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永劫回帰と再帰性、キッチュと偶然性 ミラン・クンデラから考える

ここ数年、わたしが考え書き残してきたのは、テクノロジーのあり方についてであった。そのために、あるときは技術の概説に目を通し、あるときは科学哲学を参照し、またあるときは経済学にあたった。しかし、それより前の数年はずっと芸術表現の価値──美のあり方と言ってしまうのも面映い──のことを考えていた。


存在で耐えられないのは“軽さ”なのか?

永劫回帰という考えはミステリアスで、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの何ともわけのわからない神話は何をいおうとしているのであろうか?

『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳/集英社)

こんな書き出しで始まるのは今年の夏に亡くなった小説家ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳/集英社)だ。この名作は当初、クンデラの母国語であるチェコ語で書かれた。ゆえに、1990年代に出た最初の邦訳はチェコ語からの翻訳である。その後、ゼロ年代に池澤夏樹が編纂した世界文学全集に収められたのはフランス語からの翻訳であろう。クンデラは当時、共産圏であったチェコスロバキアからフランスに亡命したことで、フランス語で執筆をするようになったからである。この小説は1982年にチェコ語で執筆され、2年後、フランス語に翻訳されてフランスで発表された。
ここで試みに、世界文学全集『存在の耐えられない軽さ』(西永良成訳/河出書房新社)の冒頭も引用してみよう。

永劫回帰というのは謎めいた思想だから、ニーチェはこの思想によって多くの哲学者たちを困惑させた。いつかすべてが、かつてひとが生きたのと同じように繰り返され、その繰り返し自体もさらにかぎりなく繰り返されるなどと考えるとは! この奇想天外な神話は、いったい何を意味するのか?

『存在の耐えられない軽さ』(西永良成訳/河出書房新社)

わたしはこれを一度目は多感な青春時代に、二度目は仕事ばかりにのめり込んでいた30代の終わりに読んだ。どちらとも読後、数日はその小説世界を魂がさまようほどに感動した。クンデラはわたしの生涯にとって最重要な作家である。
しかし、感動が落ち着いた後もずっとわたしの思考を捉えて離さなかったのは、この冒頭の不可解さなのだ。そして、この小説で論じられる“軽さ”について、だ。
繰り返される人生はむしろ一回性の価値を失い、再現可能であるがゆえに軽くなるのではないか。わたしは当初からそう感じていた。
しかし、クンデラはそうは言わない。
主人公である放埒な天才外科医のトマーシュが自身の存在を一回性のものとしてあまりに軽く扱う。そのことに妻のテレザは耐えきれない。トマーシュの愛人である芸術家のサビナもまた永遠を遠ざける。愛などという刻印を自らの人生に刻むことから逃げる。永遠という存在の重みを受け入れない。
クンデラは書く。永劫回帰の世界ではわたしたちの行いのすべてが永遠のものとなり存在の重みを課せられる。対して、わたしたちの人生が一回きりのものであるなら軽さを持って現れてくると。
そして問う。

だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?

『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳/集英社)

永遠性の重みを逃れるがゆえに、一回性の軽さは輝きを増すのだろうか。わたしは今も頭を整理しながらでないと書き進められない。どうしても繰り返されうること──再現可能であること──のほうに軽さを感じてしまうからだ。再現できない一回性の貴重さに重みをおいて考えているからだ。再現できない一回性の貴重さこそが、わたしたちの情熱や倫理の源とみなすほうが容易だからだ。

キッチュという開き直りの軽薄さ

クンデラのいう、あるいは疑う軽さを知るには、『存在の耐えられない軽さ』における重要な概念である「キッチュ」を考える必要がある。もともとは俗悪なもの、醜いものを指す言葉であった「キッチュ」はしかし、20世紀、高度に進化した資本主義社会の相対化のなかで、ある種の露悪的な、開き直りのような軽薄さを意味するようになり、かえってポジティブな意味に転じた。
日本のサブカルチャーなどキッチュがなければその魅力のそうとうな部分を説明できなくなってしまうだろう。ゴスロリやら、包帯ファッションやら、可愛いドクロやら、どれも海外から日本的な変態進化として評価されるサブカルチャーはキッチュなものばかりだ。
クンデラは『小説の精神』(金井裕、浅野敏夫訳/法政大学出版局)に収められた「七十三語」という用語解説ふうのエッセーで次にように書いている。文中の「キッチ」はキッチュのことである。ちなみに、英語でもドイツ語でもフランス語でも綴りは同じ〈Kitsch〉である。フランス語で「キッチ」と発音する。

プラハでは、私たちはキッチこそ芸術の最大の敵であると思っていた。フランスでは違う。ここでは真の芸術に対置されているのは娯楽作品である。偉大な芸術に対置されているのは軽い二流の芸術である。

『小説の精神』(金井裕、浅野敏夫訳/法政大学出版局)

少し説明が必要だろう。クンデラが憎むキッチュとは低俗な開き直りによって成り立つ自己肯定であり、捻くれた選民意識によるスノッブ根性だ。クンデラは「キッチはあばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」だと言う。
共産圏であったチェコスロバキアでは敵であったものが、資本主義社会のフランスではそうではなかった。資本主義ゆえにむしろ金儲けの娯楽作品が芸術の敵となっていた。その敵対関係は安直なものだ。
本来の自分から目を背け、みなが価値あるものと言い合うことで支えあうキッチュこそ、芸術を阻害する軽薄さではないか。軽薄さとは、儀礼的でありながら現代という時代をキャッチアップしていることを誇るだけのものでしかない。いや軽薄だからこそ、こうした身振りができるのだ。
わたしは、ビジネスパーソン向けの教養本、読書本をありがたがる似非インテリたちを忌み嫌っているが、それはまさにクンデラの憎むキッチュさゆえにだ。こうした本に漂うのは、捻くれた選民意識によるスノッブ根性でしかない。そんなものが教養になどなるはずがない。ただ開き直っているだけだ。
『存在の耐えられない軽さ』におけるトマーシュの放埒で淫蕩な生活はキッチュであり、サビナが嫌うプラハの春のデモの行進者たちがなぜ彼女にとってキッチュであるかも、ここでようやっと理解できる。
こうしてわたしたちの存在はキッチュに流されていく。そしてキッチュさゆえに、誰もがそれを憧れとする。
わたしはクンデラに倣って言おう。
だが本当にキッチュは素晴らしいことであろうか? 将来を憂うそぶりと幅広いだけの知識を持つ自分にうっとりするのはなぜか?

悲劇的なそぶり

キッチュについて調べ直そうと十数年ぶりに開いた『小説の精神』「七十三語」に面白い箇所を見つけた。それは喜劇への用語解説だ。こう書かれている(今回は引用が多い)。

人間の偉大さという美しい錯覚を私たちに与えたことで、悲劇は私たちに慰めをもたらす。それに比べれば喜劇は残酷である。一切のものの無意味さを情容赦なくあばきたてるからだ。〈中略〉喜劇の真の天才とは、私たちを精一杯笑わしてくれる人ではなく、喜劇の未知の領域といったものをあばいてみせる人である。

『小説の精神』(金井裕、浅野敏夫訳/法政大学出版局)

ここを読んで思い出したのはチェーホフの戯曲のことだ。『かもめ』(浦雅春訳/岩波文庫)『ワーニャおじさん』(湯浅芳子訳/岩波文庫)『三人姉妹』(湯浅芳子訳/岩波文庫)『桜の園』(小野理子訳/岩波文庫)という4つの古典的名作をチェーホフは喜劇とした。最初の作品であり、自殺者まで登場する『かもめ』にはわざわざ「コメディ」と書き記す。
悲劇としか読み取れないこれらの戯曲を作者はなぜ「喜劇」としたのか。これは世界中の演劇人を巻き込み今の重要な議題に上る。いわゆる「喜劇問題」とよばれる。
それこそ『存在の耐えられない軽さ』の劈頭に倣えば次のように書けるだろう。
チェーホフは『かもめ』『ワーニャおじさん』『三人姉妹』『桜の園』をみずから喜劇とすることで、自分以外のあらゆる演劇人を困惑させた、と。
わたし自身も、演出家で劇団主宰者である旧友とのYouTubeの動画でそれについて議論したことがある。かいつまんで、わたしの解釈を述べておけば、喜劇と悲劇の違いは、生活視点と歴史視点の違いだということだ。
生活として日常に起きた出来事、事件は生活人のなかに取り込まれる。食事をし、排泄をし、セックスを求め、そしてサボることばかり考える生活のなかに。たとえそれが戦争であっても爆撃でもあっても生活のなかでは、人間の愚かさ無意味さは喜劇の対象となる。
対して、歴史として出来事、事件を捉えれば、それらは因果関係を突き詰められ本質的な意味を追及される。その深刻さこそ悲劇的であり、クンデラが言うように人間という存在が偉大であり進化の途上という歴史で見れば、この世は悲劇にあふれる。
チェーホフの喜劇問題をわたしはそんな点で解釈している。詳しくは動画を見てもらったほうがいいだろう(ちょっと恥ずかしいが)。
さて、ここにきてテーマが収斂している。そうなのだ。
歴史に悲劇性を感じることこそキッチュであり軽薄ではないか。かつてない──一回性の──悲劇たる歴史的な事件(とされる出来事)と見立てることにキッチュさは潜んでいまいか。繰り返される人間の──こう言ってよければ普遍的な──生活にこそ存在の重みを感じるのではないか。
いや、しかし多くの人は歴史のほうに、悲劇のほうに重みを感じるし、生活のほうに、繰り返しのほうに軽さを感じる。
時代の特異性を殊更にことあげする悲劇的なそぶりに潜むキッチュ、それが大嫌いだ。

