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はあちゅう妊娠記事「なるほど、そういうことでしたか」の桎梏

 先週出産があり、家内も無事に退院しました。

 第4子ですから、まあ妊娠・出産の経験は他の家庭よりはある、という程度であって、子どもが無事に出てくるまでのプロセスというのは千差万別で、一度として「妊娠を悦び、何事もなく出産し、赤ちゃん誕生を祝う」という順調なことはありませんでした。長男は最後が大変であったし、次男も産むときは大難産で、三男も妊娠後期は切迫早産で、今回は序盤からしんどい状況でした。

 友人の出産を見ていて、また、素晴らしい報告を見て、心が暖かくなります。お祝いしたい。心から、その誕生に快哉を叫びたい。でも、その一方で残念な話もあるのです。たまに。たまにだから、いいや、とはならない。そこには無事ではなかった悲しい魂と、生み出せなかった夫婦の慟哭がある。起きなかった光が夫婦を再び照らすまで悲しみに暮れている人たちもおるわけであります。

 で、先のはあちゅう「妊活宣言からの実は妊娠してました」は、個人的にかなりキました。妊娠を甘く見ているというか、人生すべてがコンテンツとしたときに、そこは最後まで見届けてから、きちんと報告するほうが良かったと思うわけですね。正直、何があるか分からないのが妊娠だから。

 あの批判記事を書いたとき、何で山本さんはそこにこだわるの、なぜ問題をことさらに書くのと言われました。でもねえ、親のエゴで子どもを、ましてや出産をコンテンツにするのは冒涜じゃないかとも感じるんですよ。単に親が馬鹿をやって、その顛末を書くのとはわけが違う。



 そして、まさに家内が第4子になる長女を生む妊娠期間でいろんな問題を乗り越えていく過程で、着床の日程が疑われたり、もう妊娠がある程度予見できていたのに妊活を売り物にしていたりして、イライラしたというよりもなにこれ感があったんですよね。本当に妊活で頑張っている人をこれほど馬鹿にした話はないし、生まれてくる子どもに全部乗っかってしまうことになるわけで。

 はあちゅうに限らず、妊娠ってとてもデリケートなことだと思うのです。

 そういう物事への想像力って大事じゃないかと感じますし、言葉を売り物にしているからこそ、家族とは、命とは、生命の営みとは何かに思いを致す必要がある。単に共感狙いで「私、可哀想でしょう」とかいう話は望まれたとしても妊娠を経験した人ほど遠ざかって行ってしまう。「見なければいいでしょう」を超えて、叩きのエンターテイメントになってしまう。そういう祝福されない出産がもしあったのであれば、それは不幸だと思うんですよね。

 なので、私は経験者であるだけでなく、近しい人にすらあまり妊娠の事実は伝えず、ただ無事に出てくるのを静かに待っておりました。何より、頑張っている家内が大事だから、なんですが。

 また、妊娠をリアルタイムにコンテンツにする人たちも、そうでない人たちも、等しく無事の妊娠生活、母子健康での出産を心より祈ります。新たな命は平等に神の祝福を受けるべきですし、平安のうちに生きる悦びを得て欲しいと思うからです。

 人によって違うのは当然とは思うんですけど、それって一線だと思うんですよね。それを超えてでも、自分の人生をコンテンツにするのが、果たして先まで続く道なのかどうか。



神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント