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津田大介と「宇崎ちゃん」と「あいちトリエンナーレ」ダブスタ騒動

 しばらく例の「あいちトリエンナーレ」のことは忘れて楽しい日々を送っていたのですが、帰宅途上に津田大介さんがまた何か言ってるらしくて記事が回ってきて読んでいたら「お前が言うな」という爽やかな気持ちになれました。

 ただ、津田大介さんの書いている「表現の自由の範囲内と思うけど累積的な社会的文脈やジェンダー状況からあれ見て(グラデーションはあれど)不快に思う女性がいることは事実」はその通りなんですよね。

 だから、津田大介さんは「あれを相互理解目的とした議論にどうつなげるかが重要」と書くのはまあ構わんのです。

 しかしながら、津田大介さんが説明不足な部分があったとはいえ、件の「表現の不自由展」は表現の自由の範囲内だけど、累積的な社会的文脈から見て不快に思う日本人がいることは事実なわけですよ。だからこそ、暴力的な電凸まで受けて一時展示中止に追い込まれたのであって、なに第三者的な雰囲気で宇崎ちゃん問題を解説してるんだろう津田大介さんは、っていう話ですよね。でも、不快に思う日本人がいようとも「表現の不自由展」は展示されつづけるべきであるし、宇崎ちゃんポスターも献血ポスターとして貼られるべきというのは表現の自由に関する原理原則をきちんと守るために必要な議論だと思います。

 いわゆる従軍慰安婦像を模した展示や、天皇の写真を燃やすような映像を何も説明もなくそのまま展示したら社会的に炎上したのは、私は不当だと思っています。人が不快に思う表現でもあるからこそ、その表現は守られなければなりません。確かに表現の自由の範疇ですから津田大介さんの言うことは分かります。ところが、赤十字の献血ルームにおける宇崎ちゃんネタで「不快に思う女性がいることは事実」と津田大介さんが言うなら、そもそも津田大介さんは表現の自由について何も分かっていなかった、ご都合主義的に、自分の行為を正当化するために表現の自由を強調したに過ぎないということを意味します。

 ダブルスタンダードであるだけでなく、自分がしでかしたことに対する反省もないのかと暗澹たる気分になりますけれども、最大の原因は芸術監督(である津田大介)と名指しされ、津田大介さん個人の政治的野心を優先させるためにあいちトリエンナーレを悪用したと断じられたことも、津田大介さん本人の耳には聞こえていないということなんじゃないかと思います。

 振り返れば、津田大介さんは自身に少しでも批判的な人物からの発言をシャットダウンし、自分にとって耳触りの良い、党派性の近しい人としか交流を維持できない状況があるようで、今回のあいちトリエンナーレ前後においても多少でも批判的な知人友人とのフレンドを断ち、フォローを切っている津田大介さんの行動が観測されてきました。京都大学でのイベントの対談にいたっては、すでに津田大介さん自身が参加すると応諾しておきながら、結果としてドタキャンに近い行動を取り、周辺のメディアを通じて保身と釈明に奔走している姿を見るに非常に残念な気分になります。

 あくまで私は、日本の民主主義の根幹である表現の自由の原則を大事にし、日本文化と社会風土の尊厳を守るためにも、あいちトリエンナーレで、たかだか「表現の不自由展」さえもまともに開催できない状況は憂慮してきました。過去にいろいろ経緯はあるけれど、一連の津田大介さんの判断は表現の自由を守るためにも正しいと思い擁護してきました。

 ところが、その津田大介さんが表現の自由について、いまに及んでも理解ができず、ダブルスタンダードそのものとも言える、それでいて保身をするために中途半端に示唆するような発言を行っているのは残念です。

 百歩譲って、弁護士の太田啓子さんが宇崎ちゃんポスターに対して批判を加えているのはのは単なる外野の一つの意見として、そのような意見を表明する自由はありますので、賛同するかどうかは別として理解はできます。その後、宇崎ちゃんポスターに理解を示した町山智浩さんになぜか批判が加えられていまして、この表現の自由を考えるうえでは町山智浩さんのほうが理屈として明らかに正しいと思いますけれども、それでも論戦の範囲内であれば理解はできます。

 しかしながら、津田大介さんは己の炎上にあたって表現の多様性を前面に立てて自己弁護し釈明した立場であり、それをかなぐり捨てて不思議な発言をしてしまうあたりに物凄く残念な気持ちを抱かせるんですよね。どうにかならないのでしょうか。

 まあ、どうにもならないからこうなっているのだろうとは思いますが。

 がっかりですね。

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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント