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えらてんに本もらったから原稿用紙百枚分感想文書いた

「フェイクを見抜く最強の武器 批判力」を読んで

ここに、自分がうんちであることを断言しておく。
なぜなら、断言してから感想文を書き連ねることによってこの本の前半部分で主に語られていているこの感想文にも起きる「矛盾に見える部分」を分かりやすく体現できるからです。
日本には「お前が言うな」という慣用句があります。多分日本以外にもあらゆる国にあるでしょう。知らんけど。
これは発言の正しさを発言者のパーソナリティによって判定する文化の存在を表しているわけですが、この感想文は「お前が言うな」のオンパレードです。
なぜならもちろん僕がうんちだからです。
僕は頭がいい人間ではないしなんらかの素晴らしい側面を持ち合わせている人間なわけでもありません。
そこらへんの引きこもりぼっち大学生です。
そんな人間の書く、本に対しての感想文、つまりある種の批判は、考えてみれば「お前が言うな」という文章そのものでしょう。
おまけに僕はこの本「フェイクを見抜く最強の武器 批判力」(以下「批判力」)の著者であるえらいてんちょうさん(矢内東記氏)からこの本をタダでもらいましたし、高校生の頃えらてんさんの一声によって氏が経営するグループのバーでおごってもらったりもしています。
飯をあてがわれ、知識まで提供され、僕が著者を公平な目で見れるわけがありません。著者の靴をなめて綺麗にする気まんまんなのです。
この状況は、例えるなら原付に乗った年収300万円のおじさんがフェラーリの乗り心地を批判していている状況のようなものです。このおじさんの発言がただの妬みとしか捉えられないように、僕の発言もポジティブな内容であれば単なるよいしょとしか捉えられません。ネガティブな内容であれば施しを仇で返す無礼者で、そんなやつの批判にも同様に説得力がないと判断されるでしょう。
しかし、それが「批判力」を持ったものの条件を最低限守ったものなのであれば、それは世のため人のため、ひいては原付に乗った年収300万円のおじさん自身や僕自身のためにもつながるのです。
本書の「はじめに」にはこう書かれています。

よく「批判するのはダサい」「批判なんてしていないで自分のやりたいことをやろう」といってくる人がいます。こういったことを言う人間は、非難や誹謗中傷と批判の区別ができていませんし、批判の意味や役割を無視している場合が多いです。間違っていることに対し間違っている、悪いことには悪いというのは当たり前のことです。

僕のうんち宣言とは少しニュアンスが異なると感じられるかもしれませんが、本質は全く同じことですね。
1+1の答えは誰が言っても2です。
どんな偉い人が3と言ってもそれは間違っているし、どんなバカが2と言ってもそれは合っているんです。

なんとなくこの動画を貼ってみたのですが、このおっさんは間違ってます。さっきの例と勝手に照らし合わせたりしないでね。

さて、この本は、一見専門書じみているというか、自己啓発本のような様相を呈していませんが、その中身の真髄は成功本と言っていいでしょう。
この本を読み、そのとおりやればなんらかの名を挙げられることは間違いありません。
実際、著者はNHKから国民を守る党を批判することによって著者を知らなかった人にも著者の存在を知らしめました。
ビジネス界隈、ユーチューバー界隈などでは既に有名でしたが、その他で知っている人は少なかったところが一気に全国区に。僕も有名になりたい。
その内容はもちろん本書の中でも触れられています。
しかし、たしかに幹の部分は成功本として成り立っていることは間違いないのですが、この本の特徴として、全ての教訓の理由付けに「自分が得をする」ということが一切書かれていないことが挙げられるのです。
おそらく成功本らしき様相を呈していないと感じるのはそのためでしょう。
ホリエモンの本でもデール・カーネギーの本でも、成功本と言われるものはその教訓の根拠のほぼ全てが「自分が得するから」というところに落ち着きます。
こうすれば儲かる、こうすれば人生が豊かになる、などと個人ベースで語られているのです。
しかし、批判力はその限りではありません。すべてがマクロを見て語られているのです。
こうすれば社会のためになる、そもそも間違ったものは正さなければならない、などと世界平和のようなものを基本においています。
ぼくは世界平和を願ったことは一度もありません。というか、そんなことを願ったことのある人などほぼ居ないことでしょう。
この「批判すれば名を挙げられる」というのも、僕が暗に読み取っただけで成文されているわけではありません。
その点で批判力という本は考え方の勉強になるといえます。
人生で一度もそんな視点で考えたことのなかった視点でものを見ることが出来るのです。
世界平和について考えられる者は良いものだ、などとは僕はあまり思いませんが、考え方の幅は広いほうが絶対にいい。
僕は今大学で心理学を専攻していて、その中で文化人類学という講義をとっています。
これは簡単にいえば「おまえの常識とか他のとこじゃ全然役に立たねえからwwむしろ真逆なこと多々あるからww視野せっまwww」という感じの学問で、講義もゴキブリをキモいと思っている人がいるかどうかのアンケートからはじまりました。
受講している学生の9割がキモいと答えたその結果を画面に出し、教授は世界中での調査結果を挙げました。
世界でゴキブリを他の虫と特別視して気持ち悪がっている者は1割に満たないのです。
別にこの事実に驚くこともありませんし、これを知ったことによってゴキブリがキモくなくなったりすることは全く無くてむしろちょっと注目しちゃって更にキモさを見出してるところではあるんですが、それでもやはり興味深くはあります。
「ゴキブリをキモいと考えない人が大量に存在する」というその事実自体が興味深いわけです。
日本人、特に本州に住む日本人の間にはゴキブリがキモいという文化が広がっていて、それ以外の視点は持ち合わせていません。
キモくないと思っている人がグローバールスタンダードだと聞いたくらいじゃ揺るがないレベルの根深い文化です。

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この文化が何故生まれたのかとかの因果関係も結構面白いんですけどこの話と関係ないんで省きます。
ここで言いたいのは、斜めから見る能力です。
正面から見て二次元に見えるものは、斜めから見ると奥行きがあるかもしれません。汚いものはとても美しいものに見え変わるかもしれません。
ペーパーマリオの要領です。続編早くでねえかな。
本書を読んで、その視点を持つことができたのはとても大きかったなと思っています。
ゴキブリを斜めから見ることによって僕は「ゴキブリは斜めから見てもやっぱキモい」という視点を手に入れました。
これは全然話が違いますね。騙されないように。
「ゴキブリはキモくない」とする考え方が存在するということの例えですね。
まあ、世界平和について考えてる人ってこんな感じねってことがわかって楽しい、程度のことで別にドンピシャの例を上げる必要もないでしょう。というか本を読む価値って結構そこな部分の割合も多い気がしてます。
実用的な部分・娯楽的な部分の次に来る感じですかね。

もちろん考え方としては面白いですしその考え方を僕もたまには思考してみようとは思いましたが、僕は自覚する程の快楽主義者ですしそもそも世界平和に興味を持てません。ここはドンピシャな例えとしてゴキブリを持ってこれるほどです。ゴキブリはどんな風に見てもキモいんです。世界平和もどんなふうに見ても興味は持てません。世界中がディストピアになろうと僕が幸せになれば割とそれでいいんです。
ドラマとかを見てても家族のためにとんでもないことをやらかす描写とかはいまいち感情移入できないどころか理解できません。
「家族のためなんだあああ」と不自然に叫びながらとんでもないことをやらかすゴミ脚本ならまだしも面白いドラマはそんなことするわけもないので、「え、なんでこんなことすんの?」の連続になってしまうこともしばしばあります。
というところで僕は本書で得た知識をどう使えば一番美味しいかばかりが気になってしまいながら読んでいた節があります。
やはりシバターがヒカキンに噛み付くこの図式が一番美味しいのだろうな、などと。
僕がシバターを知ったのも小学生のときにヒカキンの本を燃やしている動画を見たのが最初ですし、それから今までに更新された全てのシバターの動画を再生しています。(余談なんですけど僕今18歳で、小学生のころってヒカキン知ってるの学年で僕一人だけだったんですよね。僕ってすごい時代の先取りしてますよね。僕すごいですよね。)
しかし、この方法をやるには現在称賛されている人・ものを面白くひどく、できるだけ合理的理由を持って叩く事が必要なんですよね。
となると著者の矢内東記氏を批判するのがすごい正しい気がしてきました。
合理的理由がないか。
僕がまだ何者でもないということもありますね。
批判力の中でも書かれていましたが、何者かになっている人が叩かないとそれはスルーされてしまうと書かれています。
とりあえず何者かになることから始めますかね。

ところで、この本はその名の通り「批判」について書かれています。
なんだかタイムリーすぎるとは思いませんか?
この本が書かれ始めたのがいつなのかはわかりませんが、出版のタイミング的にさすがに木村花さんの件が起こってから書かれ始めたわけはありません。
ちょっとスピリチュアルに理解あるキチガイが見れば、これは未来予知に見えなくもないでしょう。というか僕も未来予知に感じてます。
確か著者のネットゲリラについて書かれた著書(ビジネスで勝つネットゲリラ戦術詳説 (しょぼい自己啓発シリーズ))のときもこういうことがあったし、結構恐怖です。
最近岡田斗司夫の本を読んでいるのですが、この人の本もとんでもなく未来予知じみていて恐怖を覚えるんです。岡田斗司夫と著者のあいだにはどこか共通点のようなものを感じなくもありません。
でも、恐怖の覚え方に大きな差があるんです。
それはスパンの差です。
岡田斗司夫は10年、20年先の未来を言い当てます。
でも、著者は半年から1年程度の未来を言い当てています。どっちかというと実感が速いこともあって著者のほうが恐怖を感じますが、この二人に共通することは学があるということです。
岡田斗司夫さんのニコ生を見るとわかりますが、オタクの権化みたいな喋り方をします。デュフフの連続です。見た目や過去の事件も相まって非常に気持ち悪い。しかし、そこに認知的不協和のようなものを感じるんです。普通のオタク(ここでいうオタクとは昔の蔑称としての意味合いがあったオタク)と違って明らかに学があることに違和感を感じるんです。
深夜アニメの解説に聖書がどう民主化したかの歴史を使ったりするんです。学歴はないようですが、学はあきらかにあります。著者は学歴からも言わずもがなですが。
これは面白いと思いませんか。
学とはいわば雑学です。
世界の仕組みみたいな、知らなくてもいいこと。地球が平坦であると思っていたとしても人は生きていけます。
しかし、地球は丸いと知っていれば読める未来があるのでしょう。
あまり学のない僕にはわかりませんが、多分そういうことなんだと思います。
ここでなぜ聖書がどう民主化したかの歴史を使うという例を出したかと言えば、その例はそのまま批判力でも使われているからです。
なんだかこの共通点は面白すぎてハゲそうです。
僕も学を積んでいけば彼らのようになれるのでしょうか?
いや、なりたくないような気も少ししますね。。。。
ところで、木村花さんのことについてですが、それは冒頭で引用したところで話は済んでいます。「誹謗中傷は駄目だけど、その流れで批判まで否定すんじゃねえよ」というところで一蹴しているわけですね。
もちろん本書は出版されたばかりで、本の執筆には半年かかるとも言われていますから、木村花さんの名前や事例は出されていません。
まあ、この論は特に批判すべき事項もないレベルの正論ですよね。
というかそもそも木村花さんの自殺の原因を誰が知ることが出来るのかという話でもありますし。
死者の気持ちがわかるのは大川隆法くらいのものです。
誹謗中傷が原因だったかどうかもわからないどころか、テラスハウスとはそもそもそういう番組です。
そういう番組に承諾して出演していたのだからそんなので自殺するわけがないのではないかと考えるほうが自然とも言えます。
テラスハウスの番組の最後では登場人物に関する意見・感想をSNSに投稿するよう誘導されていましたし。
準イタコ芸しがちな誹謗中傷批判者への批判でした。。。と
イタコをしたければシバターの岩田聡を降ろす動画でも見て勉強してほしいものです。