再帰性と偶然性

この記事はだんだんと方向を見失っているのかもしれない。というのは、今回、クンデラやチェーホフを引っ張り出して話したかったのは、香港の哲学者であるユク・ホイが書いた『再帰性と偶然性』(原島大輔訳/青土社)についてだからだ。この本を教えてくれたのはIT批評で記者をしてくれている都築正明さんだ。彼にはいつもこうやって新しい知を紹介してもらう。
わたしは『再帰性と偶然性』にものすごい感銘を受けた。なぜなら、ここにはわたしの長年の知的な関心のほぼすべての要素が盛り込まれているからだ。
まずタイトルからして、再帰性という繰り返しと、偶然性という一回性を表しているではないか。著者はこの視点から、主にサイバネティクスを論じるのだが、その論点となるのは技術論のみならず、観念論であり実在論であり、西洋と東洋の思想であり、芸術でありと、ありとあらゆる知が導入される。
再帰的なフィードバックシステムである生物(有機体)をヒントにしたより大きな視点からの機械論こそがサイバネティクスであり、人間の脳を再現的、構成的に研究することでブレークスルーした人工知能はその最新の例のひとつだ。
機械や社会をより大きな視点、言い換えれば、よりメタな視点で観察、記述することを可能にしたサイバネティクスをして、ハイデカーは形而上学を終焉させるものと評したという。
そのうえでわたしが重要に思ったのは、再帰性と偶然性の位置付けによって歴史観のみならず価値観、倫理観に大きな差異が生じることだ。偶然も繰り返されれば、再帰となる。これがフィードバックシステムだ。人工知能で生じる創発やベルグソンのいうエレンビタール(生の飛躍)とは繰り返しを一旦は乱すが、それはフィードバックされて再帰のループに取り込まれる。ここ最近の言葉で言えば、それは偏在から遍在へと変化する。
ユク・ホイはホモデウスといったトランスヒューマニズムに強い警戒を示す。それをユダヤ-キリスト教的なものと論じる。この辺りは期せずして前回の記事でわたしも同じように書いた部分でもあるから、思わず膝を打った。トランスヒューマニズムの何が危険かと言えば、最後の最後にフィードバックできない偶然性が現れるからだ。それこそ偏在の根拠だ。
ユク・ホイはヘーゲルの弁証法を持ってきて、テーゼとアンチテーゼのループがジンテーゼに総合されることをもフィードバックとして論じる。しかしヘーゲルの歴史観こそ、歴史を終焉させる、つまり再帰のループを昇華し切るものではなかったか。そういえば、ユク・ホイは同書で大きな物語の終焉を論じたリオタールについても深く考察する。リオタールの秘められた可能性を引き出している。
テーゼとアンチテーゼというとき、わたしは敵対的生成ネットワークを想起する。敵対的生成ネットワークとは、AIのモデル学習において2つのニューラルネットワークを敵対させる手法をさす。生成AIと認識AIを競わせることでさらに高度なAIを生み出すのだ。生成AIが作った偽の画像を認識AIが正しく認識できるかということだ。これはまさに弁証法のようで、わたしはテーゼとアンチテーゼのループを構成しているように考える。
余談ついでだが、『存在の耐えられない軽さ』における重さと軽さのことも、AI学習の重みづけから類推してみるとことでちょっとした発見ができる。トマーシュはいつまでも自分の人生の出来事に重みづけすることができない。それはフィードバック学習をしないということであり、まさに一回限りの軽い人生なのだ。
話が逸れすぎた。ユク・ホイの『再帰性と偶然性』はものすごい本だ。わたしの力量ではこれを評することはできないし、論旨をちゃんと理解することも、ましてや要約することも叶わない。できれば多くの人に『再帰性と偶然性』を手に取ってほしいと思う。

わたしは芸術における再現不能の一回性の美のことをずっと考えていた。悲劇的なそぶりさえ捨てて芸術を鑑賞できるのならば、そこにあるのは永遠性なのだ。一回にして永遠とは語義矛盾のようだが、それこそが芸術が芸術たる所以だとも思う。
まとまりがなくなった。この辺りにしておこう。

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