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仕事が続かない童貞のエトセトラ

 人生で最初で最後のサラリーマン生活は、国際電気という大手だけど中堅の携帯電話メーカーへの半年間のご奉公で終えてしまった。

 日本の夢を支えたバブル経済はあえなく潰れ、その後にやってきた就職氷河期と言われた95年、96年は就職においては非常に厳しかった。ただ、留学経験があり、大学自治会活動やパソコン通信・インターネットを先に触れ、さらに証券投資まで活動の幅を広げていた私にとって、就職活動はそれほど問題ではなかった。広告代理店から大手メーカーまで、いろんな会社を訪問しては内定をいただいたのは、大学時代に培ってきたことと、塾員(学生)時代に培った口八丁手八丁系の磨かれた対人スキルによる。

 当時は、パソコン銘柄の急騰と、それを支える半導体各社や、今後来るであろう移動体通信(いまでいう携帯電話)が「来る」と思って夢中だった。国際電気を選んだのも、たまたま親父が国際電気の偉い人と知り合いで話を直接聞く機会があったという話だけでなく、移動体通信のど真ん中の仕事をしていてこれは「来る」んじゃないかと相場師的な観点から勝手にイケてる会社で働けるならと思いこんだことによる。

 国際電気の内定を取ったあとで留年したのは運の尽きかと思ったし、たった2単位足りなくて留年したことについては私の未来を閉ざした教授を個人的に恨んだ。いま思えば油断せずにしっかり授業ぐらい出ておけよと思うのだが、当時は投資が面白くてしょうがなかったのである。日本全体ではバブル崩壊局面であったものの、いろいろと面白い手段を講じて自分なりに小銭を突っ込んでは鉄火場を楽しむ一方、自分ルールとして毎月このぐらいは長期投資用の枠を用意すると決めてここぞという会社を8社ほど選んでガチホしていたのは我ながら慧眼であったと思うぐらいに成功し、その後の人生を大きく変えることにはなった。

 留年した後でも国際電気の人事担当であったTさんは快く来年も来てくれよと言ってくれた。本気でそう思っていたかどうかは当時知る由もなかったが、果たして翌年も内定をもらい、問題なく国際電気に入ることになった。大学の就職課は「ふつうはそういうところから来年も『内定出すよ』と言われても恥ずかしいし、万が一のことも考えて他の就職希望先にもトライしておくべきだよ」とアドバイスをされた。そうかと思い、その前年内定を蹴った先のOB訪問も入れていたわけである。

 問題は、ストレート進学で卒業するときの自分と、就職戦線に出遅れて参入する留年一回の「5年生」を受け入れてくれる企業があるのかという点であった。すでに企業説明会は新四年生向けに終わっていた時期に就職活動を開始することになり、さらに、留年までしているわけである。いくら私がうまく話を運ばせようと舌を動かそうにも、面接にまでたどり着けないのでは如何ともしがたい。

 結果として、慶應義塾という就職に強い大学のブランドをフル活用し、実業界に強いリタイヤ組のおっさん方を足しげく訪問して橋渡しを頼み、夏休みまでの3か月間で国際電気以外の、大手企業の内定を3つも取ってしまった。もちろん、国際電気から引き続き内定をもらっている、という事実を伏せての就職活動なのだから、向こうはこちらが国際電気に行くつもりであることを知らない。

 そのうちの一社は、まあ悪名高き広告代理店である。悪名高きというが、私は立派な会社だと思っているし、多くの人たちが文句を言いながらもいい仕事を続けてきているから叩かれても蹴られても引き続き大手筆頭であり続ける実力のある組織なのだろうと思うのだ。ただ、そういう癖のある企業であるぶん、凄い人、素晴らしい人もいる一方、クズも多い。ある夜、内定者たちが呼び出され、お前らは大学生を連れてきて合同コンパ(合コン)ぐらいセットできないとダメだと3時間ぐらい説教されたときはぶん殴って帰ろうかと思った。それがその組織のカルチャーであり活力であることはいかな大学生と言えども知っていたわけだが、ノリとしてチンチン電車をやったり靴でビールを飲む程度の宴会芸をすることは良くても、彼らのために女性をセットすることなど童貞の私にはとても不可能なことなのである。

 それもこれも、使える奴なのは折り紙付きだからと親しい大学の先輩がその会社に勤めていて私をプッシュしてくれたから、面接までたどり着き、少しは話を聴いてくれて内定を得たのは知っていた。その件では恩人と言ってもおかしくないのだが、その先輩となぜ仲が良かったかと言えば当時あまり吸う人がいなかった『マイルドセブンFK』というメジャーブランドのマイナーなタバコを好んでいて、深夜5時まで営業していた六本木ボルテックスというゲーセンの常連であったという理由でしかない。ただそれだけなのに、なぜか深い同志意識があったのだが、良く仕事の愚痴を聞かされに月一回は深夜に呼び出されて、日に日に顔色の悪くなっていく先輩のお供をしていた。

