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上級国民ではないジジイの運転免許返還とかいうあるある風情

 偉い人が幼い3歳の女の子と奥さんを撥ね殺してしまった件で、いきなり愛妻愛娘を失った夫が慟哭会見をしているのを観て、とても心を冷やしました。有り体に言えば、最後まで観ていられなかった。万一あれが自分の身に起きたとするならば、と想像するだけで精神的にヤバいことになりそうなので、なるだけこういうニュースは見ないようにしようとするけど、どうしても目に入ってしまうんですよね。

 先日、文春オンラインでこんな記事を書きました。

政府に指図される「人生100年時代」とかいう罰ゲーム人生
長生きしているからずーっと健康、という前提で話を決めてないかい? https://bunshun.jp/articles/-/11538

 やっぱこう、介護をしていると「ジジイ何してんだよ」という問題にいっぱい遭遇します。このたび出した書籍でもそのあたりの話は触れておりますが、87年目の5歳児になったりするのが老いなわけでして、そういうのもひっくるめて「人生100年時代」って言われるとやはり辛いよなあ、と思うわけであります。

 かくいう山本家も、老父や親戚が高齢のために相次いで自動車免許を返納させるという大変な儀式をやりました。

 叔父貴はあのとき85歳だったと思うのですが、田舎から老夫婦ともに「もう山あいには暮らせない」と言い始めたため中野区に越してきて、しばらくは都会の生活になじめていませんでした。

 というのも、自動車がないと死んじゃう田舎で暮らしていると、都会のような歩いてなんぼの電車生活はなかなかペースがつかめないみたいなんですよね。

 地元のスーパーですら車で行こうとして、いやそういうところは歩いていくかチャリなんだよと何度も言って、それでも「重い買い物をしたら婆さんが可哀想」っていうので近くまで車でわざわざ行くんですよ。でもスーパー前の狭い道なんて、大量の自転車に買い物かご下げた奥様方の群れと手を引かれる子たちの海じゃないですか。邪魔がられるし、運転も危なっかしいしほんとやめろと。

 ほどなくして「都会生活は車でないほうが便利なのだ」と悟った叔父貴夫婦は車に乗らなくなりました。実際、車に乗らなくても老人用のコロコロがあれば重いものだって大丈夫なわけでね。

 また、張り巡らされた交通網は高齢者ならシルバーパス的なものがあればどこまでも乗っていけると気づいてからは「バスの旅人」になってしまいました。ジジイ何してんだよ。よほど楽しかったらしく、最晩年はバスに乗る徘徊老人と化すまでは第二の人生はほとんど日中バス乗りっぱなしだったみたいです。

 悲しいことに、そういう生活をするとすぐにドライビングスキルは衰えるものであるらしく、ある日婆さんが少し遠いところにある医院で受診するので送ってくるといったまま連絡が途絶えたことがありました。心配してあちこち連絡してみると、病院の駐車場で車を入れ損ねてぶつけたとかで、ジジイ何してんだよという状態になっていました。その後も何度か車で外出するものの、自宅の車庫に車を入れ損ねて立ち往生しては私が呼び出されてどうにかするという問題が繰り返されたため、家族会議を発動して叔父貴から免許証を取り上げ、もう車は運転するなっていう話をするために時間を取りました。

 そしたら、普段はおとなしい田舎の爺さんの風情である叔父貴が会議中に豹変したんです。それはもう、熱湯の入ったきゅうすごと机はひっくり返すわボールペンいっぱい刺さったペン立ては投げるわ酷いものでした。田舎者にとって、車を奪われるということは人としての死刑宣告にも等しいということをすっかり忘れていました。

 ただ、そういう暴れ方をしたからと言って容赦する私ではありません。「ジジイいい加減にしろ馬鹿野郎」の一喝とともに、興奮する叔父貴の禿げ頭めがけて手に取った木製の孫の手で優しく叩き「そういう見識のないジジイだから免許持ってると人殺しになりかねねえんだよ。車なんか叩き売ってやるからな」と喧嘩になりました。実際、その車庫付きの家も私が叔父貴に貸している家ですし、車も本人では管理できなくなっていたから私がどうにかしておったわけです。

 必死だったのは、人通りの多い商店街で、先の池袋の事故みたいに「アクセルとブレーキを踏み間違いました」とかやらかしたらマジで人が死ぬんです。叔父貴の人生の晩年に人殺しをしてほしいとは思えず、また都会生活であれば車など使わずともいろんなことができることは知っているわけで、本人の納得があればそれに越したことはないけれど、力づくでも免許を取り上げ車を運転させないことが何より大事だと思ったわけであります。

 かたや、私の親父も免許を返納させたわけですけど、親父の場合は少し足が悪くなり、明らかにブレーキとアクセルが踏み分けられないぐらいに「伸ばすと痛い」という状態があったため問答無用で免許は奪いました。車の鍵も取り上げて、足が治ったらまた運転しようね、と言っている間に自転車で転び、本人も老いを悟って免許返納に納得してもらえました。生前、あれだけ車が好きだった親父が車の運転ができないのはさぞかし辛かろう、と思っていたら、売り払った車の駐車場のスペース全体に木を植えてデッキチェアを置き日光浴をしていたため、ジジイ何してんだよと思った次第であります。

 やっぱこう、経験則でしかありませんが、老人本人は衰えたということを自覚することがむつかしいのでしょう。なので、どうしても「ジジイ何してんだよ。いい加減免許返納しろや」と言っても、自分を否定されたと思って怒るし、お前の話など聞かんと頑なになるし、まあ面倒はたくさんあります。でも、それ以上に本人がもう運転に堪えないのは本人に自覚がない以上周りにいる人が怒られてでも取り上げなければならないわけですよ。自己決定権を尊重しようにも、事故を起こされてからではいかにも遅いのでね。

 どちらかというと、強権と暴虐をもって一家・一族を支配している山本家ですら、理由なき免許剥奪には躊躇があったということを考えますと、世には問題があることは分かっているけどなかなか免許返納まで漕ぎ着けられない一家が多数いるんだろうなあと強く思います。

 そうなると、やはり免許はシステム的に「一定の年齢以上では全員運転能力や状況判断力をチェックする必要がある」と思いますし、同じような事故が繰り返し起こらないようにするためには制度と家庭の両面で運転者の健常度を判断するしかないのだろうな、と。



神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント