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らくだメソッド1年6ヶ月の振り返り

 ついに念願の高校数学に入った。

 高校数学をほぼやっていないと言っても過言ではない私にとっては未知の領域に入ったとも言える。ただ、ここにたどり着くまでに受難の道があった。

 それは記録を見返してみてもわかる。
 プリントを始めてからずっと撮り続けてきた毎日の記録が3月で1度途絶えている。

 当時はひたすらに忙しく、また精神的な余裕がなかったためにプリントが週に1回しかできないという日が当たり前のように続いていた。4月の終わり頃から5月にかけてでようやくリズムを取り戻してきているのが現状だ。

 進捗としてはかなり悪いと言わざるを得ないけれど、亀のように鈍くても前に進んでいるということは紛れもない事実で、高校の単元に入ったことが証明している。
 そして、実はこのできなくなった時期が自分にとってとても意味のあるものだった。

 最近、久々に会う人にことごとく「雰囲気が変わったね」と言われる。
 久々と言っても、半年から1年程度の期間だ。劇的な変化が起こるものではないかもしれない。けれど、外から見ると明らかにわかるほどの変化が起こっているらしい。

「できなくなること」そのものはただの事実でしかない。
 大事なのは、自らに大きな変化が起こっているということだ。
 もう起こってしまっている。「これから」でも「かつて」でもない。「今」起こっている。
 内因・外因はわからないけれど、昨日までの延長線上で臨もうとするとたちゆかなくなってしまった。
 見ないふりをしようとしても、空白という形で用紙に記録されてしまう。
 逃げても追ってくる現状に対して、一体どういうアプローチをしていくのか(あるいはアプローチをしないのか)。

 流れの変わった川の中では同じ場所に居続けるためにも泳ぎ方を変えなくてはいけない。
 例えば、増水して流れが速くなっているならば、少し頑張って泳がなくてはあれよあれよと下流にながされてしまう。

 その時、有無を言わさず変容を迫られるだろう。
 今回私の場合は大きな変化ではあったけれど、人と場合によって、それは些細な変化かもしれない。でも間違いのない変化だ。

 それにしても不思議だ。
 2017年5月に入って2日以上空けることなく取り組めるようになり、個人記録も復活したのに、「できること」に気持ち悪さを感じている自分がいる。

 なんで私はできるようになったのだろう?
 これは現実逃避の手段と化してないだろうか?

 そんな疑念が脳裏をよぎる。

 もう気づく前には戻れない。
 でも戻りたいかと尋ねられると、別にいいかな、と身体が答える。
 ほのかな郷愁と現状への充足を天秤にかけてみると、どちらに傾くかは目に見えている。(2017年5月27日)

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 この時期のできなさは9ヶ月の時とは少し異なる。9ヶ月の時はやりたいと思いながらもプリントに向かえなかった。この時期のできなさは、慣れない仕事が幾つも重なり、らくだメソッドをやるということがそもそも念頭になかった。

 だから、記録表は空白だらけになっていた。

 何度でも再開すればいい。

 らくだメソッドを通して学んだことはたくさんあるけれど、その中の1つにこれがある。

 僕は一旦止めてしまったものは、もうダメなものだと思いこんでいた。
 電源が切れたものはもう再起動できなくて、後悔しながら立ち去ることだけが自分に残された選択肢である、と。今から考えればまったく馬鹿らしい。

 だけど、ON、OFFボタンの存在を知らなかったのだから仕方ない。

 1度知ってしまえば、たとえ今までできたプリントができなくなったとしても、1度できたのだから、またやれば、いつかはできるようになると確信できるようになった。

 ただ、ボタンの存在を知ったら、今度は「いつでもON、OFF切り替えられる」と思い始めるのだから人間は難儀なものだ。

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