 ある日、そこの何とかという新鋭クリエイター氏がイベントをやるので来いとその大学の先輩がいうので足を向けたところ、原宿の大変おしゃれなカフェのテーブルを全部どけて椅子だけにしたみっともない感じの貸し切り会場であったために酷く失望した。しかも、先輩は誘っておいて、現場にいなかった。顔見知りの同年代の内定者もおらず、私は一人ぼっちであった。早く着き過ぎたのかもしれない。仕方なく、気立てのよさそうな受付の女性と立ち話をしながら時間をつぶした。よく聞けば、何が理由かは知らないがすでに一度その組織を退職して、外の人間として古巣を手伝っている、という態だったので、ああまあ好きにすればと思った。

 イベント自体は興味ない感じで淡々と進んだ。明らかに興味ない人たちが動員された感じで置物の群れになっている。何しろイベントといってもそのクリエイター氏に仕事を出している大手化粧品会社の偉い人との対談だったため、単語からしてまったく分からなかった。そこには科学的根拠や何らかの裏付けは全くなく、ある種の我思うゆえに我ありレベルの主観ばかりで、女性はこういう人生を歩むべきだ、そのためにはこういう身のこなしにする必要がある、という実に単純な二段論法で、あとは売り場やメディアでそのコンセプトさえしっかりと伝わればいいのだという、お前それクライアントの予算ありきだろと思いながら、まだ現場も知らない私は憤然たる気持ちでただただ回るクリエイター氏の話を聴いていたのだ。

 イベントも終わったので帰ろうと思うと、クリエイター氏はそそくさと荷物をまとめている私を何故か呼び止めて、これから宴会に流れるからついて来いという話をしてきた。まだ数回も会っていないのに馴れ馴れしい男だ。

「君、いい感じじゃないか。初々しくて。パイセン(先輩)から一郎ちゃんのことは聞いてるよ」

「ありがとうございます」私は少し引き気味に応えた。「私でいいんですか」

「いいんだよ。とりあえずタクシー3台拾っておいてよ」

「あっ、はい」

後日、それはこの業界には「書生」とか「カバン持ち」などという一種の徒弟制度みたいなものを模した慣習があることを聞かされたが、そんなことはまったく知らず、まあただ飯が食えるのならぐらいの気持ちでタクシーに便乗したのである。

 遠く東京を一望する夜景の綺麗な部屋で、化粧品会社の偉い人と共にクリエイター氏を待っていたのは、当時あまりテレビも観ない私でも知っているうら若い女性タレントや女優などの女性陣と、見るからに成金のガマガエル氏らセレブ紳士たちであった。そのときは「この人、どこかで見たことあるな」と思ったが、名刺も渡してもらえなかったのでギリギリしながら思い出していたが、これまた後日、このガマガエル氏は不動産系上場企業の創業社長で、大手暴力団事務所の組長さんと逮捕されてしまったときに「あーー」と思い出すに至る。

 ほかにも成金紳士な御仁や、タレントなのか女優なのかそういう世界の卵なのかという人たちがいる中で、単なる株好きの大学生である内定者の私が混ざっているというのは特異な空間であった。せわしなく数人の女性というか女の子が配膳したり厨房で慌ただしてくしているのを見て、ああ私の役割はそっちなのだと察した。当時、フュージョン好きな人たちの間で深く愛されていた角松敏生の東京アンサンブルラボや堀井勝美プロジェクトが薄くBGMとして流れている。世に言う偉い人や気品の高い人たちがこういう私的な交流の場を持っていたのだろう。一介の大学生にとって貴重な体験をさせてもらているという面もありつつも、なぜ私が呼ばれているのかというその理由を怪しんだが、別に大金を巻き上げられそうな雰囲気もなかったので安心した。ただただ高そうな酒が若い女性にデリバリーされていたが、それらは次々とおっさんがたの喉へと消えていく。よく飲む連中だ。よほどストレスが溜まっているのか。それを横目に飾られている現代美術の絵画や置かれている家具の価値を算定しながら、誰からも話しかけられないであろうこのセレブな感じの空間で時間を潰していた。

