。

とりわけ知識もなく、持っていく思い入れのある陶器もないまま、100%興味本位でアトリエに向かった。


器への思い入れ

事前に連絡しておいた通り、ワークショップ前にナカムラさんから今日自分が使う欠けた器を受け取った。

てっきり金継ぎというとパックリ割れていたりしないといけないものかと思っていたし、参加者の多くがバラバラになった器を大事に包んで持参してきたのを見ると少々物足りなさを感じたことも嘘ではない。

参加者は男性3人と女性12人ほど。はじめに持ってきた陶器の紹介をそれぞれが説明する。

ある人は友人の結婚式の記念品であったり、またある人は誕生日プレゼントであったり。そのどれもが意味を持ち、今日という機会を楽しみにしていた様子が伺える。

思った以上にそれぞれの器に対する思い入れが強く、器を持ってこなかった自分の参加資格を一瞬問うてしまったが、純粋に金継ぎの哲学やナカムラさん本人への関心について説明した。

「そう、金継ぎによって学べることについても今日は体験してもらえるんじゃないかな」

そんなナカムラさんの返しに、思わず参加が全肯定された気になった。このあと素晴らしいファシリテイトにどんどん惹きこまれていったことは言うまでもない。


つなげる、みがく、ぬる

ワークショップはテンポよく、それでいて各人が各人のペースに従いながら進んでいった。

●作業のフロー
① つなげる
2層に分かれたエポキシパテを指でこねて混ぜ合わせ、欠けた部分に埋め込みます。ひびは押し付けて表面を平らにするのがポイント。割れたものは接着剤で張り付け、マスキングテープで固定。乾いたら接着面にエポキシパテを塗り込み平らにします。パテは速乾性なので、乾かないうちに、はみ出たパテを拭き取りましょう。

久しぶりに触った練り消しのようなエポキシパテを必要な大きさだけちぎって、とにかく捏ねていく。白い層とグレーの層を同量混ぜるのが勘所だ。15分もすれば陶器と同程度の硬さに変わってしまうとのことなので、捏ねた後すぐに陶器の欠けた部分に塗布する。

この加減が良くないと固まったときにデコボコになってしまったり、うまく張り付かなかったりする重要なフロー。はじめ、継ぎ足し続けていたぼくのパテだが、結果的には後で継ぎ足した部分がポロッと取れてしまった。

なんとなく見え透いた嘘や小手先での見栄え修正について咎められたような気になって引き締まった。

② みがく
すぐにパテが固まってくるので、耐水性のサンドペーパーに水をつけながら、こすって表面を滑らかにします。素焼きや磁器などは特に要注意。本体そのものを削ってしまわないように気をつけましょう。器の形に合わせて削りながら整えていきます。特にアウトラインの形の美しさを考えながら削るのがポイント。

垢のようなパテのカスが指先にこびりついたまま、今度はヤスリで固まったパテを磨いていく。この作業が実に心地良い。器を見て、若干異質な起伏の部分にヤスリをかける。

勘所は抑えながらも無心になってみがく。心を無にして目の前の動作に没頭することは、アイドリング状態の瞑想のような感覚で落ち着く。日々を忙しく生きている中で、意外と考えていることは過去のことであったり、これから起こりうることへの期待であったり不安であったりすることが多い。

今日、無心になって一つの動作をしている時間というのは意外と贅沢なのかもしれない。そんなことを考えていると、欠けた箇所と本体の境界はすでに消えてなくなっていた。

③ぬる
新うるしと金粉を1:1の割合で小皿に入れて、少しずつ薄め液を加えながら混ぜます。粘り気が出てきたら、極細の筆を使って、パテの上に塗っていきます。ポイントは薄くぬるというより、置くような感覚で作業していきます。何度もベタベタと塗るとムラが出来てしまうため、一気に仕上げた方が美しく仕上がります。
その後、1~2日置いてしっかり乾燥させます。つやを出すため金継ぎした部分にオリーブオイルなど植物油を塗って、柔らかい布で磨けばピカピカになり完成。電子レンジや食器乾燥機などは使わないという配慮も必要です。

器の本来の姿を想像したときに一箇所だけ歪に映る部分に金の液を置いていく。感覚的には傷口に何か優しいクスリを塗っているような感覚だ。全然知らないけど、もしかしたら子供が怪我をしたときなんかにこうやって消毒したりするのかな、なんて。

そんな作業の傍ら、ナカムラさんが金継ぎにまつわるお話を注ぎ込む。

「京都の旅館では、今でも高貴なお客様に対してあえて金継ぎを施した器で料理を提供するところがあるんですよ。」

確かに整合性を保たれたお皿は綺麗だ。でも継ぎ足された一部の輝きは想像するだけでも雅である。そんなお話を耳に入れつつ、これでいいかなという状態に達した。

すでに緩やかな連帯感のできあがっている両隣の参加者からは「素敵ですね!」とコメントをいただいた。

うん、できあがりだ。


何気ない暮らしに豊かさを

一通りみんな作業を終えると作品発表と一連のワークに感じたことを共有する時間に。

多くの参加者が、「また使えることが嬉しい」「前よりも愛着が湧いた」「この器をお客さんが来たときには出したい」など、満足感を述べていく。いや、実際には言葉を発する前からすでに充実感が空気で共有されていた。

中でも隣に座っていた優しそうな中年の男性が「生活に金継ぎが取り入れられたら豊かでしょうね」とつぶやく。まったくもって同感だ。

作業工程にも無数の学びを得たが、金継ぎによる継ぎ足しが長くなったフィリピン生活でいつもいいなと思う“あるもので創る”の感覚に似ているから一層浸透したのかもしれない。

壊れたら代替品としてすぐに新製品を求める日本のぼくにとって、壊れたカメラの部品をハンダゴテで溶かしてくっつけてしまったり、米軍の廃棄していったジープを装飾して路線バスにしてしまうフィリピンの暮らしにクリエイティブを感じずにはいられない。モノを正攻法以外で使えるフィリピン人の“とらわれのなさ”にいつだって魅せられている。

元々の完成形、すなわち100%への回帰を目指す修理行為とは違い、金継ぎを施すことによってそこに発生する新しい意味、新しい生命に“現実が拡がる”のが見えた。それは紛れもなく“景色”に生まれ変わっていた。


傷口を愛でる文化

職人や茶人の中にはわざと陶器を落として割る人もいるという。あえて壊すことで、継ぎ合わせることに楽しみを見出しているのだそう。

「“傷口を愛でる文化”を持っていた茶人はほんとにすごいですね。」

ぼくのワークショップのハイライトは確実にここだった。

本来、器が割れるということは“役割の終わり”を意味することがほとんどだろう。壊れてしまった、という取り戻せない感。過去完了形。そんなところだ。

しかし、「取り戻せないけれど、壊れているという状態を認められれば意外とできることがあるんじゃないか」という逆説的だが、新たな問いの提示であるようにも見える。金継ぎをする上では、“壊れている状態というのがはじまり”なのだ。

むしろ、欠陥部分は器の顔となり、アイデンティティとなる。ぼくには金継ぎという傷口が傷口のまま終わらないという体験を通して、人生全体への明るい展望を持てた。コンプレックスやどうしようもない悩み、くすぶりがやがて唯一無二の自分へ変容する希望を持てたからだ。

そういった意味ではパックリ割れた器よりも、絶妙に欠けてくすぶった器であったことが今のぼくにとっては多くの学びをもたらしたのではないかと思う。

そこにある傷口を愛でること
あってはならないものではなく、
それがあったからと言えるよう

金継ぎ、素晴らしい芸術
日常に取り入れたい哲学

おわり