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【日記】外国語で検索する

・ここ最近の間に途切れ途切れにしていたこと

 時々、外国語で検索していた。きっかけはNHKで放送されたイギリスの学園ドラマと恩師が亡くなったことだ。『ハンク ちょっと特別なボクの日常』というドラマに出てくる音楽教師が、亡くなった恩師となんとなく似ていると思った。恩師はカウンセラーの仕事をしながら、ギターやベースの演奏家だった。結局、演奏しているところは見られなかったが、ドラマの中で音楽教師役の俳優がギターを構えるところが、体型や背格好、役柄が恩師と似ていたせいで、「多分こんな風に見えるんだろうな」と思ったのである。
 それで、音楽教師役の俳優について調べた。そうしたら、あのドラマはその俳優、ヘンリー・ウィンクラーが書いた児童書で、彼の自伝だということが分かって、原作の本が欲しくなった。日本語で検索しても出てこないので。Wikipediaに載っていた本の英語名をコピーして、検索バーにペーストした。
 ほかにも、ヘレン・ケラーの『ミッド・ストリーム』という本(斎藤美奈子さんの『紅一点論』で紹介されていて知った)を読んでみたくて日本語でタイトルを検索しても出てこなかったので、英語訳を検索し、それをコピーして、検索した。

メモ
Henry Franklin Winkler Hank Zipzer Children's book
Helen Keller Midstream my later life

 メモの通りに検索すると、本の情報が出て来た。日本語訳には全くされていないのだった。一番今読みたい本が、これらが私に一番必要な本かもしれないという大きな期待がある本が、日本語になっていないという不便さを初めて痛感した。今まで読んでいた日本語訳の本が、「読もうと思ったら日本語訳されていてすぐに手に取れた」というのは運のいいことだったのかもしれないとか、明治の学生にはこれが当たり前だったのかもしれないとか、衝撃で感動がタイムスリップした。
 
 大学院の研究でも、この方法を使ったことがある。フランスの文化政策について少し調べていた時だ。ナント市という地方都市にある劇場について調べようとした時に、いくら日本語で検索してもろくな情報が出てこなかったので、劇場の名前と都市の名前をフランス語訳して(=フランス語訳を検索して)検索したら、公式ホームページに辿り着いたし。Googleで翻訳しながら、読むこともできた。
 結局、研究テーマを変えてしまうことに決めてしまったので、この勉強はやめてしまうことにはなったのだが、今でも時々、ブックマークしたのを見に行っている。

メモ
le lie uunique
Ville de nantes
Nantes Island Machinery
jardin botanique de nantes
Passage Pommeraye
Ville de Grenoble
Maison de la culture de Grenoble

・8月30日(金)
 パスポートを取りに行った。
 まず市役所で戸籍抄本と証明写真。しかし、戸籍抄本で本籍地の番地を覚えておらず、家族に電話して聞くのも嫌だったので、住民票の写しも頼む。合計650円かかる。抄本だけより200円思いがけずかかる。こういうことを学校の社会の時間に習えればよかったのに、と思う。確定申告の控除と並んで。
 証明写真は500円かと思ったら800円だったので、昼食代が足りるか不安になった。
 実際に期限切れまでにパスポートを使うかどうかは、まだ迷っている。けれども取りに行ったのは、昨日(8月29日)に病院に行ったのがきっかけだ。
 先生から「先のことはわからないけど、過去のことで予測して止めてしまってますね」みたいなことを言われた。私は気持ちが軽くなった。だってそれは、親の躾でも、親の人生観でもどっちでもいいが、それを要約したら、先生の分析になるだろう。まあ、先のことを親が考えて行動してくれたから、私は学生を続けていられるわけだが、そのことを私が感謝する感謝しないという問題ではない話し合いで、牽制ネタとして親が述べることが重荷になっていた(親は意図していないだろうけど、それは感情的になっているってことだから会話ができないなこれ以上と思って無力を感じて、話し合いが続かなくなるのがつらくて悲しい)。
 私は他人に自分のことを話すのが苦手だ。それどころか怖い。それは過去に、「謙虚いれば大丈夫」「自慢してるみたいだから言わない方がいい」と言われたことがあって、それを覚えているからだ。具体的なシチュエーションは覚えてなくて言葉だけ覚えているのが良くない。「この場合は自分の言っていいのか」と考え始めると、今対面している相手が自分に親と同じことを言うんじゃないかと思って怖い。相手にそう言われたら、「私はさっき自慢したことになる」し、「傲慢になったことになる」んだもん。でも、自己アピールって何が自慢で何が謙虚じゃなくなるのか、未だに分からないし、謙虚でいても自慢(それに少しでも引っ掛かりそうな、でも大したことないかもしれないもの全て)しないでいても、今のところ良いことなかったし、自分で勝手に止めればいいのだか、止められなくて困っている。
 健康な子供は親の言うことを鵜呑みにしないと思う。必要に応じて破れるのが健康な気がする。そう思うと「自分はやっぱり誰かが言った通り頭がおかしいんだ」と、自己否定し出す。自己否定すれば、自分も頑張ってそこを直すんじゃないかと思ってしまうからだ。
 でも、実際直ってないから、もう止める。パスポートは取る。「やたら海外に行きたがるのは田舎者の証拠だ」っていう声が過去から聞こえても、取る。
 「まずは自己否定から離れる」と先生も言ってくれた。自分以外に言われることはすごく大切だと思った。自分で言うと効かないが、他人が言うことで「それ嫌だって言っていいんだ」と自信になるからだ。

・一昨日から考えていること
 ストーリーや場面や人物を表現するのに、何故こうも多くの媒体があるのか、ということが引っ掛かっている。文章でも、音楽でも、映画でも、アニメでも、マンガでも、芝居でも、それらを再現することが目に見える目的ならば、どの方法を選ぶかは、「自分に何が出来るか、あるいは出来ないか」になるのだろうか?
 私が、そのような選び方で最初は文章を選んでしまったから、そこで止まってるのかもしれず、感覚の鋭い人なら、そんな消去法のような選び方しないのだろうか?
 例えば模型でガンダムを作る人と、等身大モニュメントとしてガンダムを作る人で、作る過程での感覚や高揚感、集中はどんなふうに違うだろうか?
 音楽や漫画やアニメを実写映画にする時、映画の技術で漫画やアニメや音楽にしかできないことを実現することが目的なのか? 音楽や漫画やアニメを実写映画に再構築して、映画にすることが目的なのか?
 
 話は変わる。私は、やっぱり言葉に気を取られやすい。それも「目で見た言葉」に特にである。最近、ネットをたくさんの時間見るようになってしまい頭が痛くなって困っていたので、節制しようと思った。そこで、検索バーに「Twitterとnoteは見ない!!」と打ち、検索して、履歴に残しておいた。すると、ネットを開く際に、その警告文が表示される。それを見ると、あれだけ時間をショートカットしようとトチ狂ったように見ていた他人のTwitter(私はアカウントを持っていないので)もnoteもぱったり見なくなっていた。
 私にとって文章は強力だった、やはり……。そういうところなだろうか、他人が表現したり表現を読み取ったりするのに、何を選ぶかに関わる指針は。

 話変わってメモ。『ハンター×ハンター』の5,6巻あたりにあった作者の『ハンター×ハンター』が出来るまでみたいなコーナー良かった。冨樫さんの「ものを集めるのが好きで~」という話がすごく大事だな、と思った。これから自分も大事にしよう。

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