罪と罰日記 5月23日 貧乏では昔のロシアにかなわない

フュードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーの「罪と罰」に続いて、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」を少しずつ読む度に、少しずつ感想を書いていく日記(2008年に書いたものです)。


 いや、まだ60ページまでしか進んでないんですが。

 いまのところ、伏線はラスコーリニコフが実行しようとしている「あのこと」「あれ」が何かってことで。それ以外は、ストーリーらしきストーリーもまだまだ全然見えませんともさ。

 もしかしたら、この後、関係してくるのかもしれないけれど、現時点においてはなんでこんなエピソードが突然挿入されるのかわかんない状態です。

 例えば、ラスコーリニコフの目の前で、急に幼気な少女がぶっ倒れるんです。
 どうやら何者かにだまされて酒を飲まされ弄ばれたに違いなく、さらに自分もおこぼれにあずかろうと後を付ける男がいる。
 で、ラスコーリニコフは、その男から守ろうとして少女の近くにいると警官に疑われる。
 今で言う職務質問を受けて、その理由を説明する。
 
 話の流れからして唐突だし、意外性も、今後への期待も、サスペンスも何も産まない。
 ただ、貧しい人間の辛さや苦しさを表現しているようで。

 たかが60ページまで読んで思うのは、懐かしい文学くささです。
 貧乏で、報われず、しかし実は能力を持つ者が社会や権力に抱く怒りと不満。
 これさえ文章にしていれば文学っぽい気がする。ってことありませんか?

 黒パンと水だけで生き、娯楽なんてなく、借金で酒を飲む当時のロシアの貧乏人にはかなわない。寒過ぎてホームレスなんてできないし。
 日本なら、いまやフリーターやネットカフェ難民ですら食べ放題のソフトクリームやコーヒーは飲み食いできてパソコンと漫画で遊べる時代。
 社会に怒りをぶつけるには弱い気がする。贅沢にすら思える。
 ドストエフスキー的な文学は成立しづらいのかもしれませんね。

 でも、今だからこその社会への怒りや不満をぶつける文学があってもいいような気がする。
 それとも、既にあるのでしょうか 。

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