さっきから著者の話の割合がかなり多いですが、それでいうとこの本はキャラゲーのように、キャラ本のような側面も当然持っているからなのかもしれません。
多分書店で表紙を見かけて著者を知らずに買う人はそんなにいないでしょう。
多動力などと違って「批判力」というワードはそこまで求心力もありません。
多動というネガティブワードに力をつけているという認知的不協和が薄いので。ひと目で内容を想像することもあまりできません。
それに、この本で語られている内容は著者だからこそ力を発揮するものと言えなくもないです。
『えらいてんちょう』というキャラクターとやってきたことを知っている人が読んでこそ身にしみるものがあるわけですね。
これは著者がこれまで実行してきたことの文章化だ、というのは読んだ誰もがわかることでしょう。いわば日記かもしれません。
日記でキャラ本で成功本です。

そういえば、今「批判力」というタイトルについての批判をしましたが、認知的不協和が薄く、ひと目で内容を想像することがあまりできない複雑さがあることについては、本書で説明書きがありました。
タイトルの説明書きであるということは名言はされていませんが、僕はそうだと受け取りましたので、その部分を引用します。

物事は単純なことのほうが伝わるし、感情に訴える力も強いので、正しそうに聞こえます。反対に自分の常識から外れたことや複雑なことは、すぐには理解できないか>ら、受け入れにくいのです。
>だからこそ、この人の知性は信頼しているから、この人の話は聞いてみようかなとか、そういった人が一人でもいる人は幸せです。

これを鑑みると、著者はあまり求心力のないタイトルによって読者のフィルタリングをしているのかもしれません。著者を『そういった人』として見ている部分が少しでもある人しかこの本は買わない。その人にこそ伝えたい、その人でなければ伝わらないようなメッセージをふんだんに詰め込んだこの本だからこそこういうタイトルにしたのかもしれません。

あと、僕が認知的不協和という言葉を少し間違った使い方をしているように感じるかも知れませんが、合っています。会計学と経済学で同じ用語の用法が真逆なように、認知的不協和にはたくさんのニュアンスがふくまれているのです。間違っていると思った人は自身の常識を批判しておいてください。

ちなみに、ここまで読んでわかったと思いますが、これは書評ではありません。
どうせ誰も読まないと思って僕の主観で、本当に好き勝手感想書いてます。
内容のまとめとかが分かりやすく知りたかったらすぐに読むのやめたほうがいいかもです。
この後にもそういう役に立つものは一切ないので、そういうの期待して読んじゃってる人が居たら申し訳ないなととりあえず断っておきます。

ところで、LINEで著者に本が欲しいとねだったとき、私のプロフィール画像はナチスドイツの国旗、ハーケンクロイツだったのですが、本の中でヒトラーを例に洗脳の性質や恐ろしさが表されていました。著者が本を送ってくれたときの心中が気になるところです。

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ふざけて主張の強い画像をプロフィール画像にしたりすると、本をもらった時内容が説教に見えてしまってまっさらに見るのが難しくなるのでやめようね。
ということでヒトラーの話です。
全5章の中で僕が一番おもしろいと感じたのが第4章「洗脳とメディア」です。そこにヒトラーの話は出てきました。
ヒトラーが演説上手だったという話は有名ですが、演説上手な政治家はたくさんいます。
というか政治家というのは「自分は結構演説上手かも」と思って目指すものな感さえあります。
そんな状況でもヒトラーが一瞬にして政権をもぎ取ることができたのはなぜなのでしょうか。
その中でも群を抜いてうまかったのだ、と言えなくもないのですが、そこにはメディアを使った戦略が絡んでいたと著者は例に出しています。
というか、まあ文脈上例にだすことが全然おかしくないレベルに有名な話でもありますしね。
その頃ラジオが普及しはじめたころだったので、それをフル活用して支持を勝ち取っていったという話です。
その後すぐに民衆はそれに飽きて全然ラジオでヒトラーの演説効かなくなっちゃってヒトラーも演説途中で飽きてやめちゃうんですけど、それは政権をとったずっと後の話ですし一旦おいておきましょう。
とにかくメディアにはそれほどの洗能力があるということですね。
自分が発信するときにも使い方によっては大きな力をふるいうるし他人が自分に対して使ってくるときも悪い洗脳をされないように気をつけなければならない。
そして昔はラジオで政治家とかの上流層しかそれらを扱えなかったんだけれども、今では我々ゴミどもでも使うことが出来ると。
まあSNSがすごい云々の話はもうされつくしてるしどうでもいいです。
ここで言いたいのはここに「洗脳」というワードを使っている点です。
本書の中でも語られていますが、洗脳の定義上は確かにおかしくありません。
SNSで誰かが発信し、それを受け取り影響されて行動にうつす。
これは洗脳です。
しかし、我々が日常会話において使っている洗脳は全然意味が違う。
普通の本で「洗脳」という言葉が使われる際も、中国共産党の悪事とか、そういうときに使うのが洗脳です。
それをこういう具合に使ってくるのはやはりこのワードセンスこそが著者の発信力、洗能力と言えるのかもしれないという話にもつながってきそうですが、その話でもないです。
そこじゃなく、この特殊性がまた不可思議な共通を生み出していることに僕は注目したいんです。
1995年に「ぼくたちの洗脳社会」という本が出版されてます。
これはまだSNSとかそういうものが存在しない時代にコンピューターが一般家庭に普及し始めたタイミングを見計らって出版された本で、「このまま時代がすすめば、20年後くらいには洗脳力の強いやつが圧倒的に勝つ時代がくるよー、それはコンピューター通信によってメディアが民主化することで起こるよー」という内容を語っているんです。
奇しくも批判力と同様の特殊な洗脳というワードの使い方をしています。
語られている内容も同じです。
そしてこの「ぼくたちの洗脳社会」の著者は岡田斗司夫なのです。
さきほど岡田斗司夫は10年、20年スパンで未来を言い当てると言いましたが、これもその一つです。
やはりこの二人には異常な共通点を感じざるをえません。
考えてみればこの前キングコングの西野亮廣の本を読んだら、岡田斗司夫の本のコピペだらけでした。
そもそも岡田斗司夫が色々網羅してるって話なのかもしれません。
岡田斗司夫の洗能力がすごいっていうことなのかな?

