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板垣退助

まず最初に
自由民権運動についてまとめます。
自由民権運動とは、明治初頭から1890年に帝国議会が開設される頃まで、日本各地で盛り上がりを見せた政治運動を指します。
自由民権運動は藩閥政府の打破と国会開設を要求した、明治初頭の政治運動です。
民権運動は繰り返し政府によって弾圧されましたが、最終的に政府も国会開設を約束し、1890年に最初の国会が開かれることとなりました。
一方で弾圧を受けた民権派の一部が急進化し、各地で「激化事件」と呼ばれる騒擾事件が発生します。
これが運動の衰退や分裂を招き、国会開設後、自由民権運動という枠組みでの活動は行われなくなっていきました。

自由民権運動が行われた背景
ここでは自由民権運動が行われた背景を理解する上で重要となる、3つのポイントを紹介します。

1・藩閥に対する批判
自由民権運動において指導的役割を果たした人たちの中には、板垣退助大隈重信のように、元々は政府内で要職に就いていた人物も含まれます。
彼らは政争に敗れて政府を去った後、政府を攻撃する手段として自由民権運動を展開していきました。
彼らは「藩閥」が政府を牛耳っていると批判し、その弊害を打破するために議会制の導入を唱えたのです。当時、さまざまな人々が政府の政策に反感を抱いていました。
これらの人々は板垣らの主張に賛同し、次々と自由民権運動に加わっていきました。

2・政府の政策への反発
多くの人々が政府に反感を抱いた要因として、政府が行った近代化政策の影響が挙げられます。
たとえば、次のような事例があります。

  • 1876年に廃刀令や秩禄処分が実施された結果、帯刀が禁じられただけでなく、家禄の給付が取りやめになった

  • その結果、それまで元武士(士族)が持っていた特権が廃止された

  • 一連の政策に不満を抱いた士族たちは西日本各地で士族反乱を起こし、自由民権運動に参加して政府を攻撃するようになった

士族以外の事例も多くあります。
たとえば、1872年に学制を定めて義務教育制が定められたほか、1873年に出された地租改正条例や徴兵令によって、税制や徴兵制が確立されました。

しかしこれらの諸制度の負担は重く、各地で「新政反対一揆」とよばれる反発が生じています。
とくに地租負担への反発は強く、1876年には大規模な地租改正反対一揆が茨城や三重などで発生しました。
その結果、政府は地租を引き下げざるを得なくなったほどです。

地租改正反対一揆の後も、地租の軽減を求める声は残り続けました。
そして自分たちの声を政治に反映させるため、農民たちも議会開設を求めるようになっていったのです。

1-2-3: 欧米からの思想流入

このような人々の活動を後押しする役割を果たしたのが、同時期に欧米から流入した新思想です。

1866年に福沢諭吉が『西洋事情』を刊行したのを皮切りに、欧米視察や留学から帰国した人々が盛んに西洋の文明や思想が伝えていきました。
その結果、「Liberty」や「freedom」にあたる「自由」や、人権(human rights)を意味する「民権」という言葉が広まっていくこととなります。

これらの日本に持ち込まれた思想の中でも、とくに自由民権運動に大きな影響を与えたものが「天賦人権論」です。

天賦人権論は、ロックやルソーが提唱した「自然権思想(natural right)」の訳語で、人間は生まれながらに自由かつ平等であり、生まれ持っての権利(自然権)を有すると唱えました。

当初日本では、天賦人権論は封建制を批判する論理として受け入れられました。
しかし板垣らが藩閥政府への批判を開始すると、天賦人権論は藩閥政府を批判する論理に転じ、自由民権運動を後押しする役割を果たすようになったのです。

☆ここで政府内で要職についていた2人の人物板垣退助大隈重信が作った党の特徴をざっとまとめると
【大隈重信の立憲改進党】
イギリスをモデルにしたので、
・立憲君主制(君主はいるが、権限が憲法で制限されている)
・二院制議会(今の日本みたいなやつ)
・財産制限選挙制(ある一定以上の財産を持つ人だけに選挙権がある) などの特徴を持つ。
都市部や知識人層、富裕層を基盤とし、 どちらかと言えば穏やかな政策をとる。(政治漸進主義という。)
【板垣退助の自由党】
フランスをモデルにしたので
・一院制 ・主権在民(君主がいない) などの特徴を持つ。 貧農などが支持母体で、急進的な性格を持ち、 特に「激派」と呼ばれる一派は全国各地で貧農と結びつき様々な事件を起こした。

大隈重信についてもまとめたいのですが、、
今回はフランスから入った自由主義をメインの話に持っていきたいので割愛。
フランス革命の時も革命を起こしたら庶民が楽になるよ、パンを食べられるよ、と扇動して。
結局は貧しさは変わらず、混乱だけが頻発した社会になりました。
日本の場合の自由民権運動も。
参加=解放だと煽って。
自由民権運動に参加すれば生活が楽になるよ、といい世界の売り込みをして
実際は、参加したのに楽にならないし、それどころか寄付や活動費やらでお金をせびられるばかり。

ここで小話。
日本で最初にルイ・ヴィトンを買ったのは板垣退助。

フランスの高級ブランドで有名なルイ・ヴィトン。このブランドを日本人で最初に購入した人は板垣退助と言われています。
 顧客名簿に板垣退助の名前がある事や、板垣退助が購入した鞄のシリアル番号と顧客名簿のシリアル番号が一致しているからです。
 100年以上前の顧客名簿が残っているとは凄いですね。

 板垣退助といえば、明治初期は政府要人でしたが、意見対立から下野し、自由民権運動をはじめました。
 そして暴漢に刺された際「板垣死すとも自由は死せず」という名言を言いました。学校の歴史で習いましたですね。

 ところで板垣退助がフランスへ行ったのは、その1年後でした。
 そしてルイヴィトンを購入して大喜びでシャンゼリゼ通りを歩いていたかもしれません。

 板垣退助が洋行したのには、裏事情がありました。
 板垣退助はフランスかぶれでした。
本の知識だけで「フランスは自由・平等の国で素晴らしい」と思い、自由民権運動を行っていました。
 しかし、明治政府の要人は、フランスかぶれをした板垣に対して「フランスの現実を見ろ」と思っていました。

 そこで政府要人だった井上馨が斡旋して、政商だったある財閥のお金で板垣退助と後藤象二郎が洋行しました。
 板垣退助が党首を務めていた自由党内では「うちの党首(板垣)は買収された」と大騒ぎになりました。

 板垣退助は帰国後、政府と対立するのではなく、協調路線をとるようになりました。
 自由民権運動の中の急進派が起こした加波山事件(爆弾テロ未遂事件)などをキッカケに、板垣退助は自由党を解散しました。

 板垣退助はフランスへ行って、フランスの現実を見ました。
 今でもフランスでは、フランス革命の成功体験(?)から、何か政府に不満がありますと、デモが起き、暴徒化しています。
 当時は、もっと過激で、板垣退助がフランスへ行く少し前に起こったパリ・コミューン(市民蜂起)では、セーヌ川が3日間、血で染まるぐらいの犠牲者が出ました。
 日本人の想像を絶するフランス人の発想を目の当たりにして、日本も同じ事になってはいけないと考え、軌道修正したと思われます。

 「買収」と疑われても仕方ないにも関わらず、それを覚悟で、現実のフランスを見に行った板垣退助と後藤象二郎。
 野党党首を叩き潰すのではなく「現実を見てこい」と言って、費用を出してまで送り出す明治政府。

 どちらも本当に日本を良くしようとしていた表れですね。

 板垣退助が岐阜で暴漢に刺された際、診察した医師は後藤新平です。のちの有名な政治家です。
 爆弾テロ未遂事件の加波山事件をキッカケに「明治十七年太政官布告第三十二号(爆発物取締罰則)」という法律ができました。
現在でも有効です。

知りたかったのは、板垣退助がフランスで何をしていたのか?、ということです。
フランスでの交流歴を見つけました。

日本の自由党総理・板垣退助が、1882年から1883年にかけてのフランス、イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・クレマンソーらと交流したとする記録がある。
板垣退助 監修『自由党史(中)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、306頁

ヴィクトル・ユーゴーは『レ・ミゼラブル』の著者として著名ですね。
その『レ・ミゼラブル』とユダヤ人問題を合わせた記事がありました。
以下訳------------------------------------------
あなたが何を考えているかは分かっています。
レ・ミゼラブル」を観たんですよね。
演劇も映画も大好きだ。
ユダヤ人の登場人物に覚えはなく、「反ユダヤ的だと言って、台無しにしないでくれ」と思っていることでしょう。
もちろん、その通りです。
シェークスピアのシャイロックやディケンズのフェイギンのような、ヨーロッパ文学に登場する不愉快な人物は出てこないのだから。
しかし、映画館を出たとき、私は夫に向かって、「これはユダヤ人の話だよ」と言ったのです。
私はすぐに、作家のヒュー・ニッセンソンが短編集『象と私のユダヤ人問題』のタイトルを説明するために語ったジョークを思い浮かべた。
ニッセンソンはこう書いている。
「動物学の授業で、象に関する論文が出される。
イギリス人は『象を狩る』と書く。
フランス人は『象の恋愛』。
ユダヤ人の学生は『象とユダヤ人問題』という論文を提出する。」
ニッセンソンの妻は、夫が「ユダヤ人の動物学の学生のようだ」と指摘した。
ニッセンソンが同類であることにうなずき、『レ・ミス』を神学、歴史、文学の議論とごっちゃにしないでほしいという人への謝罪も込めて、クリスチャンダムにとってのユダヤ人問題がこの作品をどう形作っているかを詳しく説明しようと思う。
ユダヤ人の登場人物がいなくとも、『レ・ミゼラブル』は、現代のミュージカルと、その原作となった19世紀のヴィクトル・ユーゴーの小説の両方が、ヨーロッパのキリスト教思想におけるユダヤ人の位置づけを語っている。
ご存知のように、この物語はジャン・バルジャンとジャベール警部の闘争を中心に展開する。
荒くれ者の前科者バルジャンは、衣食住を与えてくれた親切な司教から銀製品を盗み、回心を経験する。
逮捕されたものの、司教が銀貨は贈り物だと嘘をついたため、バルジャンは釈放される。
バルジャンは、無償の慈悲に触れ、この世に神の力を感じ、善い行いをするようになる。
ビジネスで成功した彼は、惜しみなく施しを与え、虐げられている人々に同情し、未婚の母から娼婦になった孤児の娘を養女にするまでになる。
しかし、バルジャンは仮釈放を破ったため、法を執行してバルジャンを刑務所に戻そうとするジャベールに追われることになる。
アクションが進むにつれ、バルジャンは "慈悲"、ジャベールは "法 "の原理を連想させるようになる。

ある重要な場面で、バルジャンは宿敵を殺す機会を得ます。
しかし、彼は革命派から逃れるために彼を助ける。
この思いがけない慈悲の行為に戸惑ったジャベールは、後にバルジャンを捕らえることができないことに気づく。
ヴァルジャンがそうであったように、彼の法への信頼は思いがけない親切によって揺らいでしまったのだ。
しかし、バルジャンが神に心を開いたのに対し、ジャベールは慈悲と法という相容れない二つの原理の間で引き裂かれている。
慈悲を支持するために、彼は法を拒絶しなければならない。
法を守るためには、慈悲を拒まなければならない。
深く揺さぶられ、彼は自殺してしまう。
ジャベールは両者を共存させることができなかったが、ユダヤ教の伝統では、法と慈悲は、ユダヤ教の神概念の属性として、また人間の理想像として共存している。
しかし、キリスト教神学は、慈悲を支配原理とし、ユダヤ教に不屈の法を与えた。
ユダヤ教に取って代わることで、キリスト教は厳しい法の支配を慈悲に置き換えたというのである。
レ・ミゼラブル』の哲学的背景には、バルジャンがキリスト教を象徴する存在であること、つまり、実力の有無にかかわらず、親切な行為によって善を広めるということがある。
夫に指摘されたように、バルジャンは独身を貫くというキリスト教の理想に合致しているからこそ、この連想は強まる。
ジャベールはキリスト教のユダヤ教に対する考え方を表しています。
この原理は、(バルジャンがジャベールについて認めているように)悪ではないものの、限界があり、人間の苦しみに対処できないものなのです。
つまり、ジャベールは「ユダヤ教徒」であると同時に「キリスト教徒」でもあり得ないので、その葛藤から抜け出すことができないのだ。
逆に言えば、"ユダヤ人 "が慈悲を知った時点で、"キリスト教徒 "になってしまうのだ。
ヴィクトル・ユーゴーが反ユダヤ主義者だと言っているのではない。
それどころか、共和主義者であり、神学者であった彼は、宗教の平等を支持した。
ユダヤ人を不当に抑圧していると考え、ロシアでのポグロムを批判した。
その一方で、幼少のころのカトリックの宗教的な教えを吸収し、それが彼の世界観の足場になっている。
この映画で描かれる死後の世界の喜びは、現世の革命的な政治と矛盾しているからだ。
そして、それがユダヤ研究の教授の仕事だからです。

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ヴィクトル・ユーゴーはカトリック教徒。
共和主義者であり、神学者であった彼は、宗教の平等を支持した。
ユダヤ人を不当に抑圧していると考え、ロシアでのポグロムを批判した。😔

ジョルジュ・クレマンソー

クレマンソーはヴァンデ出身で、ムイユロンアンパレドで生まれました。フランス革命の期間中、ヴァンデは君主主義者の同情の温床でした
部門はパリから遠く離れており、田舎で貧しい人々でした。
彼の母親、ソフィー・ユーカリー・ゴートロー(1817–1903)は、ユグノーの子孫でした。

ユグノーとは
カルバンの伝統を継ぐフランスプロテスタント教会の別称。
語源は明らかでないが、スイスの国名のドイツ語形Eidgenossen(盟約共同体)からIguenots, Huguenotsと転じたともいわれる。
ジュネーブで受けた強い影響をフランスに持ち帰ったカルビニズムの信奉者たちは、1550年代なかばから長老制教会政治、顕著な世俗内禁欲主義の傾向、加えて反王権的姿勢を特色とする独自の流れを形成し始めた。

以上から板垣退助もフランスだけでなく、キリスト教にも感化されたのでは?、という事が推測できます。
日本に自由主義を持ち込んだ人、という位置づけで彼を追ってみました。


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