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【#推薦図書】支配的な文化と闘うーー長嶋由紀子『フランス都市文化政策の展開―市民と地域の文化による発展』

大学院の講義で作った資料です。フランスでは市民が文化を平等に受け取る権利、文化に格差をつけずに支援することを主張し続けた歴史があります。政府や文化、芸術に関わる人々を説得するために、「文化とはどういうもので、文化に対してどういう姿勢で向き合うか?」ということを徹底的に再言語化した研究会もありました。そのことについて書かれている、タイトルにある本の「第二章 一九七〇年代革新自治体の実践と理論」を要約しました。タイトルの煽りは木勢がつけました(文献自体に元々ついていたキャッチャーコピーや帯の文句ではありません)。
目次
A、六〇から七〇年代のフランス都市文化政策の大枠(第一節から第三節)
B、グルノーブル文化の家の議論
C、文化政策研究会ラトリエの理論

A、六〇から七〇年代のフランス都市文化政策の大枠(第一節から第三節)


 一九六〇年代半ばに「文化的発展」という、「多種多様な文化的機会を社会に遍在させて、多様な個人の人格の発展に働きかける考え方」(長嶋:2018)が提案された。この理念は、六八年に起こった「五月革命」(注:記事末尾に説明あり)を経て、七〇年代の社会変容の中で変化し、八一年以降の文化政策にも繋がっていった。
 文化的発展は五月革命で自覚された「閉ざされた社会」(長嶋:2018)を打開する指針とされた。「『人々の中にある文化を生れさせる』働きかけとしての『文化行動』が強調され」(長嶋:2018)、文化的享受の格差や産業化社会における生活様式の変化といった課題に対応するために、「狭い意味での芸術概念を超えて、生活の質や都市環境と結び付けて文化を広く捉えなおすことを求めた」(長嶋:2018)という。フランス政府の文化政策の方針は、「人格主義的な文化的発展の構想」を見ることができると長嶋は述べる。七〇年代前半には文化政策の組織横断的な活動を可能にするための、「文化憲章」といった制度も作られた。
 だが、文化省を始めとした中央政府が文化的発展の実現を最優先したのは七三年以前のデュアメル文化大臣の時だけで、文化的発展の政策は本格的に根付かなかった。それどころか、七四年に就任したポピンドゥー大統領は文化政策に批判的で、文化省が文化庁に降格され、文化予算も低くなった。さらに文化憲章を創設したギィ文化閣外大臣は、地方都市の公共文化機関にあった社会的責務を軽減して、劇団助成予算の拡大と演劇教育改革に力点を置いた舞台芸術振興政策を優先し、芸術的自由を重視する姿勢を示した。その上、八一年のミッテラン政権の文化大臣ジャック・ラングは、アーティスト重視の方針を明らかにし、芸術創造が明確に重点化された。
 一方で、地方都市の公共劇場は五月革命を契機に文化行動の再概念化に取り組んでゆく。五月革命が起こった当時の文化大臣であるマルロー氏は、「『人類の、そしてまずフランスの最も重要な作品』を最大多数のフランス人の手に届けるために、文化の民主化を追求した」(長嶋:2018)。この従来の文化政策への批判と、五月革命で学生や労働者が異議申し立てをした文化概念の再定義として、哲学者フランシス・ジャンソンらの連名により、「ヴィルユバンヌ宣言」が書かれた。

「宣言は、それまでの公共劇場は、同時代を生きる市民のなかのごく一部の恵まれた人々のみに選択と相続が許される文化を扱ってきた、という現状確認から始まっている。そしてこの『袋小路』から文化を救うために、公共劇場は根本から方針を変更し、『非観客』に働きかける文化行動に向かう、と明言した。すなわちこの宣言は、偉大な芸術に最大多数の人々を接近させようとする『文化の民主化』政策と、従来型の文化行動に、訣別を告げるものだった。同宣言は、マルローが『文化の家』に構想を託し、民衆演劇運動もまた重視してきた、古典的かつ普遍的芸術を核とする文化をより奥の人に届ける公共劇場の営為をみずから批判し、文化を民主化や普及の対象とみなす考え方そのものを否定したのである。宣言は、日頃から劇場に親しんでいる観客とも、従来の文化行動が開拓を図ってきた潜在的な観客とも異なる、『非観客』に向かう公共劇場の新しい姿勢を明らかにした。(原文段落替え)ここで『文化行動』は、人々を『政治化』する行動として再概念化されている。(中略)市民都市行動するすべを持たなかった人々や公共から遠い周縁部に置かれていた人々が、政治的主体となることを助けて、都市の実質的な構成員となるよう促す試みだった。」(長嶋:2018)。

 しかし、宣言に署名したアーティスト達は「非観客」を政治主体にするために芸術を利用することを支持しておらず、芸術創造環境の充実が目的だった。
 長嶋は第二節三項で、この『非観客』の概念をさらに検討している。ヴィルユバンヌ宣言の起草者ジャンソンは、「耕された文化」「耕す文化」という表現を対置させて説明している。

「『耕された文化』は、既に存在する文化的所産の総体であり、芸術作品や思想的な著作に相当する。しかし、人はこれを平等に分かち合ってはいない。『耕す文化』は、絶え間なく生まれる生きた文化であり、人のあいだに紡がれる関係性が、タペストリーのように織り上げられていく動きを指す。前者は伝達や相続の対象となるが、後者は日々生み出されてはすぐに超えられる人間の営みそのものである。この定義によれば、前者の文化に無縁な『非観客』も、後者の文化の紛れなき担い手である。」、「ジャンソンは、文化行動を、『同時代人が、つまりわれわれ自身が、世界を現実に自分のものとし、歴史を人間の歴史にすることを可能にするための努力』だと定義している。『非観客』とは、未だ『耕す文化』の主体にはなっていないが、歴史を作る能動的な主体となる可能性をもつ人々である。」(長嶋:2018)。 

 ジャンソンの議論を理解する手引きとして長嶋は第四項にフランス社会の構造変化と一九六八年前後の理論的潮流をまとめているので参照されたい(pp107-108)。
 このように、「文化行動か芸術創造か」という議論は何度もされ、白熱した。そして、新しい文化行動の概念を踏まえた都市文化政策が、グルノーブル市で展開されていったのである。文化事業と都市計画を連動させ、人々がメディアや場所として都市空間を使用し、創作に参加することなどを通して「使用価値の高い」人間主義的な都市を計画した。また市政府が調停役として、周縁部の立場にある社会集団、文化的少数者に働きかけた事業を行った。具体的には第三節と第六節を参照されたい(pp109-115、pp142-146)。

B、グルノーブル文化の家の議論


 グルノーブル文化の家は、一九六八年二月に開館して間もなく、五月革命の影響により閉鎖された。元々、文化省が文化の民主化の拠点として設立した劇場だったからである。だが、開館後は五月革命後の新しい文化概念を反映させながら、当時の文化大臣マルローの構想とは違う事業が展開された。例えば、劇場の外で行うバレエや演劇の公演、映画上映会など。しかし、観客の半分はすでに演劇に親しんでいる人たちだった。そこで、七〇年代に入ってからはディレクターに赴任したカトリーヌ・タスカによって、「非観客」の「政治化」に活かす事業が行われる。「個人及び集団の表現力や社会関係構築力を育てる事業」「一定の社会集団の表現を助ける活動」である。
 だが、七〇年代後半、文化の家は危機に立たされる。六八年の五月革命より、「文化行動か芸術創造か」という対立が先鋭化していて、グルノーブル文化の家でも文化行動に関心が薄い芸術家派と「非観客」の「政治化」は芸術創造と二義的なものではないというグルノーブル文化の家派の議論が起こっていた。その上、石油危機によって文化予算が実質減らされ、さらには文化省内にあった文化の家担当部局を青少年・スポーツ・余暇省に併合する改組案が出された。支配的文化から排除された文化的少数者を、表現を獲得し、社会関係を構築できる政治化された非観客にする文化行動は、芸術創造が優先されてゆく風潮によって終わると思われた。
 だが、八一年に、ラング文化大臣が就任し、アーティスト重視の方針転換を選び、新たな制度を作り上げるまでの文化省では、七〇年代、革新自治体の多くが文化問題を重視するようになった地方都市で、自治体文化政策に関わった経験を持つ人が多く活躍する。長嶋は、これまで論じてきたグルノーブル文化の家の経験を踏まえ、文化政策に携わる人々が七〇年代末に共有していた都市文化政策理論を検討している。グルノーブル文化の家での取り組みに特に注目していた文化政策研究会「ラトリエ」のまとめた理論である。