ここまで一回も休まず書いているのですが、キーボードの打ちすぎで腱鞘炎になりかけてます。
これ以上手に負荷をあたえないためにここからはあんま文の校正とかせずにいくんで乱文多くなるかもです。
そもそもこの文が誰に読まれてるんだ問題については一旦忘れましょう。僕も強く感じてますし、おそらく結果誰にも読まれずにネット上の電子のゴミと単なる僕の自己満として終わるのは目に見えてるわけですが、ここまで読んでるキチガイが世界には一人や二人いるかもしれません。その人に向け、描いてみた一文でした。

数ヶ月ほど前、僕が著者のYouTubeLiveに電凸したことがありました。
著者が以前党首をつとめていた「しょぼい政党」の候補者募集生放送です。
議会でうたた寝しながら年収一千万だ!という考えひとつで勢いよく僕も名乗りを上げたわけですが、年齢の問題で立候補はかないませんでした。その時はまだ高校生でしたし、いまでも18歳なので全然立候補できる年齢ではありません。
もちろん、そんなことは電話する前からわかっていたのでそれは建前で、有名人とおしゃべりして気持ちよくなるための電話だったわけですが、年齢の問題で無理だね、という件のあとのおしゃべりで印象的だったことが本書にも詳細に書かれていたので紹介します。
電話中、1分位話したくらいで一区切りついてしまい、切る流れになっていってしまっていたので、とりあえず話をつなごうとしょぼい政党に対して要望を伝えてみました。
まあ、しょぼい政党に対してというよりは僕の思想やイデオロギーをぶちまけただけだとも言えますが、「法律を変えれるくらいおおきな政党になったら、相続税を100%にしてほしい」というものです。
なんだか知らない人から電話がかかってきてこんなことを言われたらと思うと気持ち悪くてたまらないわけですが、まあ見てる側が気持ち悪くても僕が気持ちよくなればそれでいいです。
でも、この思想自体そのものを否定できる人はそう居ないと思っています。偉い議員さんを見てみてください。大臣は全員二世、三世です。1代で地位を築き上げた人は一人もいません。
そういう人たちも僕たちの知らない努力を積み上げているのでしょう。そこは別に否定しません。
しかし、絶対に中流階級以下の親を持った子供よりは苦労していないことは明らかです。
鳩山元総理は中学生の頃、おじいちゃんから10億円のお小遣いをもらいました。
10億円です。10億円。手にしたことがある人でさえそこらにはいない。普通の人が一生働いても稼げない額です。
普通の中学生が宝くじで1億円当たったら働くかの議論で妄想を膨らます横で宝くじを買うことさえせず10億円の生前贈与を受ける同い年の少年がいる。
あ、なんだか臭ってきそうな文章なのでいっとくと共産主義を語りたいわけではありません。むしろ資本主義、実力主義をさらに加速させようという話です。
幼稚舎から一流の学校に入学し、一切勉強せずにエスカレーター式に一流大学へ進む人間がいる一方で、参考書も満足に買えない中必死に勉強し多額の借金を背負ってその人と同じ大学へ進む人間がいる。
僕は片親だったこともあり高校も行っていないですし、私怨といえばそうなのかもしれません。
でも、公平ではないことは明らかです。
血統主義に辟易とします。そもそも生んだ親がたった二人で一人の子供を育ててる事自体ホモサピエンスの生体的にも、歴史的にも異端なことは言うまでもありません。
なんだか話がそれてしまいましたが、そういう思想があったので上記のように「法律を変えれるくらいおおきな政党になったら、相続税を100%にしてほしい」と伝えたわけです。
そうしたら、「極端な政策は極端な問題を引き起こすので、そういったことはしない。もしやるとしても徐々にやる、小さくやる」という旨の答えがかえってきました。
その時は全然納得いかなかったんですが、というか僕は政党の人間でもなんでもないので納得がいくとかいかないとか言う話じゃ全然ないんですが、その理論の意味があまりわかってなかったという意味ですね。
ですが、批判力を読んで、なんとなく意味が理解できてスカッとしたし、いろいろなことをする際役に立ちそうな思想でもありました。引用します。

革命より改革のほうが望ましいのです。すべてを一旦無しにしてゼロから作り出そうとするのが革命です。これは体力も使うし、血も流れます。そもそも(人間は)上手く制度を作れないのだから、無駄な血は流さないように少しずつ軌道修正しながら、いい方向に持っていくしかありません。あるいは、悪い方向に行くのを少しでも止める努力が必要です。それの繰り返しでしか、社会や物事を改善することは出来ません。

