十八史略の後漢末、三国志前夜2 党錮の獄

十八史略 党人の議
2011-09-06 08:37:16 | 十八史略

以劉寛爲尚書令。寛嘗歴典三郡、多仁恕。吏民有過、以蒲鞭罰之。
初上爲侯時、受學於甘陵周福。及即位、擢爲尚書。時同郡房植有名。郷人謡曰、天下規矩房伯武、因師獲印周仲進。二家賓客、互相譏揣成隙。由是有甘陵南北部。黨人之議始此。汝南太守宗資、以范滂爲功曹、南陽太守成瑨、以岑晊爲功曹。皆襃善糾違。滂尤剛勁、疾惡如讎。二郡謡曰、如南太守范猛博。南陽宗資主畫諾。南陽太守岑公孝。弘農成瑨但坐嘯。太學諸生三萬餘人、郭泰・賈彪爲之冠。與陳蕃・李膺更相推重。學中語曰、天下模楷李元禮、不畏強禦陳仲擧。於是中外承風、競以臧否相尚。

劉寛を以って尚書令と為す。寛嘗て三郡を歴典(れきてん)し、仁如(じんじょ)多し。吏民過ち有れば、蒲鞭(ほべん)を以ってこれを罰す。
初め上(しょう)、侯たりし時、学を甘陵の周福に受く。位に即くに及んで、擢(ぬき)んでて尚書と為す。時に同郡の房植(ぼうしょく)名有り。郷人謡って曰く、

 天下の規矩(きく)は房伯武、師たるに因って印を獲(え)しは周仲進。

二家の賓客、互いに相譏揣(きし)して隙(げき)を成す。是に由って甘陵の南北部有り。党人の議此(ここ)に始まる。汝南の太守宗資、范滂(はんぼう)を以って功曹(こうそう)と為し、南陽の太守成瑨(せいしん)、岑晊(しんしつ)を以って功曹と為す。皆善を襃(ほう)して緯を糾す。滂尤(もっと)も剛勁(ごうけい)、悪を疾(にく)むこと讎(あだ)の如し、二郡謡って曰く、

 汝南の太守は范猛博。南陽の宗資(そうし)は画諾(かくだく)を主(つかさど)る。南陽 の太守は 岑公孝。弘農の成瑨(せいしん)は但(た)だ坐嘯(ざしょう)す。

太学の諸生三万余人、郭泰(かくたい)・賈彪(かひょう)之が冠たり。陳蕃(ちんばん)・李膺(りよう)と更(たがい)に相推重(すいちょう)す。学中語って曰く、
「天下の模楷(ぼかい)は李元礼、強禦(きょうぎょ)を畏(おそ)れざるは陳仲挙」と。
是(ここ)に於いて中外風(ふう)を承け、競って臧否(ぞうひ)を以って相尚(とうと)ぶ。
歴典 歴任、典はつかさどる。 仁如 思いやりがある。 蒲鞭 がまの鞭、形だけの罰。 規矩 模範。 房伯武 房植のあざな。 周仲進 周福のあざな。 譏揣 譏はそしる、揣は計り、長短をくらべて誹謗する。 党人 政治上の派で仲間を組むひと。 功曹 郡の属吏。 剛勁 ともに強い。 范猛博 范滂。 画諾 諾と画くこと、めくら判。 岑公孝 岑晊。 弘農 弘農郡。 坐嘯 何もしないで、詩歌をくちずさむこと。 推重 尊び重んじること。 模楷 模範。 李元礼 李膺。 強禦 手ごわい悪人。 陳仲挙 陳蕃。 臧否 善悪。

次回につづく。

十八史略 党人の議
2011-09-08 09:24:32 | 十八史略
前回注釈で仁恕を仁如と書いてしまいました、恕はゆるすの意です訂正いたします。

劉寛を尚書令に任命した(165年)。寛は嘗て三郡の地方官を歴任し思いやりに篤い政治を行った。吏民に過ちがあると蒲の鞭で叩いて罰した。
桓帝が蠡吾侯(れいごこう)であった時、甘陵郡の周福から学問を受けたので、帝位に即くと周福を抜擢して尚書とした。そのころ同じ郡の房植は名望があったが、官職には就けなかった。それで甘陵ではこんな謡がはやった。
「天下の模範は房伯武、天子を教えた周仲進、天より印綬がころがり込んだ。」
房と周二家の食客たちは、互いの長短を言いつのって、不和になった。そのため甘陵は南北で対峙するようになり、いわゆる党人の争いはここから始まるのである。汝南郡の太守宗資は范滂を功曹の官につけ、南陽郡の太守成瑨は岑晊を功曹とした。滂も晊も善行を誉め、非緯を糾弾した。特に范滂は剛直で、悪を憎むこと仇敵のようであった。二つの郡の民が謡っていうには、
「汝南の太守は范猛博、南陽生まれの宗資はただめくら判。南陽の太守は岑公孝、弘農生まれの成瑨は詩をうなるだけ」
当時の太学の学生は三万余人。郭泰と賈彪の二人が主導して陳蕃と李膺とは互いに尊びあっていた。そこで太学の中では「天下の模範は李元礼(李膺)、凶悪人を恐れないのは陳仲挙(陳蕃)」と言いあった。そこで朝廷の内外ともに、この風潮がひろがり、人の善悪を評価することが重んじられるようになった。








十八史略 党錮の獄

2011-09-13 10:22:59 | 十八史略

たまたま成瑨と、太原郡の太守の劉しつが、赦免となった宦官の党派を取り調べて殺してしまった。桓帝は二人を召して投獄し、処刑して市にさらそうとした。また山陽郡の太守の翟超は張倹を督郵に登用して、宦官の規制を超えた墓や屋敷を取り壊した。東海王の宰相黄浮も、法を犯した宦官の家族を捕えて死刑に処した。宦官たちは冤罪であると訴え、翟超・張倹・黄浮は処罰された。太尉の陳蕃は再三帝を諌めて反対したが聞き入れなかった。宦官たちはさらに人を使って李膺を誣告する書をたてまつった。「李膺は太学の遊学の士を取り込んで、党派をつくり、朝廷を誹謗して風俗を惑乱しています」と。桓帝は激怒して、郡国に詔勅をくだして、党人を逮捕しようとした。その書類が三公の府に回付されたが、陳蕃は署名を拒否した。そのため帝はいよいよ怒って李膺たちを北寺の獄に投じた。告訴状には杜密・陳寔・范滂等二百人の名があがっており、使者が四方に追補に向かった。陳蕃は再び口を極めて諫言したので、帝は蕃を罷免してしまった。これで朝廷の百官はふるえあがり、それ以上党人のために弁護する者が居なくなった。潁川の賈彪がこれを聞き、「私が西に出向いて斡旋しなければこの大難は解決しまいよ」と言って洛陽に行き、皇后の父、竇武に説いて罪を赦すよう上疏させた。一方、取り調べでの供述には宦官の子弟の名も出たので、宦官たちはこれを懼れて、帝に奏上して党人二百余人を赦して故郷に帰らせ、その名を三公の府に書き留めて終身仕官の道をふさいだ。

在位二十一年、改元すること七回すなわち、建和・和平・元嘉・永興・永壽・延熹・永康である。桓帝は崩じた(167年)。竇皇后は、解瀆亭侯を迎えて帝位に即けた。これを孝霊皇帝という



十八史略 霊帝

2011-09-15 14:09:53 | 十八史略

宦官逆襲す

孝靈皇帝名宏、章帝玄孫也。年十二即位。竇太后臨朝。竇武爲大將軍、陳蕃爲太傅。徴天下名賢。李膺・杜密等、皆列于朝。天下想望太平。蕃・武共議、以宦官操弄國柄、濁亂海内、奏誅曹節・王甫等。謀泄。宦者夜召所親、歃血共盟、請帝御前殿、作詔板、拝王甫黄門令、使其黨持節収武等、誣以大逆。先執陳蕃殺之。武自殺。梟首都亭。遷太后於南宮。



