見出し画像

先にかんじて、理由はあとづけ

 先日、病状の祖母の見舞いに行った時に、祖母と父が話しているのを見て、「ああ、僕は愛されているんだな」と思った。

 僕について話をしていたわけではないし、本当に何気無い昔話だった。
 でも、その何気なさが逆に真に迫って感じられた。

 その会話の話題や出てくる名前を僕は知らない。なぜなら僕が生まれるよりも前の話がほとんどだからだ。

 僕は僕が生まれてから、正確には自分というものを認識するようになってからのことしか覚えていない。だから先祖がいるとは知っていても、心のどこかで自分という存在がスタート地点だと感じていた。

 だけど、そのスタートラインの前には、脈々と連なっているものがあった。2人の昔話によって、影となっていた道に光が照らされるようだった。

感じることが先にある

 そして昨日、「てつがく対話」というものに参加してきた。話すテーマが「幸せの定義とはなにか?」だった。

 その質問を見た時、僕には数日前の祖母と父の会話が蘇ってきた。

 幸せとか愛情って、「そう感じるもの」だと思う。そして、感じた後でそれに理由付けを自分でしていくんだ。

「お金がたくさんあって幸せだな」とはなかなか思わない。
「幸せだな。僕には好きなように使えるお金があるからな」なのだ。

 意味としては同じだけど、順番が大事。

 後付けの理由に大した意味はないんだ。だって、同じ理由で幸福だと思う人もいれば不幸だと思う人もいる。だから、条件とか理由よりもそう感じていることがきっと僕にとっては大事なんだ。

 だから、幸せだと感じられることが幸せで、不幸だと感じることが不幸。まったく答えになっていないんだけど、でも僕なりの答えはこんな感じだった。

読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。