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ジュディー、現代短歌っておもしろいのか? ――21世紀の岸辺の歌人たち

(原稿用紙42枚)

 小説は読んでも短歌は読まない、音楽は聴くけれど短歌には全然興味ない、映画はよく見るんだけど、短歌ってなに? 教科書にのってるなにか? そういうの読んだり作ったりするのってなんか恥ずかしくない? イメージ的にさ――

 といったところが、たいていの方の短歌観ではないだろうか。自分の生活に必要がないもの、あえて導入する意味がないもの。

 まあ、そうである。短歌は生活必需品ではない。それに文化ジャンルのヒエラルキーのなかではかなり下のほうだ。音楽、映像、小説などの華々しさがともなったものに比べると、痛々しいくらい地味である。

 しかし、世のなかには生活必需品でなくても、持っていることで日々が豊かになったり楽になったりするものがある。それに人は華々しいものだけで生きられない。そんなことをしようとすれば、見えない歪みだらけの人生になってしまうだろう。

 だからちょっと立ち止まって欲しい。あなたの人生にこれまで短歌は必要ではなかったかもしれないが、この小文ですこしその認識を変える自信があるのだ。そしてそれはわたしが自分の文章力に自信があるというわけではない。ではなくて、短歌というジャンルに自信があると。

 たとえばこの歌などはどうだろう。

 寝た者から順に明日を配るから各自わくわくしておくように

 こちらはどうだろう。

 3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

 最初のものは佐伯紺の作品で、二番目は中澤系である。とりあえず、この2首に何かを感じたならば、この小文を読むべきである。

 短歌そしてひいては詩歌の良さというのは、ポストカードや写真の良さではないかと思う。自分の好きなポストカードや写真をあなたは何枚持っているだろうか。

 ポストカードや写真は具体的に人生の役にたつわけではない。しかし気にいったポストカードや気にいった写真がない人生とはどういうものだろう。それは何かが欠けているということにならないだろうか。

 しかし、小説だったら『カラマーゾフの兄弟』『百年の孤独』、映画だったら『サンタ・サングレ』『ラルジャン』とかそういうすごいものがたくさんある。そうしたものを摂取する時間を、ポストカードなどを眺める時間にあてていいのか。
 もちろんいいのだ。一生肉ばかり食べて過ごすわけにはいかないではないか。

 そしてショートレンジの修辞家としては、歌人は我が国で最強であるように思う。いい短歌を読んだあとで作家や作詞家の比喩を見ると、しばしば児戯に等しいことをやっているように見える。いや、作家や作詞家を貶めたいわけではないが、もうこれは事実なのである。もちろんだからといって、歌人が作家よりいい小説が書ける、作詞家よりいい歌詞が書けるというわけではまったくないが。

 では、ポストカードを集めるように、あるいは写真集を見るように、短歌を探しに行こう。

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