見出し画像

罪悪感という感情と向き合う

気がついたらずっと長いこと罪悪感という感覚で行動や思考を支配されてきた。知らないうちに親から自分の感情を否定されて、自分の感覚で生きることを許されていなかった。

最近ようやく「それは不当に奪われたものだ」と感じられるようになった。うん。

しかし同時に、自分もなかなかに大変な子育てを経たタイミングでそれを認知したので、親もそうせざるえなかった、という状況もなんとなく想像できるし、ならば仕方ない、という感想もあって、別に怒りとか恨みとか、やり返してやりたいとか、奪い返したいとか、そういうのは、別にない。

(ただ思い返すとちょっと心臓がぐーっと痛くなるくらい…これはなんの感覚・感情なんだろうな?今はまだ心の無意識からのメッセージの読み取りが不慣れで下手でよくわからない)

強いて言えば、社会がよろしくなかったんでないの?という不満かな。手が足りない。まぁだから足りないケア要員として私が母親をケアする側に引っ張り込まれたわけだが。

とはいえ親への直接の恨みはさほど…力の抜き方を知らない、怒りを原動力に走るしかなかった、不器用な気の毒な人だったのだな、としか。(生きてます。)

母はガマンが全身から溢れ出るような人だった。言いたいことを言わずにためこんで、不満ではち切れそうになる人だった。放射能のようにそのガマン線(ガンマ線ならぬ)を浴びて育った。もう生涯に浴びていい線量を超えてしまった。

ガンマ線はDNAを傷つけるけど、ガマン線は自我を傷つける。不満ではち切れそうな人の側には安心安全がなくて、自我がすり潰されてしまう。

母と私は、幼少期から思春期にかけてうまく噛み合わなくて、お互いに不幸な巡り合わせだった。悩みは共有できなかった、インターネットもなかったし、外に頼る術がなかった。

(とはいえ、あの頃今みたいなインターネット環境やSNSがあったら…衝動性の強さや承認欲求からバンバン顔出しや個人情報垂れ流しで発信してしまったかもしれないし、若い頃なら変な人に目をつけられて性犯罪に巻き込まれてたかもしれない。なくて良かった。)

母とは今はもう少しマシな相性かもしれないけど、過去のトラウマがあって一緒にいるとリラックスできなくて疲れるのよ、ごめんね。子ども達や夫も連れてたまに会うくらいなら、まぁなんとか。

いやホント、週末だけお客さんとしてもてなされる(ケアされる)ために帰ってくる激務のパートナー(父)と知り合いのいない異郷でワンオペで3人育てるのは無理ゲーよ。故郷の母親(祖母)は子育てしないタイプの野生動物みたいな人だったから電話や宅配で勇気づけてもくれなかっただろうし。

何かというと「私は3人育てた。手は3本ないから本当に大変、この大変さは2人しか育てたことのない人にはわからない」と事あるごとに苦々しげに私に言い聞かせた。

その足りない分はちゃんと私にシワ寄せが来てたよ?あなたはひとりで3人育てたように思ってるかもしれないけどさ。子ども達みんなでちゃんとその母のストレスごと受け止めて一緒にお互いをケアして育てながら育ったんだよ、と思う。

あとその口調に「私は子育てなんかしたくなかった、つらかった」がにじんでいてひっそり傷ついていた。「お前を育てるのは大変だった」って2人子育ての人への憎しみを混ぜ込みながら繰り返し言い聞かせるのはやめてほしかった。

産んだのあなただよ?2人産むことを選んだ人、3人産むことを選んだあなた、どちらも自分の思い通りになってるんだよ。どうして向こうはズルをしてラクをしていて、自分が不当に大変さを押し付けられたみたいに言うの?

ひとりっ子はひとりっ子の、2人は2人の、3人は3人の大変さがあって、それは別々のものだよ。どれが一番大変とかエライとかそういうことではないよ。私は3人いてしかも長男が障害がある、という立場で(狙ったわけではないにしろ)それで母から「私の方が大変だったアピール」されるのは免れたから、それは本当によかったと思う。

産まなきゃその大変さはわからなかったのかもしれないけど、軽蔑している祖母も3人産んでるしラクショーと思ったのかもしれないけどさ、そんなに苦痛なら母に関しては3人産むのは無理することなかったのでは、と思うよ。私は弟大好きだから産んでくれて心からありがとうだけどさ。

まぁ弱い人だったんだよな。(生きてます。)その弱さを子どもにぶつけてしまう、もしくは本人は我慢しているつもりでも全身から不満が溢れ出てしまう、という。まぁ多かれ少なかれどの家庭にもあることなのだろうけどさ。

テレビとかで、なにか家庭に不幸があって、子どもが気丈にしっかりしている様子を見るとかなしい。胸が締めつけられる。(最近見た)

子どもは安心してバカやってワガママ言って親を困らせてるくらいがちょうどいい。そういうのびのびしたお子さんを見ると、ああいい親御さんだな、と心のイイネを押しまくる。

躾は躾だけど、それは大人の都合であって、安全面さえクリアしたら小さい子は躾けられすぎない方がいい。(まぁ小さい子の躾と安全は不可分なのでなかなか片方だけというのはむずかしいけど)枠に収まりきらない子は見ていてうれしい。

君たちがイタズラしてワガママ言えるような場所を、私たち大人が守っていくからね、と思う。私が奪われた野放図な子ども時代を、キミたちはぜひ全身で謳歌してくれ、と思う。


で、罪悪感。

これは私にとって、ものすごく存在の大きな感覚で、行動原理で、行動がバグる恐怖の対象。

これをだね、意図的に感じないように薄める、または切り離す、というのを最近トレーニングとしてやっている。

必要以上に罪悪感を感じると、人に罪悪感を植え付けて支配したいめんどくさい人が寄ってくるから。その悪しき習慣を断ち切りたい。

前回の日記にも追加で書いたけど、

「私にとって「あなたと私はちがうね」というのは「カバーできる範囲が増えるね」というメリットを感じているか、あるいはただ単に「ちがう」ということを指してそれ以上でもそれ以下でもないんだけど、滅するタイプの人にとって「ちがうね」は「〇ね」または「どちらが生き残るか〇し合おう」と同じ意味で、死の宣告であり存在の全否定になってしまう…らしい。
 
 あなたと私がちがったとしても、あなたはそのまま生きていけばいいし、私は私であなたとはちがう状態で快適なのでなんら変える必要はないし、お互いにそのままで、どこにも問題はない。
 
 あとそのちがいに優劣はない。私にとってはこれが心地いい、あなたにとってはそれが心地いい、どっちの心地よさが上か下かなんて別にないし、決める必要もない。
 
 はずなのだが…?なぜかちがうと指摘することがそのまま相手への攻撃と受け取られるし、こちらの優位を主張する宣戦布告と取られる。いや別に「私はこれがいいと思う」、はあなたのいいを否定しているわけではないよ?なぜ…?
 
 女性らしくするしないにせよ、会話かテキストかにせよ、感情か理性かにせよ、自分の心地いい方をやればいいじゃない。どっちが正しいとか、どっちが優れているとかないよ。多い少ないはあるよ?でも多い方が正しいわけでも、少ない方が遠慮しなきゃいけないわけでもないよ?
 
 あと「わからない」は攻撃ではないよ。わからないからそう言ってるだけで。エモーショナルな人たちがなぜ自分が苦しんでまで相手を攻撃して敵対して関係性を壊すのかよくわからない。これはイヤミではないし、別に馬鹿にしているわけでもない。
 
 (でもたいていそうは受け取られない。だから相手とちがう意見はなるべく出さない方がいいのだろうな、と同調する風にしてやり過ごしている。たまにムズムズするけど、そこは我慢する)
 
 
 この辺の齟齬はなかなか溝が深いようで、簡単には埋まらない。わりと根っこの方の違いなんだろうな。ともに生きるのがむずかしい。粘菌みたいに一体化して同化するしかない。不安なんだろうな。
 
