中身があるようでない

 20歳くらいまでまともになにかを続けることができなかった。3日坊主なんて当たり前で、すぐに投げ出してしまう。

 だから、スポーツなど小さい頃から何年を続けてきた人の話を聞くと、後ろめたさを感じていた。他の人が積み重ねてきたものが、自分にはないことに暗澹たる気持ちになった。

 けれど、最近は継続することは苦痛じゃなくなった。

 ヨガは6年続いているし、らくだメソッドはもうす2年半になる。インタビューゲームも50人を超えた。細かいことを書き出せば、まだまだたくさんある。
 なんで色々なことを続けられるようになったのだろう?

 自分で疑問に思って考えてみたら、それは努力の賜物と言うよりも、自分が考え方が変わったからだった。

微細な変化を見出す

 通勤・通学に使う交通機関や道というのはそうそう変わらないでしょう。
 だから、見慣れた風景を毎日眺めることになる。

 けれど、本当は違う。
 やっぱり昨日と今日は違っていて、季節は移り変わり、自分自身も変化していく。ちょっと考えればわかること。
 でも、それをいちいち気にしていたら面倒だから、見ないふりをして「いつもと一緒だ」と断じている。

 確かにその方が考えなくて済むから楽だ。
 ただ、それではだんだん世界が色褪せて見えてくる。あれもこれも予定調和で、新鮮なことはなにもない。退屈で、投げ出したくもなるだろう。

 飽き性というのは、要するに感覚が鈍いことだと思っている。緑と黄緑の違いがわからないのと同じように日々の差が認識できないのだ。逆に、感覚が磨かれていけば、そのコントラストははっきりして、細かい違いも刺激的に思える。

 僕は自分の身体に興味を持つようになってから、感覚を磨くことに心掛けてきた。そうしていくと、毎日身体の調子が異なることに気づく。
 そして、同じ散歩コースを歩いていても風景が異なることに気づけるようになった。空気の張り感、曜日による人々の纏う雰囲気、道端の草木の成長具合。
 それがとても鮮やかに感じられて、楽しい。

 旅行に行くとか、非日常的な体験をする、ということを通してしか刺激を得られないのもきっと感覚が鈍っているのだろう。

 新しいことは常に起こっている。ただ、それを感じようとしているか否かの話だ。
 究極的に言えば、今この文章を僕が書き、あなたが読んでいる時だって、時間は進んでいる以上、変化が起こっている。
 それを感じようとしているだろうか?

まとまりなく冗長に書いてきたけれど、

 結局なにが言いたいかといえば、





 今日1つ歳をとりました。
 めでたい。

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本田

日々の思考と記録

毒にも薬にもならないけれど、身体に染み込むように、思ったこと、考えたことを自分の言葉で書きます。拙くたって、伝わらなくたって、真摯に書く。
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