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らくだメソッド9ヶ月の振り返り

 らくだメソッドも9ヶ月を終えた。
 今、私はかつてないほどにできない状態に陥っている。

 三日連続でできない日も珍しくない。
 始めた頃でもこんなにできないことなんてなかった。やっていないなと思いながら時が過ぎ、気づけば日を跨いでいる。疲れて寝てしまっても、23:30には目覚めて、プリントへと向かっていた日々が嘘のようだ。

 けれど、できないことが苦痛ではない。

 始めた頃はできない日が苦痛で仕方なかった。
 記録表の空白が自分の怠惰を物語っているような気がしたからだ。空白に苛まれて、後悔から逃れるために駆り立てられるようにプリントへと向かった。

 けれど、今はそうは思わない。
 今日もできなかったな。
 そうやって事実を事実として受け入れている。

 やろうとしながらもできないことは反省の気持ちは浮かんでくるけれど、それ以上の感情は浮かんでこない。
 ともすれば、それはプリントへのモチベーションを失っているのかもしれない。
 しかし、そもそもらくだメソッド自体がやる気でどうこうするものではないのだ。やったらそこから学べばよくて、できなかったら「できなかったこと」から学べばいいのだ。
 あらゆることから学びを得る。
 それこそが本当の学びなのだ。

 とはいえ、約150日連続記録が途切れたことがやらない日を増やしていることにはかわりない。

 ただ、できなくなったことで私は確実に自由になった。

 続けることが目的であった時、確かに自己効力感は湧いてきたけれど、同時にそこに依存している自分もいたことを否定できない。「これだけ続けられているんだから、自分は凄いんだ」と自分に暗示をかけるようにして、過ごしていた。

 連続記録が途切れた時に、無念よりもほっとした自分がいた。

 ああ、これで肩の荷が下りる。

 つまりは、私は緊張しながら毎日プリントをやっていたのだ。
 張り詰めて張り詰めて、耐えきれなかった糸が切れてしまった。それが実情だ。

 今の状態は私にとってどんな時期なのだろう?
 そんな風に自問してみると、「振り返り」の時期だと思っている。
 これまで自分が辿って来た足跡をじっと見つめ直してみる。

 3ヶ月目の振り返りから、テニスの壁打ちにと例えてきた。
 それに倣うならば、今は休息の時なのかもしれない。

 成長ばかりの段階から、緩やかな成長と停滞を経て、一旦休む。
 上手くなりたいからといって、闇雲に取り組めばいいのかといえば、そうではない。必要以上の疲労は身体を痛めるだけでなくフォームも崩してしまう。身体の超回復を促しながら、頭で次はどんなことを意識しながら練習しようか、どんな戦略で上達していくかに頭を巡らせている。

 この時間をいかに過ごすかで次の飛躍が決まる。地味だけれど、とても大切な時間。毎日プリントができたりできなかったりしながら、ゆらゆらと内省を深めていく。

 6ヶ月目の振り返りを読み返すと、「明確なゴール」がないことに気づいたと書いてあった。
 その想いは強くなるばかりで半ば、確信めいてきた。

 その上で、ゴールを目指すことよりも「今、どうあるか」を大切にするようになってきた。
 今、目の前の人と接する時にどうあるだろうか。真剣に真摯に向き合えているかを自分に問いかけている。(2016年9月9日)

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 条件付きで自分を褒めることは諸刃の剣で、「〇〇してるから自信が持てる」というのは裏返せば「〇〇できなければ、自分はダメな奴だ」と言っているようなもの。

 だから、ますます〇〇という杖に寄りかかるようになる。なにかの拍子にその支えを失ってしまうともう1人で立つことができず、崩れ落ちてしまう。

 僕にとっての杖は「毎日プリントに取り組んでいる」という事実だった。
 だから脅迫的に150日も継続できた。ただ、上記の振り返りにもある通り、その支えを失っても僕はそれほどダメージを受けることがなかった。

 それは6ヶ月時点でのパラダイムシフトが起こっていたからだろう。できたって、できなくたって自分は自分だ。

 他者からの理解や賛成を得るためには根拠が必要かもしれない。けれど、自分に対しては根拠なんて必要ない。

「僕はなにもできないけれど、自分のこと大好きですよ」

 残念ながらまだ胸を張って、その台詞を口にできない。ただ、いつかは言ってみたいと思っている。


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