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野口体操WSに参加して……

 2019/07/16に野口体操のWSに参加してきました。
 僕自身がどうしてもやりたくて、お願いして、実現したWSでした。

「初心忘るべからず」と、古来から言われていますが、心を支える技があってこそ初心が現実と結びつきます。そしてその技は、一生を通して磨かれることで、本物になっていきます。その意味から言っても、いつでも戻っていける基本を身につけるのは、できれば早い方がいいということになります。しかし、気づいたときが旬。野口体操は、まるごと全体のからだで、やわらかさ(柔軟性)たくみさ(巧緻性)つよさ(強靭性)といった動きの在り方を、「力を抜く」というベクトルでさぐっていきます。そのキーワードは「重さ」です。何故ならば、生きものは、生活の場を陸に移して以来、重力に適応するように形態・構造・機能を変化させてきました。重力に刃向かうのではなく、重力を味方につけることで、よりしなやかで楽な動き方を身につけていきたいのです。丁度よくほぐされ・ほどかれたからだには、意識的ではなく、その時その場に合った自然な動きが生まれる可能性が高まります。堅いからだのまま、何かを外側に張り付けても、コールドジョイントですぐ剥がれます。血の通った生きもの基本は、まるごとの柔らかさです。柔らかいということは生半可ではありません。そこから本当の力が育ちます。
公式ホームページより)

 WSで「なにをやったか」についてはここでは語りません。

 なぜならば、ワーク内容を言葉にすることで逆に誤解を与える可能性が高いからです。野口体操では「感覚こそ力」であると言います。ほかの誰でもない、僕の、私の感覚を大事にする。

 そのためのきっかけとして、野口体操では独特なワークがいくつもありますが、それはあくまでも感覚と出会うための術でしかないと感じました。だから、「なにをやったか」ではなく、僕が「なにを感じたか」こそを語りたいと思います。

やってみて

(※講師の新井英夫さんは色んな道具を使いながら、教えてくれる↑)

 一言にまとめるならば、自分の中の自然と出会った気がしました。

 ペアになった人に身体を揺さぶってもらった時に、振動が足先から頭まで伝わっていくのを感じました。身体を動かし、言葉でそれを整えてもらったあとで、ふっと立つ。

 地面としっかりと接した気がしました。立つということは足裏を通して、地面(床)と対話することなのかもしれない。

 僕はヨガをやっている身なので、立つことの難しさを日々感じています。

 足は親指に体重をのせると安定する。それは意識して過ごしてきました。しかし、そもそも考え方が違う気がしました。
 能動的に「立つ」のではなく、「立っちゃう」。牛乳パックを立てた時のように、意思によるものじゃなくて、広い底面積に液体を流し込んだら、当然直立するだろう、という感じ。
 そして、そのバランスを崩せば傾いていく。重さにしたがって、流れていく。

 そういう体験をした時に、僕の身体も自然の一部なんだと思いました。

「自然」と聞くと、森や山、海などに加えて、野菜などの食べ物や子ども、のようなイメージが僕の中に思い浮かんできます。

 それらに共通するのは法則にのっとって生きていること。葉っぱは枝から外れれば、重力にしたがって落ちていきます。空中で元の位置に戻ろうと抗ったりはしません。
 子どもは自分の欲求にしたがって行動します。理性の挟む余地などなく、赤ちゃんは泣くでしょう。

 自然であることは、内から外からの流れに抗わず、乗っていくことなのではないかと思います。受動的とはちょっと違っていて、流れに従うのが一番楽だからそうしているだけなのでしょう。

 不自然な人間は、自然のものを目の当たりにした時に、自分とのギャップに気づきます。だから、僕達は常にどこかで自然を追い求めているのかもしれません。

 野口体操のように、動きの中で、自分の内なる自然と繋がることができるのならば、わざわざ深林の静けさや川のせせらぎを聞きに行かなくたって、いつでもどこでも、自分を整えることができます。

 そういう意味で、野口体操ってとんでもなく価値のあることをやっていると感じました。

 とても曖昧な言葉・表現になってしまいました。
 けれど、忘れたくないこの体感を言葉に残しておくことは、意味があると思っています。

 とっても楽しくて、終わってしまうのがもったいないくらいの時間でした。
 僕の一存で決められるものではありませんが、またやりたいと考えています。

読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。