目を合わせないヤクザほど恐いものはない 日本アルバイト紀行(1)


旅先:千葉市栄町のスナック街
交通手段:徒歩と自動車
時給:850円
職種:女性下着のびら配り

 路上で配られるビラは、基本的にどんなものでも受け取るようにしている(絵画のキャッチセールスだけは例外。あのしつこさはひどい)。それというのも、千葉駅前で聴いたあの「ビシャッ!」という音が耳にこびりついて離れないからだ。

 大学の3年だったと思うが、ビラ配りのアルバイトを1回だけやった。大学の学生課に貼られたアルバイト募集の案内を見て、見つけた仕事だった。

 大学には学生課という部署がある。学費の納入や保険の手続きなど、事務的なことはすべてここで済ませる。学生にとって、学費納入と並んで重要なのはアルバイトの募集コーナーだ。ここには、家庭教師や塾講師、道路工事の警備員など、さまざまなアルバイト募集のビラが貼られている。手数料など無料だから、企業にとってはおいしい場所だったはずだ。

 時給3000円などの家庭教師は応募者が多く、くじ引きやじゃんけんなどで勝ち抜いた人があり着いた。逆に並ぶこともなく、すぐにありつける仕事は一癖も二癖もある仕事だった(例えば時給3500円、社会人相手の家庭教師の仕事はすぐにありつけた)。

 僕はここで、女性下着のビラ配りの仕事を得たことがある。850円という時給も悪くないし、1回だけという気楽さにつられたといっていい。女性下着だろうが生理用品だろうがかまわないじゃないか。何を嫌がる理由があろうか。そう思って飛びついた。

 現地集合だった。つまり女性下着店である。千葉市中央部を貫く川沿いにある、小さな店だった。そこからビラを持って、僕ともう1人(誰だか忘れた)は車に乗せられ、まず千葉駅前まで連れて行かれた。車中、運転手はさかんに僕らに話しかけた。

 「君たちスキーはやらないの?やるんだったらツアー紹介するよ」

 女性下着のアルバイトでスキーツアーの勧誘というのも妙だと思って

 「旅行関係のお仕事もされてるんですか?」

 と尋ねた。すると

 「いや、僕らは旅行代理店の社員なんだよ」

 と言う。

 「社長の奥さんが道楽で店を開くっていうんでね、手伝いなんだよ」

 そんな妙なこともあるのかと当時納得はしたが、今思うと、奥さんじゃなくて愛人だったんじゃないかと思わないでもない。

 ともあれ僕らは何百枚というノルマを与えられ、まずJR千葉駅前に立った。冬である。当然寒い。早く終わらせて帰ろうと、びら配りにとりかかった。

 旅行代理店の社員が教えてくれたビラ配りのコツは次の2つだった。まず「お願いします」と明るく声をかけること。向かって来る人のの手の辺りに狙いを定めること。こうすれば、ビラが手に当たって取ってくれやすくなる――。

 そう言って立ち去った社員の後ろ姿を見るやいなや、僕らはすぐに「お願いします!」と言って、歩く人の手をめがけてビラを差し出した。ところが、想像以上に人はビラを手にしてくれない。
 受け取って何の損があるのか。寒空の下働く勤労青年を早く仕事から解放してくれるべく紙切れ1枚手にしてくれてもいいじゃないか。あなたがたはそんなにも急ぐ理由があるのか。ふと立ち止まる余裕さえないとでも言うのか――と心の中の叫んでみても、そこにはただ風が吹いているだけ。声なき声は誰にも届きはしない。

 加えて女性下着である。色は赤や黒や紫。ガードルやスキャンティなど、あまりにセクシーな下着を身に付けた白人女性の写真は、千葉駅前ではあまりに卑猥であった。僕の手から受け取ったビラを、5~6m先で地面に叩き付ける人もいた。

 「ビシャッ」というあの冷たい音を、僕は今も忘れない。僕はあなたをからかうためにこんなことをしてるんじゃない。楽しくてやってるんじゃない。仕事なのだ。生きる糧、お金を稼ぐための勤労なのだ。それを何も、叩き付けなくったっていいじゃないか。ライチャスブラザースじゃないが、泣きたい気持ちになった。悪いことをしているわけでもないのに、情けなさが胸の中を渦巻いた。

 どこで油を売っていたのか、突然現れた旅行代理店社員は、「あんまり減ってないねえ」なんて無責任かつ(無意識ながら)残酷な一言を放って、次なるビラ配付場所へと僕らを案内した。

 それは栄町であった。スケールが格段に小さい歌舞伎町とでも思ってもらいたい。とはいえ千葉市最大の歓楽街である。

 「女性下着の主なお客さんは水商売の女性なんだよ。だからバーやスナックを回って、ビラを置いてきてね」

 みたいなことを言われて、僕らは夜の歓楽街の扉を叩いて回った。

 フィッシャーマンズセーターにニットの白い帽子をかぶった丸顔童顔の学生は、欲望渦巻く歓楽街にあってあまりに不釣り合いだったはずだ。扉を開けると、たいてい度胆を抜かれたような顔をしたホステスさんが「はいはい」といって20~30枚のビラを受け取ってくれた。いや、呆気に取られて思わず手にしてしまったという方が適切かも知れない。

 数件回って、エレベーターに乗った時、扉が閉まる直前にスーツの男が乗り込んだ。彼は僕の顔を見なかった。エレベーターの壁を見ながら、ぼそりとこうつぶやいた。

 「店開けてる最中に誰かがセールスに来ると、その店はつぶれるっちゅうジンクスがあるんじゃ。お兄ちゃん、悪いこと言わんから、もう2度とそんなことせん方がええぞ」

 いい加減な大阪便か広島便が混じってたはずはないが、まあ、ともあれそんな風に聞こえた。はい、とうなずかない人がいようか。

 結局全部配ることはできなかった(当然である)。旅行代理店の社員は、しかし何も文句は言わず、ノルマを果たさなかったにもかかわらず時給通りの賃金を路上で封筒に入れてくれた。時間にしてわずか4時間程度の出来事だったが、僕にとってはエレベーターで凄まれ、渡したビラを叩き付けられるという忘れ難い時となった。

 そんなわけで、僕は路上で配られるビラは必ず受け取っている。

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