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入試へのスピーキングテスト導入についての私見

『高校入試に英語スピーキングテスト?:東京都の先行事例を徹底検証』という書籍を読みました。この書籍から学んだこと、読中に感じたことなどをまとめておきたいところですが、その前に、入試へのスピーキングテストの導入について、私自身の考えを一度まとめておきたいと思います。

本書は東京都の公立高校入試に導入されたESAT-Jというスピーキングテストに関するものですが、本稿ではこれに限らず、また大学入試までを含めて、広く入試へのスピーキングテストの導入ということを考えます


スピーキング導入に賛成だが、もう少しニュートラルでありたい

結論から言えば、私は基本的にはスピーキングテストの入試への導入に賛成ですが、迷いもあるのでもう少しの間ニュートラルな立場でいたいと考えています。その意味において、昨今東京都が導入したESAT-Jに多くの批判がなされる中、その批判がスピーキング導入自体への批判にすり替わってほしくない、スピーキング導入の議論に対するノイズになってほしくないという思いがあります。

元々私は、noteのマガジンでも「ヨンギノー英語教師」と名乗っているように、スピーキングを含む4技能試験の導入を支持してきました。結局頓挫した大学入試への4技能試験導入に際しては、自分が指導する生徒たちが遅れをとらずに済むよう、私自身も様々な検定試験を受験したり、指導法の研修会に参加するなど準備をしていました。

根底にあるのは、入試が変わらないと現場の学びが変わりきらないという考えです。いくら学習指導要領や教科書が変わっても、和訳・文法訳読ばかりの大学入試が多くの高校生に対して「出口」として存在する以上、そのnegative washbackにより学ぶべき真の英語力が育たない。そのため、出口としてのスピーキングを含む4技能試験の導入は、現場や学生の学習観に大きな影響を及ぼすと考えています。

導入推進への迷い①「高校卒業後で十分では?」

ただし、推進派でありながら、私自身も疑問がないわけではありません。ひとつには、「スピーキングを強化するのは高校卒業後で十分では?」という迷いがあります。

なにしろ、私自身が、高校卒業時にはほとんど英語を話すことができなかったのです。高校の授業でLL教室で英語を話したときには、声が詰まってしまいました。大学で音声学を学ぶまで、thの発音(dental fricative)の存在を知りませんでした。大学の授業で初めてpublic speakingを経験し、原稿を見ながら話してはいけないことをはじめて知りました。

そんな私でも、今現在のoral proficiencyを獲得することができました。もっとも、私自身の経験で言えば、oral fluencyの獲得には大学院時代の留学が必要だったということになってしまうかもしれません。しかし、それは裏を返せば、中高でスピーキングにほとんど取り組まなかったとしても、必要に応じて取り組めば十分なfluencyが獲得できるということでもあります。

経験則だけで語るのは良くないことですが、しかし日本の英語教育の歴史を振り返っても、「話せない日本人」を大量生産した一方で、「大人になってから本腰を入れて英語を学び、流暢に話せるようになった日本人」も数多く生み出してきました。これらの人々の英語力の基礎は、中高での文法訳読中心の英語教育にあったことは(私自身の経験則から言っても)間違いありません。

導入推進への迷い②「そんなに色々できないのでは?」

「本腰を入れてoral fluencyを身に着けるのは高校卒業後でいいのでは?」という迷いは、もう一つの疑念につながります。英語教育のカリキュラムオーバーロードです。

コミュニカティブ志向になって文法力が低下していると言われるようになって久しいです。限られた授業時間の中であれもこれもと取り組み、消化不良となっている感は否定できません。将来のoral proficiencyを必要に応じて獲得できるように、中高時代はそれを下支えする文法・語彙を鍛える、つまり「昔ながらの日本の英語教育でいいのではないか」という議論は、私は一聴の価値があると考えています。

もちろん4技能をバランス良く統合しながら学ぶのが理想ですし、そもそも自然な言語習得はlistening/speakingから始まり、文字の導入を要するreading/writingは後からついてくるものであるのが前提です。その意味では、日本の英語教育のようなreading/writing先行の指導はきわめて不自然という批判はごもっともです。しかしその一方で、そもそも日本はEFL環境という不自然な環境で英語を学んでいるということもあります。日本のEFL環境という特殊性を考えたとき、「自然な言語習得」は言語政策を考えるうえで説得力は強くないと考えます。

それでもスピーキングは必要

このような疑念はありますが、それでも私は、やっぱり入試へのスピーキング導入は必要と考えています。

英語を流暢に話せる姿に憧れを抱いている中高生は多いはずです。そうした憧れの力は、学習の強力なモチベーションになります。憧れの力をモチベーションとして活用するために、中高の英語教育ではスピーキングを軽視すべきではないと考えます。(これについては過去の投稿「英語学習と「憧れ」」で書いています。)

もう一つは、アウトプットの重要性です。アウトプットによる気付きの要素は学習において不可欠です(「はじめましてのOutput」参照)。アウトプットの分量を考えたときに、ライティングだけでは不十分で、スピーキングを学習に導入することで、日本の英語教育に圧倒的に足りないアウトプット量を補うことができます。

英語教育においてcomprehensible inputが少ないという批判がよくなされますが、それと同じように、outputの量も圧倒的に不足しているのではないでしょうか。かと言って毎日毎日essay writingを課せばいいものではありません。基本的なoutputの形としてのスピーキングが果たす役割は大きいはずです。

このように、学びにおいてスピーキングが果たす役割は大きいはずですが、冒頭からの繰り返しになってしまいますが、入試という「出口」においてスピーキングがカウントされていない状況では、いくら現場の授業でスピーキングに力を入れようにも、生徒が真剣にそこに向き合うことが困難になってしまいます。そうした観点から、私は入試にスピーキングテストを導入することの波及効果に期待しています。

「ESAT-Jへの批判=スピーキング不要論」とならないで

期待もあり、迷いもあり。ということで、入試へのスピーキング導入について、自分自身はもう少しニュートラルに考えていたいところです。

今回、『高校入試に英語スピーキングテスト?』を手に取って読んでみましたが、私はこれまで、ESAT-Jを巡る議論からは意識的に距離を置いてきました。冒頭で述べたように、昨今ではESAT-Jを巡る議論の中で、ESAT-J自体への批判と、スピーキング不要論がごちゃ混ぜになってしまうことを見かけますので、そのノイズを自分の中に入れたくないという気持ちでした。

本書を読んで、私の期待と迷いのジレンマにどう答えてくれるのか。次の投稿で本書について書きたいと思います。

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