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生きるのがこれからもずっと下手だ

久々にnoteを更新するよ。こんばんは、四藤です。

ぐっちゃぐちゃでも書くって決めたんだ、このnoteはもしかしたらいつか消してしまうかもしれないけれど、今の僕には必要なんだ。これを今見ている人にはとても読みにくいものかもしれないけれど、時間が有り余っていてやることが他になくて・・・みたいな人がいるなら、見てほしい。


ずっと文章が書けなくて、ずっと生きていくのが怖くて、どこにも顔を出せなかった、四ヶ月だった。


ぼくは、ずっと小さい頃から「よわむし」で「なきむし」だった。この世界は生きていくにはあまりに怖くて、だから強がったりもして、きれいごとも言ったりして、それでも「怖い気持ち」や「醜いもの」はそこらじゅうに転がっていたりする。

「いいこと」を言いたくて、noteを書いていた。誰かに響くものが書きたくてnoteで文章をかいていた。だけどこの世界には確実に悪意のある言葉があって、人がいて、だから、「おくびょう」な僕にどこにも行き場がなかった。弱さを見せたら、殺される。そう思った。だって弱い自分の価値なんて、わかんないんだもの。

わかんないんだよ。

未だに生きるのが、へたくそなんだよ。

それでも自分はどうにかこうにか『自分がこの世に生まれた理由』だとか、『生まれてきた意義』を見つけたい。四藤汐が生きててよかったね、って言われる何かを残したいんだよ。友達に言うと、壮大だねって言われるんだけど、私だけじゃない、他の人だって自分がなんで今生きてるのか、きっと無意識でも探していると思うんだよ。

さがすって、こわいんだ。まるで正解があるみたいだからさ。せっかくいい答えを見つけても、「これが正解じゃなかったらどうしよう」ってきっと迷うんだ。
だから、さがさなくていいか、ってあきらめちゃう人もいると思うんだ。目の前のものが正解ってことにしようか、って。きっとそれも一つの答えだ。だってこの世界に「まちがい」なんて一つもない。


君が選ぶことに、まちがいなんて一つもない。



きっと、僕も、そうだ。きっと僕が今まで選んできたことも、間違いなんてひとつもなかった。
でも不思議なことに、「自分が選択したものが間違いなんじゃないか」って、思わされる時がある。不安になる時がある。そんな時はきっと、わるい僕が、僕をだまそうとしている。

(価値がない、よわむしだ、なきむしだ、生きていく能力がない、力がない)

全部自分のなかの声なんだ。どこにもいけないように、自分を縛りつけようとしている。なにも変化しなくていいよね、って騙そうとしている。このままどこにも動かなければ不慮の事故に巻き込まれることもない。生存するには動かない方が確実なんだ。

だから動かなかった。ぼくは動けなかった。

こわかった。

正直に言うと、今でも生きていることは怖い。

でももしかしたら、街ですれ違った会社員や電車の中で眠そうにしている主婦や公園でのんびりしているおじいちゃんも、もしかしたら『生きているのが怖い』のかもしれない。みんな、強く生きているように私には見えるけど、心の中に大きな傷や消えない悲しみや忘れられない怒りを抱えて、それでも懸命に生きているのかもしれない。

私は、その人たちのために、出来る限り「やさしいことば」を使いたい。
やさしい生き方をしたい。
もっといえば、生きるのに苦しんでいる人が、生きるのが今より楽な世界をつくりたい。

私は人のために「やさしいことば」をつかおうという気持ちは出てくるけれど、自分のために「やさしいことば」がつかえない。だから、すぐへこたれるし、きっとこれからもたくさんつまづくだろう。生きるのがうまい人がどんなに『考えるより行動しろ』と言っても、きっと私は考える。なやむ。立ち止まる。

それでも、『おなじく立ち止まる人』に、「立ち止まるきみもだいすきだぜ」って言えるように、がんばって生きるよ。

本当にぐっちゃぐちゃなnoteだな。それでもちょっとだけ、言葉を吐き出して落ち着けた気がする。これが終わったら、ちょこっとだけ小説を書こう。とびっきりやさしいやつ。

ここまで読んでくれて、ありがとう。


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