C、文化政策研究会ラトリエの理論


 ラトリエは、活動地域や業種の多様なメンバーで構成された研究会である。活動目的は、一九七〇年代末の地方都市の文化実践現場に対して、政策実施を根拠づける理論と事業アイディアを提供することで、七八年末から八〇年初頭にかけて広報誌を発行し、議員、活動家、そしてアソシアシオンの責任者に向けて研究成果を発表した。ラトリエから育った人材は、のちに「国の政策が支援対象とする文化領域の拡大や、文化省の地域圏レベルの出向機関DRACの拡充による中央政府業務の分権化など、明文化された変化や行政機構の諸革命」(長嶋:2018)といった、フランス文化政策の礎を築いたと指摘されている。ラトリエは、まず文化を再定義し、マルロー氏の「文化の民主化」といった従来の文化行政を批判する「文化と支配の構造」を議論し、非観客と非相続者の文化も一つの文化として尊重されるべきという主張に立脚して、文化行動の新しい理論を作り、文化的発展のプロセスを示した。
 ラトリエが示した文化定義(詳しくはp132参照)は、文化の民主化を批判し、代わって文化多元主義を文化政策の前提にすることを提案した。「文化の民主化」が掲げる「耕された文化」は社会的経済的な優位性と結びついた「支配的な文化」であるとラトリエは表現した。そして、「文化の民主化」により、「耕された文化」のような既存の文化的序列が固定され、その再生産を通して支配・被支配の構造を動かしがたいものとする。文化的不平等と経済的支配が密接な社会構造を問い直すことがない文化の民主化政策は限界がある。そこでラトリエは、文化とはモノや財と対置されたプロセスも含まれるという再定義から、「耕された文化」を、多元的な複数の文化のうちの一つとみなす構図を発信した。そして、多様な文化を尊重する文化多元主義と、その上、それぞれの文化間を干渉させずに棲み分けさせるのではなく、対等な立場での交流と対決を促し、新たな文化的プロセスを展開させることが文化行動の原理であるとし、追求した。
 そのために文化に隠された支配の構図を議論し、言語化した。

「ある社会の文化は、社会を構成する各集団を特徴づける複数の文化から構成されるという視点から、『資本主義の文化政策』を批判した。『耕された文化(教養文化)』『規格文化』『大衆文化(マス・カルチャー)』『他なる文化』という四つの分類を示し、それぞれの文化と経済社会的な支配が相関する構造を説明している」(長嶋:2018)

という。
 四つの文化については長嶋が著作でまとめている。だが、筆者も学習のため、まとめ直す。
 まず、「耕された文化(教養文化)」とは、高度な芸術が核となっている文化である。財産として所有できる作品や権力を証明する記号としての教養のことだ。財産と知識と持っている者同士が連帯する目印として機能し、支配階級の勢力拡大を助ける。そのため、耕された文化に無縁のものが親しむのが困難なのだ。文化の民主化を推奨していた政府が、かつて積極的に支援していた文化がこれであり、その際、耕された文化に無縁の者への働きかけに無関心な文化政策になる。
 次に、「規格文化」とは、「『耕された文化(教養文化)』から遠いものに対して、文化産業が代替品として差し出す『製品』である」(長嶋:2018)とされる。ヒット曲や、そのレコード、テレビ番組などが例として示されている。