これを鑑みれば、僕が電話で語った時も「そんなことできるわけねえだろクソガキが」と思っていたことでしょうが、そんなときも優しく伝えてくれました。
心理学用語でいうイエスバット法というものを使ってくれました。
営業術みたいな本にも結構乗ってるやつなので知ってる人も多いかも知れませんが、相手の意見に反論する前に一旦肯定したうえで「でもね・・・」と切り出す方法です。
これをされるだけで全然受け取った側の感覚が変わってきますからね。さすがに人心掌握術がすごい。気持ちはわかる、親の資産力関係なしに勝負しようって話でしょ?でもね・・・と丁寧に説明してくれました。
っていうのは全然関係ないんですけど、この理論はけっこうあらゆるものに通ずる事があると思いませんか?
例えば、人間にはそもそもホメオスタシスというものがあり、今までと同じことをしたがる傾向にあります。
そういった身体の仕組みは生き残りにおいて必要だったから残ったわけです。
ホメオスタシス自体は体温は同じくらいにとどめておきたいとかそういったものですが。経済同様人体においても下部構造が上部構造を規定するのでそういったものが回り回って、毎朝7時に起きてパンにバターを塗ってトースターに入れて3分後に取り出し食べてトイレに入り8時に家を出て8:10分に電車に乗り・・・と全く同じことをし続けることを本能的に好むんです。
もし起きる時間を6時に変えでもしたら起きた時の気温の差で体温が変わってしまうとか、そういったことが関係しているわけですね。
これを「人生を変えたい」とかで急に仕事をやめて海外に行って起業して・・・と急に一変させることにはとんでもない抵抗が生まれるということです。
まあ、僕的にはストレスがあればすぐにかき消したい側なので人生を変えたいとか思ったらすぐに実行すると思いますが、そこには「なんか問題起こっても最大これくらいだから大丈夫」という打算的な損得勘定あってのものだったりするわけです。
不確定要素がとんでもなく大きいこと(急にカンボジアに住むとか)はしません。
急にポルポトが大統領になって僕の背が高いことを理由にぶっ殺されるかも知れません。
ここには明らかに「革命より改革のほうがいい」という生体的な行動指針が働いていると言えるのだと思います。
全くやったことないような大胆な人生の変更は改革ではなく革命で、それによって起きる不確定要素が大きすぎる。
誰しも無意識に本能的に「革命より改革のほうがいい」ということは理解しているんです。でも、それがちょっと複雑なことになるとわからなくなってしまう。
国家とか政治とか、大きくて兼ねてるものが多いものになると、その感覚が働かなくなってしまってグレートリセットの思考に陥ってしまう。
そこまで複雑なものでなくても、僕は小学生の頃からプログラミングが好きでいろいろなソフトを作ったりしましたが、その中でも考えてわからないエラーコードがあったらその部分を全部消して書き直したりしていたこともありました。
でも何でエラーが起こっているのかを無理にでも見つけることによって書き直すよりも圧倒的に少ない労力で同じことを成す事ができたり、エラーの修正能力が上がったりということが起こるわけですね。
なので、僕が総理大臣になったら無理ないようにだんだんと相続税を100%にします。
あぁ、お金持ちに支持されなくなっちゃう。
いや、まあ法人税とか所得税とかはとんでもなく低くあるべきだとも思ってるんでそれを実行してプラマイゼロかな

そういえばこの電話をしたときに著者が「誰かエデン名古屋でおごれる人いる?」って呼びかけてくれて、その生放送を見ていた聖人の方に僕がおごってもらったんですよね。ありがてえ


僕もこの本を読んだからには批判力を鍛えなければなりません。批判力を鍛えるには、物事を両面から見る事が必須です。ということでさっき評価を高くつけたこの本の挙証方法について、逆の面から見てみたいと思います。

そういえば、さっきエスカレーター式で進学したボンボンは勉強してないみたいなこと言ったけどその方法で慶応行ったNERが言ってた慶応の中等部とか高校とかの実情の受け売りだから許してね
僕が言ったんじゃなくて事実を知ってるNERが言ってたから間違ってたらNERさんが悪い

と、いう言い訳をしてみたんですが、これは批判力への批判の前座です。
批判力の内容で挙げられている主張の半分以上がこの方法で挙証しているんです。
簡単に言えば、「こういう頭のいい哲学者がこう言ってる。だからこの理屈が正しい」というようなことです。
わかりづらいかな。引用しますね。

ハイエクは、「社会というのは勝手にできるものであって、社会正義とかを人間が作ろうということ自体が語義矛盾である」といった意味のことを言っています。さらに「秩序とは、外から社会に押し付けられる圧力ではなく、内部から生じる均衡である」というオルテガの言葉を引用しています。
ここからわかるのは、つまり、人間が社会を作れるという発想そのものがそもそも間違いなんだということです。人間は社会や制度を上手に作ることが出来ないのです。
だから、何かを変えるにしても革命より改革のほうが望ましいのです。

