見出し画像

龍神と私――40年前の少年が記憶したもの

1
今、40年前に住んでいた諏訪市で働いている。平日に仕事をし、週末に新潟の自宅へ帰る単身赴任だ。

赴任の期間が決まっていることを単身赴任と呼ぶのなら正確ではないかもしれない。今の社会福祉法人で働く限りずっと続く単身生活だから。それを連れあいは恨みさえ込めて別居だねと言った(別居と呼ぶのも正確ではないと思う)。

さて、そんな悲哀は措いておくとして、諏訪は風光明媚なところだ。先日、私が少年の頃、40年前に住んでいた田辺(たんべ)のアパートから当時30代であった母がどの道を運転して上諏訪駅前まで行ったのかを辿ってみた。子ども心に立派に見えた道は結構曲がりくねっていて、ああ、でも何となくこの家並みだなと思い出す、車で15分ほどの道だった。小学校低学年の私は母の軽自動車に乗せられて駅前にあるエレクトーン教室へ通った(今も同じ音楽教室がある!)。

3年通った湖南小学校の通学路も何度か辿った。その裏手にある諏訪西中学校のさらに裏から、中央道(高速)の建造物を潜って守屋山に登ったことを思い出す。小学3年の遠足だったと思う。今は中学校の裏手にある老人ホームへ仕事で行くことがある。

2
昨日は仕事の帰り道、台風が来ていて南風の入る諏訪湖畔を自転車を漕ぎつつ考えた。私は魚座の辰年である。どこに住むにしてもなぜか川のあるところに私は馴染む。出身地である鹿沼市の黒川然り、フリーター時代にわざわざ川沿いのアパートに引越して住んだ多摩市の乞田川然り、人生で一番長く住んださいたま市の見沼代用水然り、昨年まで仕事で通った南魚沼市の魚野川然り。そして40年ぶりに帰ってきた諏訪湖に注ぐ上川然りである。(あまり馴染んだとは言えない南魚沼は、魚野川の神様――龍神と私との相性が悪かったのかもしれない。荒ぶる自然の魅せる美しい川である。)

私が諏訪に住んだのは3歳から9歳までの6年ほどだが、この地を歩いていて見るもの聞くものを何となく覚えているような、思い出せるような気がするのは、単なる郷愁を超えて、全能感さえ持っていた幼い私が、見て聞いて肌で感じ、自分が生きる世界を言葉にして覚えた――この地で育ったという経験が呼び起こされるからなのではないかと、大袈裟だがそのように思う。

諏訪湖畔は夕方になると守屋山から南風が吹く。朝は逆に横川山から北風が吹く。冬にはこの北風が諏訪湖を凍らせ御神渡りとなる。私は今、幼い子どもの頃に身に受けていたこの風を受けて、再び同じ道を歩いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?