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東大寺の大仏に開眼をしたのはバラモン階級の僧侶

去年6月のニュース

抜粋
菩提僊那(ぼだいせんな)は奈良時代に来日したインドの僧で、東大寺の大仏開眼会で大仏に魂を入れる導師を務めたことでも知られています。

これを読むと菩提僊那(ぼだいせんな)は仏教徒の僧侶だと思ってしまいますが、バラモン階級の僧侶だったという話を見かけたので確認。

婆羅門僧正とも言われていたのですね。
本来、仏像や神像に御霊入れ(開眼)するのは、バラモン僧しかやってはいけないようです。

<上の記事で気になる箇所>
僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。
インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。


菩提僊那はタミル人でした。
梵文や密呪(マントラや密教作法)の他、華厳経の恐らく漢文での諷吟に通じていた、という話があります。
上のWikiにも
菩提僊那は華厳経の諷誦に優れ、にも通じていた。その密呪は、菩提僊那から日本僧の弟子へ伝授された。
と書かれています。

『南天竺婆羅門僧正碑并序』これがボーディセーナの最も古い記録と考えられている文です。

ボーディセーナの弟子の「修栄(しゅうえい)」が、師匠の死後、その偉業を後代に伝えるために、形像を造らせたそうなのですが、そこに碑文も刻ませました。
その序文が『南天竺婆羅門僧正碑并序』だということです。

南天竺婆羅門僧正碑の原文はコチラです。

南天竺婆羅門僧正碑并序の文章はこちらになります。

「南天竺波羅門僧正碑幷序」

夫佛日西沈。遺風東扇。十地開士。住菩提而播形。八輩應眞。逼機縁而演化。是以眞如奥旨。殊五天而共融。實相圓音。同八部而倶顯。若乃深達法相。洞了宗極。研尋七覺。空有兩亡。遊戯六通。眞假雙照者僧也。僧正諱菩提僊那。姓波羅遲。波羅門種也。一十六國景慕其高義。九十五種鑚仰其英徽。但以區域夐隔。史傳闕然。本郷風範。難可縷言。僧正神情湛寂。風宇明敏。靈臺可仰而不可窺。智海可注而不可挹。於是追支讖之英範。遂世高之逸𨊠跨雪峰而進影。泛雲海而飛儀。冒險經遠。遂到大唐。唐國道俗。仰其徽猷。崇敬甚厚。于時聖朝通好。發使唐國。使人多治比眞人廣成・學問僧理鏡。仰其芳譽。要請東歸。僧正感其懇志。無所辭請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧佛徹・唐國僧道璿。随船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒。去死猶其一分。擧船惶遽。不知所為。乃端仰一心。入禪觀佛。少選之間。風定波息。衆咸嘆其奇異。以天平八年五月十八日。得到筑紫大宰府。昔騰蘭聿來。澄什利往。停跡振旦之邦。未躡日域之境。計遠論勞。彼有愧德。自非位超修成行積永劫。其孰契於玆乎。同年八月八日到攝津國治下。前僧正大德行基。智煥心燈。定凝意水。扇英風於忍土。演妙化於季運。聞僧正來儀。嘆未曾有。軼燕王擁箒於郭隗。侔伯喈倒屣於王粲。主客相謁。如舊相知。白首如新。傾蓋如舊。於是見矣。乃矚同法緇侶云。法本不然。今亦不滅。故雖赴化之質。翳跡於雙林。而法身之體。布影於沙界。經云。應以波羅門身得度者。即現婆羅門身。而為説法是也。原夫開闢以來。雖時經百王。世更萬載。未有葱右梵英。印度聖種。梯山航海。弘化聖朝。而聖德作而異人至。昌運起而大化隆。非但諸佛悲願之感。抑亦聖朝崇法之應也。我等既逢斯運。復覩此人。盍各盡至欵。共致迎接。於是道俗輻輳。闐城溢郭。連成幕之袂。濯為雨之汗。肩随踵接。送入京輦。皇上大喜。仍勅住大安寺。供給隆厚。公主英彦莫不宗敬。行基又率京畿緇素兩衆五十餘種。前後合三度。(中略)

 神護景雲四年四月二十一日 故波羅門僧正入室弟子傳燈住位僧修榮

話は東大の開眼に戻って--------------------------
菩提僊那は、唐楽の専門家や林邑(チャンパー)出身で林邑楽に通じた僧侶も伴っている。
BGMつきで中古漢語や古代インド語で法要を行えば雰囲気が凄かったと想像できます。




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