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【小説】オンオフの切り替えは適切に

ずっと私は、課長にとってタダのお荷物なんだと思っていた。
現に、今。

「もう、そんなに落ち込む必要ないだろ」

「だって……」

私の前で課長は困ったように笑っている。
大ぽかが発覚し今日は課長付き添いのもと、取引先へ謝罪に行っていた。

「結局、なんとかなったんだしさ。
先方も次から気をつけたらいいって許してくれたし」

うどんを啜った課長の、銀縁スクエア眼鏡のレンズが白く曇る。
人差し指の背で眼鏡を少し浮かせて曇りが取れるのを待ち、彼は私と目をあわせてにっこりと笑った。

「……はい」

せっかくお昼を食べて帰ろうと寄ってくれたうどん屋だが、私は鼻をぐずぐずいわせるばかりでちっとも手をつけていない。
課長は慰めてくれるが、先方からはあきらかに呆れ果てた大きなため息をこれ見よがしに落とされた。

「間違いなんて誰にでもあるよ。
俺も昔似たような失敗して、そのときは上司からも取引先からもめちゃくちゃ怒鳴られた」

それに比べたらマシ、とでも言いたいんだろうか。
それに私は先方から呆れられたのに落ち込んでいるのではない。
それよりも仕入れ先や会社の人間に迷惑をかけ、なにより課長に下げなくていいあたまを下げさせたのを酷く後悔しているのだ。

「私、は。
課長、に、いっぱい、迷惑かけ、て」

言葉はつっかえつっかえになってうまく出てこない。
彼がこの仕事を任せてくれたとき、やっと一人前に扱ってくれるのだと嬉しかった。
何度も確認しながら頑張った。
なのに、結果はこうだ。

俯くと涙が落ちそうで顔を上げると、レンズ越しに課長と目があった。
さっきまでと違い、真剣に私を見ている。

「俺は迷惑だなんて思ってないよ。
部下をフォローするのが上司の務め。
その分、給料もらってるんだから当たり前」

それだけ言ってずずっと豪快にうどんを啜る。
これは昨日、私に怒鳴り散らした部長に対する批判なんだろうか。
そう言えば課長が新入社員の頃の上司はいまの部長だったらしい。

「ほら、いいから食べちゃいなよ。
のびるよ」

「……はい」

これ以上、課長は私の謝罪を受け入れてくれそうにないので、黙って残りのうどんを食べた。

支払いは課長がしてくれた。

「……ごちそうさまでした」

「ん」

私の手を掴み、強引に課長が歩きだす。
どこに連れていかれるかと思ったらビルの間、死角になっている空間に入り私を――抱きしめた。

すず
……思いっきり、泣いていい」

仕事中なのに名前呼びで、恋人モードはズルい。
人が必死に涙は見せないように我慢しているのに。

「鈴はよくやった。
鈴は悪くない」

促すようにゆっくり、ゆっくりと課長が私の髪を撫でる。
おかげで一気に、涙腺が崩壊した。

「私のせいで、忠尚ただなおさん、が」

「俺はいいんだよ、莫迦」

私を庇ったせいで課長は左遷を告げられていた。
なのに彼の声は優しい。

「それに遅かれ早かれ部署異動になる予定だったし」

「……え?」

そんな話、私は聞いていない。
わけがわからず見上げる私の目尻に溜まる涙を、課長は唇で拭ってくれた。

「鈴と結婚しようと思って。
それだとほら、夫婦で同じ部署にはいられないだろ?
だから俺が異動しようと思ってた」

話の展開が急すぎていまいちついていけない。

「この話はまたあとでな。
あんま遅くなるとまた、部長に怒鳴られる」

戸惑う私に軽く口付けを落とし、私の手を引いて課長はビルの谷間から出た。
人のいる通りに出た途端、繋いでいた手がぱっと離れた。
 
車に戻り、改めて口を開く。

「……結婚、って」

付き合いはじめてまだ一ヶ月。
告白は私からだった。
仕事もできて格好いい上司。
尊敬が恋心に変わるのに、そう長い時間はかからなかった。
しかし最初は、八つの年の差を理由にやんわりと断られた。
でも、それは理由にならないと押し、課長は苦笑いしながらOKしてくれた。
なので、本当は嫌々なんじゃないかという不安がいつも付き纏っていたのだ。

「いまは仕事中だからプライベートな質問は終わってから」

ならさっきのはなんだったのかとも思うが、あれは彼にとって特別だったのだろう。
けれどこんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、仕事なんてできない。

「じゃあ、いまから午後休取ります」

「あのなー」

がしがしとうしろあたまを掻いたあと、課長は諦めたのか大きなため息をついた。

「……わかった。
俺は鈴との結婚を考えている」

やはり、彼がなにを言っているのかわからない。

「忠尚さんは私に迫られて断り切れず、仕方なく付き合っていたんだじゃないんですか?」

「……は?」

真っ直ぐに前を見たまま、彼は眼鏡の奥でぱちぱちと何度か瞬きをした。

「いや。
俺から告白するのはセクハラでパワハラになるんじゃないかと遠慮していたら、鈴から告白してきて嬉しかったよ?
でもこんなオジサンと付き合うのは可哀想だな、とも思ったけど」

さっきから課長はいったい、なにを言っているんだろう?
嬉しかったとか初めて聞いた。

「付き合ったら鈴、想像以上に可愛いし。
今日も怒鳴られても歯、食いしばってちゃんと挽回して。
自分よりも俺が嫌な思いしたんじゃないかってそればっかり気にしてさ。
こんな可愛い子、俺だけのものにしたくなるだろ」

照れているのかその大きな手で覆うようにくいっと彼が眼鏡を上げる。
弦のかかる耳は、真っ赤になっていた。
これってもしかして、私はずっと誤解していた?

「その……」

「鈴を誰にも渡したくない。
俺だけのものにしたい。
だから、結婚しよう」

運転中なので前方を見つめている彼の横顔は、どこまでも真剣だ。
それに私は。

「……はい」

返事をした途端、プロポーズされたのだと実感が湧いてくる。
いつかは、なんて夢は見ていた。
それがこんなに早いだなんて思いもしない。
嬉しすぎて心がスキップでもしそうだ。

「よかった。
……って、本当はもっと雰囲気のいいプロポーズを考えていたんだ。
仕切り直させてくれ」

「えっと。
……はい」

課長は悔しがっている。
しかし、ぽろっと漏らした人が悪い。

そうこうしているうちに会社に帰り着いていた。
シートベルトを外そうとした私の手を課長が押さえる。
なんで、とか疑問に思っていたら、課長の唇が私の唇に重なった。

「……仕事とプライベートは分けるんじゃなかったんですか?
それに会社では付き合っているのは秘密だって」

だからこそ私は、務めて部下を演じてきたのだ。

「んー、誰かが鈴に目をつけたら嫌だから、これからはオープンにする」

先に降りた課長を慌てて追う。

「課長ってけっこう、独占欲が強い?」

「そうかもなー」

なんて笑っている彼の溺愛姿に、他の社員がぎょっとするまであと少し。

【終】

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