「文化産業が主要なターゲットとするのは、これ以外の文化を知らない大衆である。(中略)規格文化は、人々を受動化し、孤立させて、資本主義の支配的イデオロギーを大衆に刷り込む役回りを演じている。そして一定の生活様式をステータス・シンボルとして映し出しながら、そこから排除されていることを、ただちに大衆に意識させる」(長嶋:2018)

とされる。

ここからは筆者の考察になる。規格文化が人々を受動化し、孤立させるのは、「製作者」と「聴衆および視聴者」という社会的役割が明確に分けられ、それぞれが作り上げられているからだ。また、規格文化の核には「理想」「道徳」「観念」がある。よって、「聴衆および視聴者」は「憧憬」「感動」「共感」という姿勢でしか、文化に参加できない。


 次に「大衆文化(マス・カルチャー)」とは、「耕された文化」の非相続者にとって唯一の文化資源である。具体例は映画、まんが、シャンソン、ロック、ポップミュージックなどを指す。豊かな創造の場であり、独自の芸術創造の可能性がある。幅広い社会属性の多くの人々が自発的に行う表現である。「ラトリエ」は、その点を重視し、大きな価値を見出している。
 最後に「『他なる』文化」とは、「地域、職業、世代、ジェンダー、民族などの特性に結びついた文化であるが、正当性が認められていない場合が多く、支配的な文化からは軽視されている」(長嶋:2018)文化である。それぞれの社会集団に各固有の表現形式があり、各自が一定の観念と思想に基づいた独自の生産と普及の回路を持つ場合が多いため、人々を型にはめることで成り立つ「規格文化」に存在がかき消されがちになっている。
 ラトリエは、文化を分類して説明した上で、こう主張した。社会の実態は多文化である。それぞれの文化は個々の社会集団および個人の「あり方」に関わる基盤である。したがって、社会の多数を占める「非観客」、あるいは「非相続者」の文化も「耕された文化」と同等に尊重すべきである。

筆者の解釈では、特定の文化に圧倒的な権威があるように見せられ、それに関わる人間か関わらない人間かが社会階層に影響を及ぼし、それによって各自の「あり方」を矯正させる、あるいは洗礼を受けさせることでしか文化的であると承認されないという価値観の問い直しをする。ただ単に「個々の文化を尊重する」と主張するのではなく、そうすることで、あらゆる個人と集団の切り捨てられていた力が実現され、すべての個人に力と尊厳があるという前提で力を発揮できる社会の実現に向かう、という見通しまでラトリエは主張すると読める。

 そしてラトリエは、このような「少数者や弱者が固有の文化の独自性と真正性そして尊厳を手にし、これを『資源』としながらみずからのあり方を主体的に決定する『文化プロセス』」(長嶋:2018)の活性化を目的とし、このプロセスの仕組みを示すことに主眼を置いた新理論を発信した。それは従来の文化行動理論で用いられた「保存、育成、普及」の機能区分と社会文化活動推進と文化活動推進の区別を廃して、「表現、創造、対決」の三段階からなる文化プロセスを示した理論だった。
 三段階からなる文化プロセスとはどのようなものか。長嶋が端的にまとめるに

「各個人のレベルで、(自己の確認、アイデンティティや境界の再発見による:括弧内筆者補足)気づき(自覚)、アイデンティティの確立、自身の思考と表現の獲得、独自の視線による芸術創造との対峙および止揚、異質な受容や表現様式との出合い、そしてあらたな気づき、といった循環」(長嶋:2018)

である。孤立し、調整された個人は自発的な発言と思想を獲得し、その表現様式を必要とする。表現から創造が発展するのだが、創造と表現は区別される。創造とは、他者の視点と歴史という支配的な要素を含む、広義の普遍性とは名ばかりのごく一部に通用するものとなっている。だが、ラトリエの理論では「創造」の本質は、時代と様々な社会階級の視線を経てもなお、その意味を失わず、多義的な解釈に開かれた作品であり続けることだ、とする。そして、作品と視線のあいだには「対決」があるよう、弁証法的状況を管理し、豊かにするための配慮が必要になる

