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「解釈」の解釈(2)(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた⑧)

英語教師のKirtzです。国語科教育法を履修させていただいて、「解釈」という言葉の理解が変化したということを前回の投稿で書かせていただきました。


意味は文脈の中で形成される

国語科の学習指導要領では、「文章の意味は、文脈の中で形成されることを理解すること」といった記述があります。これはもちろん、文学作品に限ったことではありませんし、文章だけでなく、文中の表現だったり日頃私たちが使っている言葉にも当てはまります。

意味は文脈の中で形成される。つまり、文脈を踏まえて言葉を解釈しなければならない。そして、解釈とは、言葉を好き勝手に独りよがりに捉えることではなく、その時々の状況や背景を考慮して、言葉を適切に理解することにほかなりません。「人によって解釈が異なる」ということはありますが、状況や設定から考えると採りうる解釈には一定の許容範囲があることがほとんどです。

国語科の授業で作品や表現の「解釈」を行うのは、採りうる解釈に対する「一定の許容範囲」を見定めるためのトレーニングだと理解しています。

解釈とは、受け手による意味構築

「解釈」という行為を毛嫌いしていた時の私は、「筆者の本心なんて筆者に直接尋ねなきゃわからないじゃないか」と考えていました。この考えは誤りであったと認識しています。

専門的には様々な説明がなされるところでしょうが、私個人としては以下のようなことを現在は考えています。

言葉を理解することは、発信側がそこに置いて行った意味を受信側が拾うような行為ではなく、発信側の生み出した言葉を、文脈に照らし合わせて受信側が自ら主体的に「意味構築」することである。

私たちが文章を読んだり誰かの発言を聞いたりする際、書き手や話者の「意図」という唯一絶対の正解があると考えがちです。もちろん、発信側には発信側の思いがありますから、それを「拾ってやる」という考えは間違っているわけではありません。

しかし、こうした捉え方は、すなわち「意味は受け取るもの」というイメージを作り出します。「発信者・受信者」という言葉自体、それを含意してしまっています。

しかし、「意味は文脈の中で形成されるもの」。「形成する」の主語は誰でしょうか。発信者ももちろんそうですが、最終的には受信側が意味を形成する、意味構築を行う必要があります

国語力と英語力

受け手の側が主体的に意味構築を行う必要があるということは、英語教育においても大きな意味を持ちます。ここに、国語力と英語力の相関の一因を求めることができるからです。

英文の読解が苦手な生徒は、一語一語の「辞書的な意味」は理解していて、かつ文構造も的確に捉えられていて、それでも「何を言っているか分からない」ということが往々にして生じます。このような生徒は、書かれた文章における単語の意味と構文を捉えれば意味を「拾う」ことができると考えているのではないでしょうか。

一方、読解を得意としている生徒は、常に読みながら文章の意味を自分なりに咀嚼して理解している、すなわち主体的に意味構築を行っている様子がうかがえます。学習段階に応じて、この意味構築が母語(日本語)をある程度介して行われることもあれば、英語を英語のまま理解(いわゆる直読直解)することもあります。しかし、いずれの場合でも、読みながら、無意識のうちに、自分なりの言葉で言い換えたりすることによって、積極的に意味構築をしているのが分かります。

あえての一般化をしてしまえば、国語力が高い生徒は日頃の母語における言語使用から主体的な意味構築を行っていることでしょう。おそらくそれは、それまで受けてきた国語教育(国語「科」教育に限らず)で培われた態度なのだと思います。逆に、母語での意味構築が習慣化できていない、あるいはその能力が乏しい生徒は、特に高校英語での読解に苦労し、伸び悩むケースが多いです。

このように、国語教育を通して培われることが望まれる意味構築の能力は、外国語を学ぶ際に大きな影響力を持つように思われます。母語において、すなわち国語科の取り組みを通してそうした力をつけていく必要は言うまでもありませんが、もちろん英語科としてもこの部分を国語教育任せにするべきではありません。

次回の投稿では英語科に何ができるかを考えてみたいと思います。

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