この方法があらゆる部分で多用されてるんですよね。
これにはある大きな問題があります。
それがなんなのかについて説明しましょう。
世の中の説得の方法には3種類あります。
①ロゴス(論理):論理的に証明することで説得する方法
②パトス(感情):聞き手の感情を誘導することで説得する方法
③エートス(性格):話し手の性格や信頼度により説得する方法
の3つです。
このうち、批判力の構成は3つ目に大きく偏っているわけですね。
最近の著名な自己啓発作家で分けるなら、ロゴスが西村博之でパトスがホリエモンでエートスが著者といったところでしょうか。
この3つの中で圧倒的に役に立つのは言わずもがなロゴス(論理)です。
もちろん、ロゴス(論理)にも言葉遊びの要領でごまかして間違ったことを提唱することができてしまうデメリットとかもなくはないんですけど、これは正しいものか正しくないかを説得される側がきちんと判断できる点を考えてもロゴスが一番いいことはまあ言うまでもないんでそんなに説明しません。
パトス(感情)の方法での説得は、娯楽として最高って感じですね。自己啓発本に用いるなら、文字通り「自己啓発」としての役割は十分満たせるわけです。
最近のホリエモン本を編集してる箕輪厚介氏は「ホリエモンの本はジェットコースター」と述べていたりしますが、まあそれは暗に「これ読めばテンション上がるけど別に意味ないよ」と言ってしまっているということなわけですね。
作家は、読者がロゴスでの説明がある主張に一番意味があることをある程度理解してしまっているから実質的に他の2つで説明していたとしても、できるだけロゴスっぽさを演出します。
その演出を凝りまくった結果がホリエモンの本だと言える部分も多いでしょう。
なんなら、ロゴス寄りのパトスかパトスよりのロゴスにさえなっています。
さて。そろそろ何が言いたいかわかってきましたかね?
エートスが主に使われている批判力では、「それってただの感想じゃね?」ってなっちゃう部分が多すぎるということです(この読書感想文と一緒です)。
「俺はりんごが美味しいと思う。だからりんごを食べる人生のほうがいい。みんなりんごを食べるべきだ」
こんな感じに見えなくもないってことですね。これはわかりやすくするために極端にしてますけど、実質こんな感じです。
さっきの引用からもわかるように、引用は有名な人の有名な本から結論だけ引っ張ってきていて、その結論に何故達するのかまではわかりません。当たり前ですけど。それが一文引用で説明できちゃったら本はいらないですからね。
なので、その本がロゴスで説明されてるとかもこの件においては関係ないです。
今のりんごの話で言うなら、「みんなりんごを食べるべきだ」だけが情報として来るわけです。
なぜその主張に至っているかの可能性をいくつか想像することはできても、そこどまりです。
批判力での全てがエートスで説明されてるわけではなく、ちゃんと理路整然と説明された主張もあるとはいえ、その理屈も最初の基点がエートスで説明されているわけですよね。
理屈なしの上の理屈だから結局同じになっちゃうわけです。
理屈なしの主張だから、ただの感想に見えてしまう。ただの感想に見えてしまうと人生の教訓としての意を成さなくなってしまうということです。
引用の例で言えば、有名な本から「社会は人間が意図的に作るもの」というところを探してきてそこから話を始めれば全く逆の結論にも当たり前にたどり着くわけです。
そんなふうに書いてある本もたくさんあるでしょう。
なので、説得力という意味ではあまり期待できないのがこの本です。
結構前に述べた「この人ならどんなこと言ってても信じられる」という価値観の悪い面がここですね。
以上、批判力を鍛えるための批判力への批判でした。

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さっきの引用、引用の引用の引用になってておもしろい。マトリョーシカ

ところで、メンタリストDaiGoの動画・本は一見エートスに見えがちなロゴスという特殊な形をまとっています。みんなロゴスに寄せようとするのに不思議ですよね。
「これは○○大学の研究で・・・」というのが DaiGoの代名詞になっているのは周知の事実ですね。これによって「アメリカのすげえ大学が権威のある[論文]で言ってるんだから間違いねえよ」というふうなニュアンスを醸し出しているわけですが、話の幹には、人をたくさん用意して、それらにこういうことをすると、こういう結果が出た。だからこう言える、という圧倒的論理が用いられています。
では、なぜ説得法としてロゴスより劣るエートスの雰囲気を全面に出しているのか。これには、YouTubeの主なユーザー層がおそらく関係しているのでしょう。
批判力でも説明されていますが、バカに複雑なことは理解できません。論理はたいてい複雑です。YouTubeのおすすめを参考にしていて、「こうすれば人生成功する!」なんていうタイトルの動画をクリックしがちな人間なんていうのはほとんどが馬鹿なわけです。
そいつらに論理は理解できないし、そもそも理解させる必要もなく、バカだから「○○大学で・・・」と言えば信じるからそう説得するほうが効率がよいわけですね。
そのため、僕が昔ニコニコに入り浸っていた頃にDaiGoの生放送を見ていたときは、ちゃんとロゴスの形をしたロゴスでした。
こういったDaiGoのターゲット層の変遷によって同じく生まれたのが宿題事件だったりするんじゃないかなとも思ってます。
論文の原文を読めばわかると思うんですけど、論文で言ってること自体はDaiGoの動画と一緒なんですよね。
ただ、主張のニュアンスが違うという話で。
PV数至上主義になりがちなネット産業はタイトルで如何に目を引くかでコンテンツ力が決まってくるわけで、ターゲットの層が広がってしまえば広がってしまうほどその質は低質になります。極端なことやカウンター的なことを言ったほうがいろんな人に刺さるので。
そのせいで「宿題はこうやると意味ないよね。つまりそこから考えると日本の宿題ってゴミだよね」から「宿題ってゴミだよね」への変換が生まれたわけですよね。