「『対決』は、(中略)傷つけ合わずに力を競い、支配せずに影響し合う(略)文化プロセスの到達点」(長嶋:2018)である。これまでの文化普及は、一定の顧客層を想定して作品あるいは製品が作られ、アナウンスがされていたため、真の対決がありえなかった。「個人がそれぞれに思想と力をもち、主体的に何かを示して他者と交流できることが、対決が実現するための必要条件となる。(中略)この段階を経てはじめて表現は外部に向かい、他者と対決することができる。また可動性が重要である。動かない表現は閉じ、集団における文化的芸術的生活はゲットー化するから、ある種の排斥や文化的な人種差別を招くことになる」(長嶋:2018)

のだ。また、

「対決は、多様な創造作品を、互いに無関係なままに並行的に存在させることとは異なる。(中略)対決の実現には、多様性をとらえるアプローチの教育、つまりかけ離れた要素を相関させて展開するための推進力が必要」(長嶋:2018)

なのである。
 ラトリエはこうした文化プロセスが個々のレベルで起き、それらが対決することで新たな創造が生まれる一連の動きを「文化的発展」と呼び、そのダイナミズムを増すことが目的だった。文化プロセスに含まれる対決を煩わし気に避けて、閉塞することは文化的な行為ではないと、ラトリエはそのような疎外と闘うことを目的とした。

「大局的な目標は、現実社会の実態として存在する文化の差異を認め合ったうえで、多様な人間が多様なままにつながる『真に人間的な社会』を実現することに置かれていた。だが同時に彼らは、資本主義社会システムが支配的文化の優位性を肯定し、それこそが文化だと看做されている現状においては、自分たちの文化行動に真の意味が与えられることはないだろう、とも述べている」(長嶋:2018)

とのことである。


用語解説

五月革命

「フランスで「五月革命」とも言われる、1968年の5月にパリの大学生が政府の教育政策に不満を爆発させて暴動を起こしたのをきっかけに起こったド=ゴール体制に対する、広範な労働者・市民の反対運動。」(世界史の窓)
「経済の発展は次第に社会に格差を生み出し、また経済優先の風潮が青年層の閉塞感を強めていった。(中略)そのような現状への不満を爆発させたのが学生運動であった。ベビーブーム期の大学生が進学したが、急造の大学施設は貧弱で、また超エリート校と一般の大学の格差も依然として大きく、学生の多くは社会への反発を強めていた。」(世界史の窓)
「大学制度改革を求めるパリの学生運動を発端とする一九六八年『五月革命』は、反戦、反植民地主義、高度資本主義管理体制への批判などを包含し、一部知識人や労働者との連帯を生成しながら、大きく広がっていった反政府社会運動である。」(長嶋:2018)


アソシアシオン(本著p24)
 市民の積極的な社会参加の実現手段として作り出された団体。非営利協会もしくは社団とも訳されることもある。

ラング文化省の方針転換 
 ラングの文化省はアーティスト重視の方針を打ち出したが、文化行動に貢献した人材が活躍したとはどういう事だろうか? 今まで文化行政の権力が中央政権に集中していたのが、地方分権にされたという理解でいいのだろうか?→(その理解でいい。第五節七項参照pp141-142)

止揚

 ヘーゲル哲学の用語。揚棄ともいう。弁証法的観点から,事物の発展は矛盾対立によって行われるが,その場合一つの要素はほかを否定しはするがまったく捨去られるのではなく,保存されてより高い次元に引上げられ,一新されて全体のなかに組込まれる。このような働きを止揚という。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

参考

長嶋由紀子(2018)「第二章 一九七〇年代革新自治体の実践と理論」『フランス都市文化政策の展開―市民と地域の文化による発展』美学出版

世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1602-082.html

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