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わかりやすいように楽しむ必要はあるのか?

「本田くんは楽しそうに見えないんだよね」

 今日、ふと言われたその言葉に考えさせられた。
 その台詞を言われた場面で、僕は確かに楽しいと感じていました。

 けれど、傍から見るとそう映ってはいなかったらしい。

 そこでふと疑問に思ったのは、「わかりやすく楽しむ必要はあるのか?」

 楽しさというのは自分が感じるものであって、人に決められるものじゃない。
 それは間違いないと思います。

 ただ、その表現の仕方をどうするか、ということはあまり考えてきませんでした。

 僕は楽しさを隠しているつもりはなかったので、恐らく外から見てしっかり観察すれば、楽しそうにしている要素を見つけることはできたでしょう。
 けれど、少なくとも一見的にはわかりづらかった。

 それは一考の価値はあるでしょう。

必要なくてもやってみる

 誰かと遊んでいて思わず笑顔になってしまうような楽しさもあるけれど、じわじわと噛み締めるような楽しさも存在していると思います。

 だから、外に向かって表現することが全てではない。
 ただ、わかりやすい方が楽しさの共有ってしやすいなとも感じます。

 せっかく自分が楽しい気分でいるのに、それをわかってもらえなくて「退屈そう」と思われてしまったら、一緒に楽しむことが難しくなってしまう。
 それは悲しいことです。

 受け取り手のアンテナが鈍いと言ったらそれまでですが、相手の豊かな感受性に頼り切ることは、怠慢です。

 だから、僕なりの考えとしては「わかりやすく楽しさを表現する必要はない。けれども、努めることは無意味じゃない」になるのでしょう。

 どこまでを表現するのかということを考え出したらキリがありません。
 毎回毎回それを気にしていたら、神経がすり減ってしまう。

 でも、せめて「自分は楽しい」と表明することくらいはできるでしょう。
 まずはそこから始めてみます。

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