甥のK

昨日Kについて少し触れた。
このKは私の人生が変わるのに大きな大きな学びを提供してくれた。
一般常識に因われていた私や姉そして家族をそこから自由にさせてくれたのは彼だと言っても過言ではない。
パニックを起こす彼を叱りつけたり言い諭したり、またなだめようとしたりしても全く関係なく収まることがない。
それはちょうど私が自分の子育ての誤りに気づき始めた頃と重なっている。と言うよりそれまでは夫の仕事の関係で一年ごとに引っ越しをしていて、Kが5歳になる頃に近くへ越してきたからだった。
それまでは年に1度も会っていなかったかもしれない。長男の問題、いや正確に言えば私の問題に気付かされ始めた頃、それはKがパニックになるイコール訴えているのだと気付かされたのと同時期だったし、実は私の問題と同じだったのだ。
私が日頃からnoteを通して訴えていること、そして昨日書いたこと、それは長男が当時訴えていた事とKの訴えそのものなのだ。そう昨日あのように訴えた(胸をかきむしるような)ことは過去の私の中にも存在していたものなのだ。
自分の中の思い込みが消えると本当に何故こんなに分かりやすく訴えていることが分からなかったのだろうと思うくらいに当たり前、当然のことなのです。言葉にすれば【一人ずつ違う】ということ。当たり前でしょう?一人として同じ人はいない。
そうに決まってる。なのに邪魔をして分かりにくくするものを私達の中に内包しているんです。
よーく聞きよーく見ていると見えてくるんです。見えてこない時は、既に聞く側の無意識という領域に決まってしまっていることが存在しているからなんです。
それさえ気づけば、【世界が平和になる】くらいに大きな存在です。
私はKが私の甥として近くに
居てくれたことを本当に幸運だと思っている。勿論私の大切な子どもたちも。
居なければ母を殺したかもしれない。
私が殺意を抱くほど憎んでいた母と私自身も同じだと気づかせてくれたのは長男で、それをもっと確かなものにさせてくれたのがKなのだ。
私が長男によって気付かされ始めた頃、姉はKに振り回されていた…と言うよりKを一般常識にはめ込もうと奮闘していた。その状態でお互いの悩みを毎日のように電話で話している内に姉と私が感情的になりぶつかり合いながら、お互いのありようが見えて来た……そんな感じだったと思う。
Kは一度経験したことを次の時のイメージとして作り上げる。
次にその場面に接するときに前と同じでなかったらパニックを起こす。それを見て「そんな自分の思う通りになるわけ無いでしょ💢」と腹を立てるのが私達。
それを何度も何度も繰り返すうちに、この人は自分の予想に反することが起こることに対応する能力が低いのだということに気づいた。
そして更に実は、私が自分の子どもに怒るときもそれにこよなく近いということに気づく。Kと程度の差はあるにしても、予想?想定?もしないことを子どもがすると「こうでしよ💢」と怒っていることに気づいた。
それはそのことが起こる以前に全く無意識に予想、想定している自分が存在することに気づいていなかったからなのだ。
この想定が本当に無意識に在るのだ。
ということは、私はKと同じ延長線上にいるということになる。
【違いは程度の差】だけであった。
ならば大人である私の方が折れる、譲る、理解する。
これが本当の大人だと気付かされた。「大人は偉いのだ、だから言うことをききなさい!」状態だった。今はその状態をバカバカしいと思う。怒りさえ感じる。(勝手だ!)

こうやって一つひとつ気付かされていった。
そして、それは幼い頃母に矯正させられる…と感じて育った私の方が、母に認められていた姉よりも遥かに早く気づくことができたのだ。
姉は自分が母の言いなりになってきた事をやっと気づき始めることになるので、Kとの付き合いは大変なものだったに違いない。
しかしKが居たからこそ母と同じではなくなって来たのだ。
前に何が良くて何が悪いかという感覚がなくなってしまっていると書いたと思うが、これもまたまさにそういうことだ。
自閉症の子が生まれて、受け入れ難く悩んでいた…それが今はKが居てくれたことが私を変えたと言っているのだから。
私も子どもを3人もは要らない…と受け入れがたかったのに、予定外の娘を妊娠したことが私の人生を180度変えてしまったのだから。
物事にこれは良い事、これは悪い事という感覚がまったくなくなってしまった。それは【大いなる自由】と言って良いだろう。
これだけは避けたい、欲しくないと思うところにこそ宝物が隠されている、そんな思いがある。

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