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国立西洋美術館は実業家の強い思いが形になったものでした

東京上野の国立西洋美術館にて「北斎とジャポニズム」展が開催されていたので行ってきました。

江戸時代の浮世絵師葛飾北斎は、モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど印象派の画家に大きな影響を与えました。彼らの名作と北斎の錦絵などが比較、対象されるように展示されていて、とても興味深くおもしろい展示でした。

国立西洋美術館といえば、昨年「ル・コルビュジエの建築作品」の一つとしてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
ル・コルビュジエはフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに「近代建築の三大巨匠」と呼ばれています。
西洋美術館は彼が日本に残した唯一の作品であり、彼の建築の特徴であるピロティ、屋上庭園、自由な平面構成、骨組みと壁の分離、自由な立面が見られるも魅力的ですが、この美術館に関わった二人の大実業家も興味深いものがあります。

一人は川崎造船所(現在の川崎重工)社長の松方幸次郎、そしてもう一人は川崎造船所の創業者である川崎正蔵です。

川崎正蔵は薩摩の生まれ。若くして長崎に出て貿易商の修行を積み成功し巨利を得ます。この間に海難事故に何度も遭った経験から近代的造船業の必要性を痛感。
同じ薩摩出身で後に内閣総理大臣となる松方正義の援助も得て造船業に進出。明治20年には神戸に川崎造船所を設立しました。

それから程なくして日清戦争が勃発、川崎造船所には注文が殺到し繁忙を極めます。その時60歳に近かった川崎は、個人事業としての限界と後継者がいなかったことから、川崎造船所を株式会社にするとともに自らは顧問に退き、社長を恩人である松方正義の三男の松方幸次郎に任せます。

その後川崎は美術品に関わりを深くしていきます。
明治維新後、日本の伝統的な美術品は欧米の愛好家の手に渡り、多くの名品の国外への流出が続いていました。川崎はこの状況を憂い、生涯に渡って2000を超える名品を買い集めました。
また自らも美術品の製作に乗り出し、明の万暦七宝に匹敵する七宝焼を目指して取り組み、パリ万国博覧会では大花瓶と大香炉が名誉大賞を受賞しています。

一方の松方幸次郎は米国ラトガーズ大学、エール大学で学び、帰国後は父の秘書官となりました。
松方は川崎造船所の社長に就いたのをきっかけとして神戸新聞、神戸瓦斯、九州電気軌道、川崎汽船など数多くの社長に就き、後には衆議院議員に当選して政界・財界の巨頭となりました。

彼は私財を投じてヨーロッパで多くの美術品を収集しました。それは趣味ではなく、日本人が本格的な西洋美術に触れることのできる共楽美術館を作りたいという思いからでした。

後に松方幸次郎は会社経営に失敗。金融恐慌で川崎造船所は破綻。川崎正蔵が築いた川崎財閥も崩壊してしまいます。
共楽美術館は夢と消えてしまいました。

国内にあった松方コレクションは担保などに取られ散逸。
国外のコレクションはそのまま保管されていましたが、ロンドンにあったものは火災で焼失、パリにあったものは戦後敵国の財産としてフランス政府に押収されてしまいました。
交渉の末に一部を除いてフランスから返還され、西洋美術館が建てられて所蔵されたのです。

彼はその実現を見ることなく世を去りましたが、共楽美術館を作りたいという思いが国立西洋美術館という形になって叶えられたのです。
強い思いは叶う、また一つその事実をみつけることができました。

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