孝霊皇帝名は宏、章帝の玄孫也。年十二にして位に即く。竇太后(とうたいこう)、朝に臨む。竇武を大将軍と為し、陳蕃を太傅(たいふ)と為す。天下の名賢を徴(め)す。李膺(りよう)・杜密等、皆朝に列す。天下太平を想望す。蕃・武共に議して、宦官国柄(こくへい)を操弄し、海内(かいだい)を濁乱するを以って、奏して曹節・王甫等を誅せんとす。謀(はかりごと)泄(も)る。宦者、夜親(しん)を召し、血を歃(すす)って共に盟(ちか)い、帝に請うて前殿に御せしめ、詔板(しょうはん)を作って、王甫を黄門令に拝し、其の党をして節を持して武等を収めしめ、誣(し)うるに大逆を以ってす。先ず陳蕃を執(とら)えて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟(きょう)す。太后を南宮に遷(うつ)す。



太傅 天子の師。 国柄 一国の政権。 親 仲間。 詔板 詔書と同じ。 節 君命を受けた使者が帯びるしるし。 誣 罪におとす。 梟す 木にかけてさらす、さらし首。



孝霊皇帝の名は宏、章帝の玄孫である。年十二歳で即位した。竇太后が朝廷に出て政治を執り、父の竇武を大将軍とし、陳蕃を太傅にして、天下の名高い賢者を招いた。李膺・杜密等も朝廷に出仕するようになり、人々はこれで天下太平を招来すると想い望んだ。陳蕃と竇武は協議して、宦官たちが国権をほしいままにし、天下を混乱させたとして、曹節・王甫等を誅殺するよう奏上する手はずを整えた。ところがこの謀が漏れて宦官たちが急遽仲間をあつめ、血をすすって盟い合った。そして霊帝に要請して前殿に出御させ、王甫を黄門令に任命する詔勅を作り、一味に天子の節を持たせて竇武らを捕えさせ、大逆罪の罪を負わせた。まず陳蕃を捕えて殺し、竇武は自殺した。そして首を洛陽の物見台にさらした。太后は南宮に移された。



十八史略 三君、八俊  

2011-09-17 12:06:55 | 十八史略

李膺初雖廢錮、士大夫皆高其道、而汚穢朝廷、更相標榜。爲稱號、以竇武・陳蕃・劉淑、爲三君。言一世之所宗也。李膺・荀・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱㝢爲八俊。言人英也。郭泰・范滂・尹勳・巴肅・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟爲八顧、言能以行引人也。張儉・翟超・岑晊・菀康・劉表・陳翔・孔・檀敷爲八及。言能導人追宗也。度尚・張邈・王孝・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章爲八廚。言能以利救人也。及陳蕃・竇武用事、復擧抜膺等。陳・竇死、膺等復廢錮。



李膺初め廃錮(はいこ)せらると雖も、士大夫皆其の道を高しとし、而して朝廷を汚穢(おわい)として、更々(こもごも)相標榜す。称号を為(つく)り、竇武・陳蕃・劉淑を以って三君と為す。言うは、一世の宗とする所なり。李膺・荀(じゅんいく)・杜密・王暢(おうちょう)・劉祐・魏朗・趙典・朱ウ(しゅう)を八俊と為す。言うは人英なり。郭泰・范滂(はんぼう)・尹勳(いんくん)・巴肅(はしゅく)・宗慈・夏馥(かふく)・蔡衍(さいえん)・羊陟(ようちょく)を八顧(はっこ)と為す。言うは能く徳行を以って人を引くなり。張儉・翟超(てきちょう)・岑晊(しんしつ)・菀康(えんこう)・劉表・陳翔・孔(こういく)・檀敷(だんふ)を八及と為す。言うは能く人を導いて追宗(ついそう)せらる。度尚(たくしょう)・張邈(ちょうばく)・王孝・劉儒・胡毋班(こぶはん)・秦周(しんしゅう)・蕃嚮(ひきょう)・王章を八廚(はっちゅう)と為す。言うは能く利を以って人を救うなり。

