見出し画像

らくだメソッド3ヶ月の振り返り

 らくだメソッドの存在を知り、初めて説明を受けて体験した時にこれは凄いな、と感じた。
 ただ、それが一体どんなところが凄いのかはその時にわからなかった。

 3ヶ月以上が経過した今、その凄さが少しずつわかってきた。

 私にとって計算(勉強)をすることは答えを出し、それが当たっているか否かが全てだった。だから、正解であれば善であり、不正解であれば悪だった。実際、学校システムはそういうルールに則って運営されていた。
 けれど、仮にも成人した今、四則演算ができたところでどうということはない。正解したら誰かから評価してもらえるわけでもなく、不正解だったら誰かに窘められるわけでもない。
 そういう他人の評価から自由になった時、計算という単純な作業の中に自分を見つけることができた。問題を解くプロセス、間違いのパターン、そして記録の取り方まで実は自分の癖が現れていることに気づけた。
 1枚のプリントの隅々まで私という個性が現れていた。

 私は個性が見た目や言動など表に現れると思っていた。けれど、実は細部の見えづらい場所にこそあることがわかった。自分のだけでなく、寺子屋塾に来た色んな人の話を聞くとその思いは強くなった。

 正直、今始めた当初のことを思い返すと酷いものだった。
 何重にも折り重なった狭い枠組みにとらわれて鎖に縛りつけられて、苦しんでいた。
 けれど、続けていく過程でその鎖を生み出しているのが自分だと気づいてからは、一本ずつ解けていくようになった。
 なにか1つ上手くいかないだけで不安に駆られ、動揺していた心は最近あまり動じなくなった。もちろん不安になることもあるし、感情が不安定な時でもあるけれど、その振り幅は間違いなく少なくなってきた。
 まだまだたくさんの鎖が残っているけれど、それもやがて解けていく予想がつくことで慌てる必要もなくなってきた。

 らくだをやることは自分と対話をすることなのだと最近思うようになった。
 対話、というと他者との間にしか成立しないもののように感じるけれど、意外とそうでもない。それはテニスの壁打ちにも似ていて、計算を通して一旦自分の外に吐き出し、答え合わせによって跳ね返って来たプロセスを今一度吟味する。そして、そのボールをまた打ち出すのだ。
 その繰り返しによって、最初はあっちこっちへ飛んで行ったボールがだんだん集まってきて、ぶれることもなくなっていく。
 でも、どうやって上達していくかと言えば、そのあらぬ方向へ飛んでいくミスがあることによって成長していくのだ。まぐれで真っ直ぐ飛んで、真っ直ぐ返ってきたボールなんてほとんど役に立たない。だって、それはなんで真っ直ぐ飛んだのかわからないから。

 ミスがあるからこそ、ミスをどうにか減らしたいと望むからこそ、人は上達する。
失敗することがずっと怖しかったし、今もまだ怖しさはあるけれど、随分その抵抗感は少なくなってきた。それはらくだをやりながら上手くいかない経験を積んできたからだろう。らくだの良さは単純さにあると思う。どれだけをミスをしても、自分の人格が否定されるわけでない。上手くいかないのは当たり前。それを知れただけでもらくだをやって良かった。 (2016年2月)

------------------------------------------------------------------------------

 以上がらくだメソッドを始めて3ヶ月の記録だ。この時は課題レポートのようなイメージを持っていたので、堅苦しい文章になっているなと我ながら思う。

なにか1つ上手くいかないだけで不安に駆られ、動揺していた心は最近あまり動じなくなった。

 こんなことを書いているけれど、思い返してみると当時の僕はまだまだ動揺してばかりだったと思う。ただ、それがわかる程度には現在の僕は変化しているのだろう。

 この振り返りを今日読み返してみた時に、小学校時代の記憶が蘇ってきた。
 小学生の僕は通学路から外れることを酷く嫌っていた。決められたレーンから外れることがとにかく怖ろしく、友達から「今日はこっちから帰ろうぜ」と言われると、散々ごねた。結局、通学路から外れた道で帰ることになっても、誰かに見咎められるのではないかと気が気じゃなかった。

 そもそもなんで自分が行きたい道で行ってはいけないのか?
 本当に些細なことなのに、ルールに疑問を持つことすらもできなかった。そうやって小さい頃から自分の思い込みで自身を縛りつけていたんだろう。

 まあ、そうした経験が今に活きていることを思えば、悪くないな。


読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。