ここからちょっとつなげて別の話をすると、ここ最近自己啓発界で流行りはじめてるのがカウンターのカウンターです。
「Aだと世間的に言われてるが合理的に考えればBだ」という主張を自己啓発作家が発信し、それが界隈で広がる→「Bと言ってるやつがいるが、本当はAだ」という主張を他の作家が言う
という流れです。
これ、この理論だけ聞くと第一次カウンターと同じで刺さりそうなんですけど、残念ながら全然刺さりません。
常識へカウンターするからこそパンチが生まれてるこの構図から、常識へのカウンターはそもそも常識になりえないからです。自己啓発本の発信では特に。さらに言えば自己啓発界隈以外ではまったくもって普及してない第一次カウンターを批判して常識と同じ結論を出したところで、世間のほとんどの人が言う同じことを言ってるわけなので、なんもおもんないわけです。
批判力の中でも語られていますが、その人でなければできないような批判がもっとも力を発揮します。その他大勢と同じこと言っててもその他じゃない特定の人から見てもその他大勢から見てもなんも意味ないんです。
その点では、この本の中ではホリエモンの第一次カウンターへのカウンターなどがふんだんに含まれてて、「いやこれビジネス本界隈ではやってる主張へのカウンターではあるけどただの常識語ってるだけになってるやん」っていうのもたくさんあるので、ここも弱点だと思います。
世間一般の人が言う当たり前のことを本で書いてるせいで、「その人でなければできないような批判」にはまったくなってないので。本の中で矛盾が生じちゃってるわけです。
ここまでの一連の流れで行けば、「常識だから面白くもないしほぼ根拠もないし矛盾も生じてる」というのが生まれてしまってるのが現状ですね。
まあ、結局最初の方に書いた「この人だから信用するんだ理論」によってこれらの問題は挽回されるわけですけど、両面から見るとそうなる、ということです。
どうですか、かなり批判力が鍛えられてきたような気がします。

ちなみにあんまり本と関係ないんで今の一連の流れに含まなかったんですが、学問はエートス・パトス・ロゴスの説得法から2つ、3つと複数用いて権威を維持しているという話を書きたくなったので箸休め的に書きます。
論文じゃなくて学問です。ここの棲み分けめっちゃ重要なんで。
政治経済学とかだとわかりやすいんじゃないですかね。
最初が哲学者が言ってた正義とはなにかの話から始まるんですよ。
ロックっていうおっさんが言ってたのがこんな感じ。ルソーって人が言ってたのがこんな感じ、と。
そこから、歴史を掘ってさっきの哲学者の正義観がアメリカができた時とかフランスの制度とかに影響したよーみたいな話をするわけです。
エートスですね。これで正義っていうふわふわしたものをちょっとだけ具体化するとこから始まるわけです。
そこから、それを一旦端において、今の制度を説明に入ります。
「この制度があって、それはこういう理由で成り立ってる。こうすることで皆が幸せになりやすい」という要領です。ロゴスですね。
この合間合間に「ここは前説明したこの哲学者の論とは違うけどこっちの哲学者の考えとはちょっとだけ一致してたりするね」と最初の話と結びつけることで「正義」のさらなる具体化と結びつけによる記憶定着率の向上が行われるわけですね。
そしてこの話は全部「俺たち人類は全員で力を合わせてめちゃくちゃ幸せになってやるぞおおおお」というとんでもなく強い誰しも持つ欲望から学習動機を生んでるわけですね。
パトスです。
パトスに関しては含まれてる学問と含まれてない学問の差が激しいですが、古文漢文などは物語の面白さで持たしてる部分がパトスだったりと意外と面白くなくて意味がない学問とかでも含まれていたり、虚数の話とか、ほんとにただ数字動かすことが好きな変態だけしかハマらないなんも感情を動かさないものとかもあったりしてまちまちですが、ロゴス・エートスはだいたい含まれてます。
っていうめっちゃ関係ない話でした。

あと、最初の方でホリエモンの「有り金は全部使え」にそんなもんポジショントークだろと述べていたのに最後のほうでお金は貯金せずに使ったほうが良いって書いてありました。
ここもよくわからんです。ポジショントークでも正しければいんじゃね?

ファクトフルネスのデータ収集を個人でやってるとこがめっちゃ面白かったです。

著者がツイッターでアンケートして実態と真逆のデータはじき出すっていう2コママンガなんですけどファクトフルネスのTED見た時と同じ面白さ感じました。
インターネットすげーって感じです。
ファクトフルネスのTEDはその時点ですでにファクトフルネスの著者が死んじゃってたんで代打で人がやってたんですけど本人のを見たら更に面白いものが見れたんだろうなーと寂しく思っていましたが、代打の代打である批判力の著者が同じことしてこれだけ面白いってことはどれだけ代打をつないでも薄まったりしなかったりするんですかね。元が濃すぎるというのもあるのかもしれません。
批判力の中ではこの件と結びつけて「高齢者からは免許を取り上げろ」というような人間を批判しています。そうなったら田舎に住む高齢者は買い物にもいけないし、有事の際病院へ行くことも出来なくて、人が死にかねない(この場合は救急車があるけど)と。
この上のツイート見ればわかりますけど横ばいなんで減ってるわけではないんですよ。
でも少子高齢化とかのもろもろを考慮したら増えてないほうがおかしいわけなんでやっぱりこの主張が正しく感じたんですが、僕はさらに自分の脳のファクトフルネスを働かせました。
これは高齢者の事故が増えているか減っているかで論じられていますが、それは明らかに印象操作です。
「高齢者の事故数の推移」ではなく「全交通事故における高齢者の割合」を挙げるべきです。
例えば極端に言えば事故を起こしているのが100%高齢者だったらその増減なんてどうでもよく免許を取り上げなければならないわけです。
ということでこの主張は明らかに間違っています。
とはいえ、このアンケートの結果とデータの乖離はめちゃくちゃ面白かったしそこを見れば正しいことでもあるわけです。
マスコミはこの「高齢者の事故増えてんじゃね?」というイメージ片手にこの本の印象操作よりもあくどい印象操作によって立法司法行政を操りにいくわけですから、芯の部分は正しいわけですね。
芯の部分というのは「こういう間違った印象を偏向報道によって生み出してそれによって制度を変えていってしまうのは危険だ」という部分です。ここは正しくて、とても参考になる部分です。
何事も部分部分ではなく全体を見て判断することが必要です。単語ではなく文脈を、戦術ではなく戦略を。
あれ、N国党の立花たかしもそんなこと言ってたっけな。

