文学作品を通じて何をしているのか(1)(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた⑤)

英語教師のKirtzです。現職英語教師が科目等履修生として国語科教育法を受講しています。

先日の授業ではある詩を題材に、その教材的価値を考えて、どう指導に落とし込むかを考えました。

かねてから私は国語の授業で文学作品を扱うことに疑問を持っていたので、今回詩という文学作品を授業でどう扱うかを考えることで、非常に多くのことを学ぶことが出来ました。

どうして「解釈」を考察するの?

私が最も疑問に思っていたのは、作品の「解釈」をめぐる考察の必要性でした。文学作品を扱う授業では、よく「この描写は○○を暗に示している」のような「解釈」を論じることがあるようです。

私は文学に関して全くの素人ですので、作品の解釈をすることに何の意義があるのかずっと疑問に思っていました。小説や物語であれば、純粋にその物語を「お話」として楽しめばいいし、詩であればそれが醸し出す世界観をそのまま味わえばよい。わざわざ隠された意図や象徴を模索するのは後付けの分析でしかないように思えて、何の意味があるのか理解できませんでした。それに、作品の意図なら筆者に尋ねればいいじゃないか、とずっと疑問に思っていました。

詩の「解釈」を経験してみて

今回の授業では、谷川俊太郎『二十億光年の孤独』を扱い、まずはグループでこの詩の解釈を検討しました。

文学にうとい私は、まず今回の題材であるこの詩を一読して、「なんとなくわかる」程度の感覚を持ちました。詩が表す世界観をなんとなく理解した気になった程度でした。しかし、様々に議論をしながら理解を深めていくことで、いろいろなことに気付かされました。

まず、作品には複数の解釈の可能性があるということ。
最後の「くしゃみ」の役割や意味だったり、「火星人」の存在をどう考えるかだったり、それらについていろいろな考え方が可能であることが分かりました。自分が一読して考えたものとは異なる解釈のしかたがあり、多様な考え方がありうるということを実感を持って学ぶことができました。

また、どんな解釈をするにしても、何かしらの根拠をもって考える必要があることが分かりました。
どんな解釈もできるというわけではなく、ある程度許容されるべき解釈の幅というものが存在します。そしてその解釈の幅は様々な要素によって定められますが、本文の他の記述を元に考えるのがまず基本的なスタンスとなるでしょう。

何より、こうした解釈やその論拠を自分で考えたり、それらをめぐった議論を他の学生と交わすのは、純粋に楽しいものでした。
自分が中高生のときに、このように生徒主体で解釈を検討する機会を与えられた記憶はありません(覚えていないだけでしょうか…)。もし中高生のときにこうした授業を経験していたら(あるいは、もし私が覚えていないだけならば、「もっと真剣にこうした授業に参加していたら」と言うべきですね)、自分の文学作品への考え方も違ったものになっていたのでしょう。

いったい何をしている(させようとしている)のか

私が国語科教育法を学ぼうと思った大きな動機のひとつが、国語の授業は何をしようとしているのだろう(あるいは、何を生徒にさせようとしているのだろう)という疑問でした。特に、自分自身が文学に興味を持たなかったので、どうして学校の授業で文学作品を扱うのだろう、という疑問を常に持っていました。また、文学作品の「解釈」をこねくり回して議論しているように見え、それこそ「いったい何をしているのだろう」と思っていました。

今回、まず自分が作品の解釈を経験してみたことにより、ぼんやりとではありますが「何をしようとしているのか」が見えてきた気がします。今回の投稿では自分が経験したことをつらつらと書いてきましたが、次回の投稿ではもう少し内容をまとめてみようと思います。

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