ポスト大衆社会


 大衆社会あるいは大衆文化というものは、情報がある程度集中しながらも独占にはなっておらず最低限の選択肢が存在したうえで、それを大衆に伝達する手段が整い、資金が集まることによって生じ再生産も可能になる。同じものを見て、聴いて、共感することによって運動も起こりうる。しかし、大衆に情報を伝達する手段とはテクノロジーであり、その発展を資本主義社会は止めることができないため、発展が選択を増やし、選択は集中を解体する。自由意思という思想も集中の解体を助ける。よって、現在は情報があふれているが、運動(ムーヴメント)は起こりにくい。

 ある時期から映画のCMなどで、一般人がカメラ越しに映し出され、「泣きました」とか「感動しました」と語ったり、映画視聴中の涙を流している姿を横から撮ったものが映し出されるようになった。それを見ていると、そこには大衆の不安が投影されているだと感じる。不安を逆手に取って、映画館に足を運んでもらうためのCMなのである。「あなたはきっと、喜びを、感動を得ることができる!」と。今のテレビで多用されるワイプも同じ効果があると言えよう。

 現在のテレビ番組等を周回すると、その内容には大衆社会へのノスタルジーが存在する。作品の質に問題は多いように感じるが、視聴者もそれを求めている部分もあるのだろう。皆で、同じものを観て、聴いて、笑ったり感動したりしていた時の感情は確かなものであったと(実際に確かであったかどうかは、本当は分からないにしても)。

 個々人は、怒りや悲しみ、あるいは喜びを感じている。しかし、それは実は不確かなものなのである。人は自らの心を欺くことすらできるのである。その感情を確かなものにするためには、他者もしくは神が必要となる。信仰が衰退したあと、他者がその位置を占めることになる。他者は複数であるほど、自己の感情を補強する。

 だが、テクノロジーの発展が大衆社会を終わらせる。その感情は更に不安定なものとなるだろう。安定させるためには、何らかの思想が必要だろう。しかし、前述の集中の解体もあるため、思想の力も弱い。資本主義・自由意思・恋愛至上主義などは今でもまだ残っているが問題点も多い。そもそも、こういった思想は大衆社会的なものであるから。

 ポスト大衆社会はどのようなものになるのかその推移を見守りたい。

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