陳蕃・竇武事を用うるに及んで、復た膺等を挙抜(きょばつ)す。陳・竇死して、膺等復た廃錮せらる。



相標 誉めはやす。 朱ウ ウかんむりに禹。 蕃嚮 蕃、姓の場合は「ひ」、名の場合は「ばん」



李膺は初め官職を廃され仕官の道を閉ざされたが、士大夫たちは皆その高潔さをほめ、かえって朝廷こそ汚濁に満ちているとして、さまざまな称号をつくって誉めたたえた。竇武・陳蕃・劉淑を三君と呼んだ。それは、この三人を世の宗師とするというのである。李膺・荀・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱ウを八俊と呼んだ。それは人の中の英傑であるとの意である。郭泰・范滂・尹勳・巴肅・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟を八顧と呼んだ。それは徳をもってよく人を引き立てるというのである。張儉・翟超・岑晊・菀康・劉表・陳翔・孔・檀敷を八及と呼んだ。よく人を導いて崇拝されるというのである。度尚・張邈・王孝・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章を八廚と呼んだ。よく人の難儀を救うというのである。

陳蕃と竇武が政権の座に就いてから李膺等を抜擢したが、陳竇二人が死ぬと再び李膺たちは官職から追放された。



十八史略 李・杜と名を斉しうするを得

2011-09-20 12:00:14 | 十八史略

曹節諷有司、奏諸鈎黨。膺詣詔獄孝死。滂就捕。母與訣曰、汝今得與李杜齊名。死亦何憾。滂跪受教、再拝而辭。顧其子曰、使汝爲惡、惡不可爲。使汝爲善、我不爲惡。聞者爲之流涕。黨人死者百人、其死徙廢錮者、又六七百人。郭泰私痛曰、詩云、人之云亡、邦國殄瘁。漢室滅矣。但未知瞻烏爰止、于誰之屋耳。泰雖好臧否、而不爲危言覈論。故處濁世、而禍不及焉。



曹節、有司(ゆうし)に諷して、諸鈎党(こうとう)を奏せしむ。膺(よう)、詔獄(しょうごく)に詣(いた)って孝死(こうし)す。滂(ぼう)、捕に就(つ)く。母与(とも)に訣(けっ)して曰く、「汝、今李・杜と名を斉(ひと)しうするを得(う)。死するも亦何ぞ憾(うら)みん」と。滂、跪(ひざまづ)いて教えを受け、再拝して辞す。其の子を顧みて曰く、「汝をして悪を為さしめんとするも、悪は為す可からず。汝をして善を為さしめんとすれば、我悪を為さず」と。聞く者之が為に流涕す。党人死する者百人、其の死徙(しし)廃錮(はいこ)せらるる者、又六七百人なり。郭泰私(ひそ)かに痛んで曰く、詩に云(い)う、人の云(ここ)に亡ぶる、邦国殄瘁(てんすい)すと。漢室滅びん。但(ただ)未だ烏(からす)を瞻(み)るに爰(ここ)に止まる、誰(た)が屋(おく)に于(お)いてするかを知らざるのみ」と。泰好んで臧否(ぞうひ)すと雖も、而(しか)も危言覈論(かくろん)を為さず。故に濁世に処して、而も禍い及ばず。



有司 役人。 諷して ほのめかして。 鈎党 たがいに繋がり合った党。 詔獄 天子の詔によって開かれた裁判。 詣 いたる。 孝死 拷問による死。 訣 別れ。 李・杜 李膺・杜密。 死徙 獄死と流刑、徒は別字。 廃錮 官職追放。 殄瘁 殄(た)え瘁(やむ)、疲弊する。 瞻烏 烏は覇権、瞻は仰ぎ見る。 臧否 是非善悪。 危言 穏やかな言葉を選ぶこと。 覈論 評論。