どうでもいいんですけど本の中の「自分への批判を拒んだりするんじゃねえぞ」的な話のとこでKAZUYAチャンネルの話が出てきてなんとなく久しく見てなかったKAZUYAチャンネルをまためっちゃ見るようになりました。
小学生の頃見てたのでその頃に戻った気分で懐かしい感じです。
どうでもいいんですけど。
よく考えると小学生にKAZUYAの話が理解できたとは思えねえな。何が面白かったんだろ。
多分真面目な話の合間合間に淫夢ネタとかが入るのに笑ってたんだろうな。
そう考えると政治批判を政治に興味ない人に聞かせる工夫を最大限してる点でKAZUYAchannelはとんでもない批判力の持ち主だということですよね。
小学生に政治の批判動画見させるって結構すごい。
批判力を鍛えたければKAZUYAチャンネルを目指そう。
KAZUYAチャンネルなのかKAZUYAchannnelなのかわからんから混同させておきました。

なんだかあらすじをなぞってそれに感想言う小学生の感想文になってきて癪なんで僕の構想とかを書いてみます。
さっきも書きましたが、僕が一番面白いと思ったのは「洗脳と行動」の章です。
具体的なノウハウとかがいっぱいちりばめられていて参考になったっていうのが理由なんですけど、せっかく参考になったんだからこれを機に、というかこれをもとになにか行動を起こしてみようと思いました。
たくさんの人をたくさん洗脳して有名になりたいっていうさとり世代特有の生まれた瞬間から満たされきってて承認欲求くらいしかない人間の末路的な行動動機からくるもんなんでしょうね。有名になりたい。
といっても僕「文系大学生は超暇だ」って聞いて大学入ったんですけど結構課題とかで忙しいし心理学だと文系なのにゼミあって更に忙しいっていうここで大学再開してサークル入ったらもう暇ねえじゃん状態で中学生の時に作ったペーパーカンパニーで受けてる仕事もちょこちょこやんなきゃいけないしでそんなにリソース割くこともできなさそうなんですけど、まあ構想止まりです。
工夫すれば時間なんていくらでも作れるだろうし。睡眠は絶対削らんけど。
で、何をしたいかというと、アイドルになりたいんですよね。
普通アイドルって子供のときからかわいいーって言われて目指してなるものなわけで、二十歳超えたらもう引退してるか引退近いかっていうのが常なんですけど、僕は既に18歳だしブスだしダンスもしたことないわけです。
この逆境は燃えるでしょ。
ミスチルの終わりなき旅を聞けばわかるように、高ければ高い壁のほうが登った時気持ちいいんです。
この本で学んだ洗脳法をフルに使えば立派なインターネットアイドルになれる気がするんですよ。
ブスはネタにすればいい。整形すればいい。
年齢はSMAPを見れば一目瞭然。おっさんでもアイドルになれるのです。いや、ジャニーズJr.時代からアイドルかあの人達は。
ということで僕はもうちょいしたらMステでマイク握ってると思います。
とりあえず中学生の頃にDTMで作った曲をデビューシングルにすることにしました。

この本は見た目分厚くて難しそうではあるかもしれないんですけど文字大きくて文字数自体少ないのでサクッとすぐ読めて、文章もこの文よりも簡単な言葉で書かれてて専門用語とか難しい言葉が飛び交ってるわけでもないのでけっこうおすすめです。
少しでも著者に興味がある人は必読だと思います。
他の本よりも専門性、というかテーマに固執した具合が小さくて森羅万象に役立つ部分が多かったりもするので著者に興味があるというだけで誰でもめっちゃ面白くなります。
起業に興味ない人はしょぼい起業読まないし結婚する気がない人はしょぼ婚読まないわけですけどこの本は案外誰にでも当てはまるわけです。
なんだか締めの言葉臭がしてきましたが、これ、締めの言葉です。
タイトルに惹かれてこんなとこまでクソみたいな文を読み続けたキチガイのあなた、ごめんなさい。
面白い本読み終わった後のテンションの高さでこんなタイトルをつけて一気に書き進めてきましたがもう限界です。原稿用紙100枚分というと400字詰めで100枚なので4万字ということなのですが、現段階で2万字くらい。
ようするにやっと折り返し地点という事実に、心が折れました。
っていうか本よりも文字数書いてるんじゃね?ってきすらしてきました。
書くことがなくなったかっていうとそういうわけじゃなくてまだ書きたいことあったりするんですけど、時間と気力が吸い取られててかなりヤバいです。
なによりこれに意味がないことがヤバいです。
ぼくADHDなとこがあってただでさえ一日に使える集中力めっちゃ少ないんでこれにリソース割いてると人生こわれちゃう。
許して。まじで許して。2万字でもすごいじゃん。原稿用紙50枚分だよ?単位もらえるわけでもないのにそんなん書ける?お金もらえるわけでもないのにそんなん書ける?
っていうか文字数で言えば100枚分は4万字だけど改行とかあるしこれでもすでにもしかしたら100枚分到達してるかもしれないし。
僕の構文の癖的に改行結構多いし。
なんだかこうして言い訳していたら自分が全然悪くないような気がしてきました。
ってかそもそも悪くないだろ。何が悪いんじゃ。この文無料だぞ。そもそもこのタイトルにひかれてきたひともここまで読んでねえよ。ってかタイトルにひかれた人なんかいねえよなげえだけやん自分の人生の一部こんな無意味なことに使うわけねえじゃんそれくらいだったら本読むわ。
文句ありゃツイッターまで来いや

https://twitter.com/kaito_kun1234


よし。


ばいばい。


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