 0時を過ぎてもなお、誰も帰ろうとせず、それどころか、やあやあ遅れてすまん的に、脂の乗ったおっさんとおっさんの腕を腰に回された美女みたいな連れのニューカマーがやってくる。最初いた10人が、20人になり、30人になって、フロアはいっぱいになった。当時は、これがセレブの世界なのかと思った。やがて奥の部屋に消えていく男女があり、あるいは手前の豪華なソファーでは憚ることなく商談や企業情報が語られている。当時はあまりインサイダー取引とかいう単語が身近なところにないまま証券投資をしていた私は、自分自身がひどく小さい存在のように思えてならなかった。

 さらに夜が更けて、クリエイター氏も相当に酒が回っているところで「おいそこの学生くん」と私に声がかけられた。そのころは、すでにサーブしてくれる若い女性が何人か賓客と一緒に帰ってしまい、なぜか私がキッチンとフロアをお盆もって往復していた。いま思い返しても、なぜ私はそんなことをしていたのだろう、空気に飲まれるというのはこうも人間を卑屈にさせるものなのかと感じずにはいられないが、とにかくその辺にいるおっさんや女優に酒をもっていったり、袋からナッツを出して皿に盛ったり、フルーツを切っていた。まあ、働くのが好きなのである。

 クリエイター氏はその界隈では名のある人なのか、彼が声をかけると、それまで各所で話の花を咲かせていた人たちが鎮まり、クリエイター氏と、彼に呼び止められた私とを観た。きっと、周囲の人は何か余興が始まるのではと思ったに違いない。

「聞いてくれ、この子は一郎ちゃんです」何度も書くが、さして親しくもない私に対して、クリエイター氏は肩に手を置きながら紹介を始めた。なんだこいつ。戸惑いとイラつきが心の中で交錯するが、顔に出すことは一切なくただほほ笑んで、私は応じる。「この子は僕の後輩ではないのですがー、大事な友人です」え、おまえ先輩じゃなかったのかよ。

「そして何より」さらに声を張り上げて、クリエイター氏は叫ぶように言った。「彼は童貞なんです!!」

「えーー」という反響。「キャーーー」という悲鳴。そのただなかに、顔を真っ赤にした私はお盆を両手に持って立っていた。恥ずかしい、という感情も湧かず、怒る気力もなく、やや薄暗い、フロアの中央で立ち尽くしていた。

 童貞だと、何かいけないの。クリエイター氏が続けざまにマシンガン状態で語る童貞トークの的のようになっていた。私は私で、頭上に大きな「?」マークを乗せたまま、興味津々の様相で私を観る紳士や淑女の視線の中で真っ白にならざるを得なかった。確かに「童貞だといじられる」というのはある。塾生同士でもだ。実際、童貞なのだから致し方あるまい。ただ、これだけの大物や、著名な女性たちの前で、童貞であることをたいして親しくもない主催者にいじられることが、どれだけ苦痛なことか、分かるだろうか。目の前で、放送作家の人が笑っている。人の童貞が、そんなに面白いのか。

 だんだん怒りが湧いてきた。しかし、どうすることもできなかった。回りに回るクリエイター氏の言葉を背に、なかばお盆で顔を隠すようにしてキッチンに逃げた。やはり、私はここに来るべき人間ではなかったのだ。そう痛感した。所詮はただの大学生であり、社会にも出ていない単なる宴会のネタでしかない存在だと悟ったとき、怒りはやがて悔しさに、そして諦めの心境へといたったのである。当時23年間の人生の中で女性との関係を持たず、言い寄ってくるのは男性ばかりで、留学先でも大学でも出会う女性のほぼすべてから「安パイ」とされてきた私にとって、自分のプライドを守るためには積極的に童貞であり続け、不本意でも「若いわりに枯れていて誘ってこない人」に甘んずるのが一番だったのだ。

 たぶん、これからも童貞であり続けるのだろう。下手をすると、一生女性には縁がないかもしれない。いくら金があろうとも、私はここにいる人たちとは違う。ビッグにならなければというよりも、自分自身の「らしい」生き方を持つしかないのだ。キッチンで嫌な思いをしながら佇んでいたのはせいぜい10分もなかったと思うが、そのときは本当に数時間にも感じられた。

 ふっと、キッチンにテレビの中でよく観たことのある女性がやってきた。すでに結婚が騒がれていて、年上ではあるけれど、私の世代からすれば間違いなくアイドルの女性だ。キッチンに何の用かといえばただひとつ。きっと、残りのフルーツを取りに来たのだ。私は我に返った。