 
 不安だから他者承認が欲しい。自分の意見より他人の意見の方が重要視されている。「みんなと同じ」という多数決の価値観を絶対視して、自分の意見・価値観を信頼していない。だからちがう意見を見ると過剰に傷ついてしまうのだろうな。
 
 まぁうっかり粗忽の度が過ぎる私も、なかなか自分自身を信頼できないという部分では共通する痛みは持っているけれど、でも少なくとも「自分は自分の味方である」というところさえ揺るがせにしなければ、世界中がアンチでも、世界にただひとり自分という味方がいれば、それで十分だと思う。勇気100倍。最近実感を伴ってそう思えるようになってきた。いい感じだ。
 
 
 あとある属性から自分が受けた被害を同じ属性の奴はなんとかしろ、お前も同罪だ、という無茶振り。個としての関係性を飛び越えてくる。ホントこういうタイプはあらゆる存在をひとまとめに同一化してるんだな、どうやって説明したらいいかな、困ったな、と思う。
 
 昔はそれで「同属ですみません」と謎の罪悪感を発動していたけど、最近は「知らんがな」と思う。私と似た人や同じ属性の人だろうと、私がやったわけでもないことの責任を私が背負う必要はない。課題の分離が進んで、「放っておく勇気」が少しずつ身についてきたのだろう、生きやすくなってきた。

アドラー心理学ありがとう。でもきっとひとりで読んでいても身に付かなかった。実際に共同体感覚のある人から直接伝授されたから「わかった」。これは読書会のおかげだと思う。参加してよかった。


追記部分がかなり多かったけど、この最後の部分。【謎の罪悪感】、これがクセモノで。私は他人の責任を知らず知らずのうちに引き受けようとしてしまう癖(へき)がある。自他境界のゆるさゆえに。

直接「お前のせいだ」と言われたら「ハイそうです」と答えてしまうし、それとなく匂わせられただけでも、申し訳なく畏まるし、メンタルの調子が悪い時は、全然求められてなくても、勝手に責任を担いで罪悪感を感じてめためたとなる。これめちゃくちゃムダだ。生きにくさを生むムダ罪悪感。

そして罪悪感を植え付けたい人からはいいオモチャにされる。あかんで、頼まれもしない罪悪感あつめしたらアカン。魂に【ゴミ収集車】のマークがついて、心のゴミが溜まってる人から「ついでにウチのも持ってって」とばかりに悪意の回収を頼まれる(理不尽な八つ当たりされる)ようになってくる。それが当たり前になると、「この人にはゴミを捨ててもいいんだな」、と思われる。人の心のゴミ捨て場になったらアカンで、もう。

たとえば下のTwitter

https://twitter.com/caerusienne/status/1590217671089729536?s=46&t=Kd_Po_KE6xR-LAUwXJK9Dg

 なんでも忘れるパートナーへの呆れと諦め。これを読んだ時、私も同じようになんでも忘れるタイプだから、肩身が狭く申し訳なく思った。

今までだったらそのまま通り過ぎていたけど、今回はこれがまさに罪悪感を引き受けている状態だな、とハッと気がついた。なのでこの気持ちを掘ってみよう、と思った。


これを掘ってみると、自分とこの人のパートナーを同一視してしまっていた。会ったこともない別の人間なのに。

人間関係は相性だから、これは相性が悪いだけ、なんでも忘れる属性の人でも、相手によってはうまくやっていけることもある。なんでも忘れる属性はそのものが悪いわけではない、たとえその属性がこの人に不利益を与えたとしても、もし私だったらほかの部分で話し合って解決できたかもしれないし、そもそも私はこの断罪されているパートナーではない。

よって私がこの人のパートナーへの不満に対して、罪悪感を引き受ける必要はない。うん。リフレーミング完了。

#今日のお歌 …【かみのみそしる】罪悪感に負けずに勇気を持って自分らしさを出していきたい。https://youtu.be/QjNfyEERyZU

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?