宦官の曹節は役人にほのめかして、党人同士の繋がりを奏上させた。李膺は投獄され拷問のすえ殺された。范滂も捕えられた。母は別れに臨んで「これでお前は李膺さま・杜密さまと同じ名誉を受けることができたのですから恨みません」と言った。范滂は跪いて教えを受け、再拝して別れを告げると、我が子に向って「お前をこのような目に遭わせぬために正義を棄てさせようとも思ったが、悪事はやはりしてはならぬことだ。お前を善にとどまらせるためにも、私は悪と決別した」と言うと、聞く者は皆、涙を流した。このとき、党人で殺された者は百人に及び、死んだり流されたり、官職を追われた者が六七百人に達した。

郭泰はひそかに悲しみ嘆き、「詩経にこうある(人のここに滅ぶ、邦国つかれる殄え瘁む)と。漢室は滅亡するであろう、ただ、(烏をみるにここに止まる。誰が屋においてするか)と。それがまだわからないだけだ」郭泰は事の善悪を批評したが、言葉を慎重に選んで過激な発言をしなかったので、乱世に身を置きながら禍いを被ることがなかった。



十八史略 銅臭を嫌うのみ

2011-09-22 08:59:09 | 十八史略

詔諸儒正五經文字。命蔡邕爲古文・篆・隷三體、書之刻石、立太學門外。

上好文學、引諸生能文賦者、竝待制鴻都門下。置立太學。諸生皆斗筲小人、君子恥之。

開西邸賣官。各有賈。崔烈以五百萬得司徒。問其子以外議何如。子曰、人嫌其銅臭耳。



諸儒に詔(みことのり)して五経の文字を正さしむ。蔡邕(さいよう)に命じて 古文・篆(てん)・隷(れい)三体を為(つく)らしめ、之を書して石に刻し、太學の門外に立つ。

上(しょう)文学を好み、諸生の文賦(ぶんふ)を能くする者を引いて、並びに鴻都(こうと)門下に待制(たいせい)せしむ。太学を置立(ちりつ)す。諸生皆斗筲(とそう)の小人にして、君子之を恥づ。

西邸を開いて官を売る。各々賈(あたい)有り。崔烈(さいれつ)五百萬を以って司徒を得たり。其の子に問うに外議(がいぎ)如何を以ってす。子(こ)曰く、人其の銅臭を嫌うのみと。



五経 易・書・詩・礼・春秋。 古文 蝌蚪(かと)文字、竹簡に漆で書いたので、おたまじゃくし(蝌蚪)に似ていたから。 篆・隷 書体。 鴻都門 洛陽の門の名、中に太学があった。 待制 みことのりが下るのを待つ、唐代には官名になった。 斗筲 穀物をはかる枡、筲は一斗二升、器量の小さいひと。あるいは枡で計ってばかりいる収奪に熱心なこと。 外議 世評。 銅臭 財貨を貴び財貨によって立身する者を卑しむ言葉。 



霊帝は儒者たちに詔勅を下して五経を校訂させ、蔡邕に命じて、古文・篆書・隷書の三種の字体で書かせて石に刻み、太学の門内に立てた。

帝は学問を好み学生のなかで文章や詩賦に秀でた者を呼び、鴻都門の中で召し出しを待たせることにし、そこに太学を設置した。しかし呼ばれた学生は皆器量の小さい者ばかりで、高徳の士は同列にみられるのを恥じた。

霊帝は西園に邸を設けて官爵を売った。それぞれの官位に値がつけられていた。崔烈は五百万銭で司徒の官を買った。そしてその子に世間の評判を聞くと、子は「みな銭くさいと嫌っているだけですよ」と答えた。




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