「いま、パイナップルとオレンジを出しますから」

「そうじゃないの」その観たことのある女性は、まっすぐに、私を見ていた。「あの人の話、ほんとごめんね。悪い人ではないのだけれど」

 女性は、小さなポーチからすっとお札を取り出し、私の手をもって握らせた。意味することは、すぐに分かった。

「え、そんな。いただけません。歩いて帰れます」

「気にしないで。いつものことだから」女性は、そっと笑った。「今夜は本当にありがとう。あなたのことは忘れないわ。これでタクシーを拾って帰って」

 これが、世間を知った、大人の女性というものか。キッチン越しにフロアを見やると、クリエイター氏は水割りを片手にクライアントなのだろう大物と女性相手に気の利いたトークをしている。きっと、そうやって生きていく世界もあるのだろう。

 女性に見送られそっとフロアを辞すと、華やかな世界は私には向かないと確信することになった。もらったお札は人の手垢にまみれた普通のお札の匂いしかしなかったけど、そのまま財布に入れ、夜風に吹かれて一時間かけて自宅まで帰った。すでに3時30分を回っていたが、珍しく寝付くことができず、悶々としたまま朝まで過ごした。

 内定辞退の連絡を入れて呼び出され、烈火のごとく怒った先輩からコーヒーショップのアイスティーをかけられたのは、その翌日である。さんざんいろいろなことを言われた記憶はあるが、どんなセリフであったか覚えていない。もうこの先輩と会うこともないだろうと割り切っていたからかもしれないが、気まずいのか、六本木のゲーセンにも先輩は来なくなって、本当に顔を合わせることはなくなってしまった。

  結局、私は何事もなかったかのように国際電気に就職した。さすがに半年しかサラリーマン生活がもたないとは思わなかったが、そのときは、私は私のあるべきところに就職するのだ、と強く信じていた。国際電気の同期はいい奴揃いだったし、手がけている事業の将来性は間違いないと思っていた。しかし、私が愛したかった国際電気は携帯電話時代の幕開けで移動体通信の主役でいるべき会社であったにもかかわらず、言われているほど伸びることはなく、日立電子や八木アンテナと合併して日立国際電気になった。仕事で羽村市にいくと、かつてそこに国際電気の工場があり、都心にある自宅から往復3時間かけて通った記憶だけが蘇る。

 その私のサラリーマン人生が続かなかった理由の9割は私の睡眠不足による。申し訳ない気分でいっぱいだ。とにかくその頃は株式投資をやる傍ら、家業の傾いた親父から矢のように催促される入金問題に夜は追われていて、サラリーマン生活で得られる月20万では到底やっていけなかったのは明らかだった。家業の経営問題は一山超えつつあったとはいえ、億単位の負債を抱え、担保に入っているけど汚染が酷くて売れない工場を無理に赤字覚悟で創業し続けていた状態が私の片方にあり、もう片方が新入社員としてもらえる給料が二桁万では私の人生に展望はない。残念ながら国際電気で働くことは見切らざるを得なかった。正直、相場がまあまあ上手くいっていて毎晩千万勝った負けたという世界に漬かっていて目が血走っているところを、組合活動だ新人研修だとのんびり定時までやり、そこから片道1時間半かけてボサッと通勤電車に揺られて帰ることが無駄に思えてならなかったのだ。

 数年したある寒い日、先輩の通夜があることが友人からの電話で伝わったときは仰天した。これは足を向けないわけにもいかない。せめてきちんとお別れをと思い、通夜とお手伝いしたが、参列しに来た例のクリエイター氏は私と目が合っても私を忘れているようであった。なぜかホッとした。あの女性は来ていなかったと思う。

 通夜の帰り、喪服の黒ネクタイを外してゲーセンに寄ったが、在りし日の先輩が台バンをしていた記憶が襲ってきてゲームをする気になれなかった。ゴミ箱にタバコを捨て、いら立ち半分に自宅に帰った翌朝からインフルエンザに罹った。何となく、きっちりと決別してあげないといけない気がして、そこからタバコをすっぱりと止めてしまった。別に先輩の分まで生きてやろうというような話ではなく、先輩のお陰で何かした、という記憶を残したかっただけだ。そして、そのまま10年以上禁煙していまに至る。

 若いころは、周りが見えないなりに必死だったし、何かに一生懸命だったのだけど、振り返ってみると「何をそんなに焦っていたのだろう?」と思う。これが、社会に出るためのなにがしかの経験を積む期間だったというのならばその通りなのかもしれないが、あの界隈の童貞をいじる文化はその後もいろんな仕事で目にしてきたし、童貞として生きる人も好きで童貞ではなく、キモい男性はキモさに気づいていてもどうしようもないことぐらいは知っておいてほしい。そんな私から言えることは一つだけ、ある。

 そういうキモい童貞にさえ、気遣いができること。

 それが、本当の人物なのだろう、と。


(※ この作品はフィクションです。実際に登場する組織、人物などは架空のものです。)


神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント