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【小説(過去作品)】劇場の塵

 私が中学校の演劇部に入るまで、私の生活には演劇がありませんでした。私が育った家庭には演劇を鑑賞する習慣が無いばかりか、私が住んでいる街には劇場がありませんでした。あるのは公共ホールと呼ばれる、県民カラオケ大会から民謡コンサート、バレエ教室の発表会、ピアノ教室の発表会、幼稚園のお遊戯会に使われ、あとは有名なJ-POPアーティストがツアーでちょっと寄ってくれる、豪奢なホテルのような建物でした。中学校の演劇部の発表会もそこでやっていました。ホールの舞台袖に、役をふられた生徒は劇が終わるまで引っ込んでいます。一年生の私も小さな役を貰い、出番の多い同級生や先輩方よりもっと奥で体育座りをしていました。この時は、自分の出番を待っていたのか、それとも自分の出番が終わってカーテンコールを待っていたのかは、もう忘れました。ビニル製の床が、脂と埃が混ざってペースト状になったような、粉っぽいような、砂っぽいような、糊っぽいような、そういった手触りのあるもので汚れていました。
 私は大学を卒業してから二十二歳の夏まで細々と役者を目指して、県内の演劇に参加していました。それらは県や市が関わる街おこしだったり、市民交流ための演劇公演でして、役者やスタッフが市民から公募されるもので、大体の人が希望通りの役割をやらせてもらえました。二十二歳の夏に参加した演劇公演は、それとは少し勝手が違って、東京で活動しているプロの演出家やプロデューサーが指揮を執り、市民公募の役者とスタッフたちの他は、プロまたは見習いの美術スタッフが装置や衣装を作り、劇団の研究生や海外で活躍するソプラノ歌手や舞踏家、ギタリストなどが舞台を牽引していきました。会場は公会堂と呼ばれる、やっぱり大きなホールでした。舞台袖の天井は高くて、舞台から漏れてくる強い照明も届かず暗い。床も例のごとく汚れている。私も体育座りで待っている。この時は、自分の出番が終わって、カーテンコールを待っていました。誰に言われたわけでもないのに、演劇の全てが終わるまで待ってしまうのです。床はビニル製です。舞踏家の汗だくの裸足が、スタッフの運動靴のゴム底が歩いてゆく。舞台から漏れてくる強い照明の照射の中に、塵が飛んでいる。周りの人たちも、誰に教えられたわけでもないのに、袖幕の隙間から舞台を見ています。彼らのか細い呼気が床に重く降りてドライアイスの煙のように溜まっているようでした。配られたお昼の弁当に入っていた揚げ物の酸化した油の匂いがします。汚れの正体を、この時、知りました。ホールはまるでがらんどうです。私は、こんな所では、もうやりたくないと思いました。
 私が演劇を始めたきっかけは、もう忘れました。きっかけと言うほどのものが無かったのかもしれません。何故、演劇を始めようと思ったのかも、説明すると簡潔には出来ません。前向きな動機が無いにもかかわらず、私は中学校演劇部、高校演劇部、大学演劇、そして二十三歳の今も、自分が住んでいる東北の地方都市で演劇に、ふらふらと団体を行ったり来たりしながら、不定形に関わっています。参加する先々で話をする人たちの、演劇を始めた動機は、似たり寄ったりでした。
 まず、親兄弟の影響で。親兄弟が演劇鑑賞をする、もしくは演劇活動をしている。こういう人たちには、見ることによって身についた舞台人的な立ち振る舞い、声質、顔つき、エネルギーがあります。地声が大きくて、喋り方の調子が身構えるほど明るい人がいる。これは、女の俳優さんに多い気がします。男性だと演出家やスタッフです。男の俳優は、物静かで内向的です。身内の演劇関係者の話をよくします。生活の一部として身についた演劇論などの言っていることが、感覚的かつ精神論が多くなります。なんだか、業界人っぽいです。地元に留まって働きながら演劇を作る人たちと、プロを目指して上京する人たちに分かれます。
 次に、自発的に。地方の生活でも、演劇に触れる機会は少ないですか、芝居と物語は溢れています。テレビドラマと映画の俳優やアニメーションの声優の芝居に影響された人たちです。市内のオーディションではこういう動機を話す人が数名いました。「声優を目指していて何かやりたいと思っていたところにこのオーディションが……」と。その度に、「演劇の演技とマイクの演技は違う」と演出家が呟き、時には怒鳴ります。地方の高校演劇部の部員で多いのは声優志望者だと言う人もいました。仕方のないことだと思います。聞くところによると、声優になるには東京などの大都市、もしくは仙台のような中都市で養成学校に入るのが主流です。ただ、都市には、その養成学校を受験するための養成学校や教室まであるので、そんな学校が無い地方都市の若者が丸腰で受かるのは大変なのでしょう。代替えの経験として演劇を選ぶのも無理はありません。高校生や大学生であれば、まだ放送部に入るという望みがあります。最近では、ドラマCD作りや校内放送でラジオドラマ、朗読をするという声優的な活動があるのです。可哀想だなと思うのは、高卒で地元に就職した若者です。お金も経験も自信も無いので焦っています。オーディションで自虐的な自己紹介をしたり、陳腐な語彙で過剰に他の参加者を褒め、持ち上げます。見ていて悲しくなります。私にもそういうことをやった心当たりがあるのでいたたまれない気持ちにもなります。そして心当たりを反芻して、その記憶がつい先月の出来事じゃないかと、ぞっとさせられる。
 自発的に組にも、稀に地元の演劇を観て影響された人がいます。こちらは年齢層が高めで、調子がキャピキャピしていて、挙動が暑苦しくて、話していて落ち着きません。ただ、親兄弟の影響タイプの人たちに「あの人、面白いよね」と好かれているようです。私が最も落ち着かないのは、演劇大好きという態度と、その理由です。「いつもとは違う自分になれるのが楽しいから」とのこと。そういう人の演技は微笑ましいのでしょうが、魅力を感じません。最近やっと、微笑ましさだけで見ることができるようになりました。
最後は、なんとなく始めた人たちです。新聞で募集していたから、ポスターを見たからと、どうして参加したの? って訊ねるとそう言います。それは動機ではなく、きっかけに過ぎないではないですか。私が訊ねた人たちは、演劇を観たことが無い人でした。でも、なんとなくやってみたい、と静かに笑っていました。その人たちは、観劇に誘っても、返事をするだけで、来ません。
 私は、私が見てきた地方演劇人たちの中では、異邦の人でした。生活に演劇があったわけでもない、アニメは大好きだったけど声優になりたかったわけでもない、地元の俳優たちに敬意があったわけでもない、なんとなくというのとは少し違う。言葉にするには簡潔にすまない、惹きつけられるものがありました。誰の話を聞いても、ピンと来たり共感したりすることがありませんでしたので、あの人たちのどなたにも似ていないものなのでしょう。私は私のこの姿勢が、姿勢を言葉にも態度にも出来ないことが、下等で卑しいように思えてしまうことがあるのですが、それでも居座っています。
 地方都市の演劇は狭い社会です。打ち合わせとか顔合わせの場所に行くと、私以外みんな、かつて一緒に演劇を作ったことがある仲間だったという状況です。代表の人が、これはみんな知ってるよねという当然だよねといった風に笑いながら、私の知らないことを話します。俳優の何々さんは今、FMラジオで頑張っていて、女優の誰誰さんは再婚して、という具合です。私以外にその話を聞いている人は皆、何々さんや誰々さんをご存知のようで、頷き、笑い転げます。この一体感、一体であることが当然という神経が理解できないのです。しかし、私が理解できなくても、あの人たちは感覚で気持ち良さそうに談笑しているように見えます。それを壊すのはしのびないし、なんだか、自分はこの状況がおかしいし面白くないと思っているのに、しのびないという気持ちにさせられてしまうのです。
 私は、演劇を皆で作ったことによって味わえる一体感を頂戴した覚えが一度も無いのです。中学校や高校の演劇部、大学の学生劇団もそうです。もしかしたら忘れているだけで演劇を作っている時は確かに味わっていたのかもしれませんが、今その感覚が無いのなら仕様がありません。
 私が演劇を始めたきっかけは忘れたし、もしかしたら無くて、本当になんとなくなのかもしれない。始めたきっかけは無いかもしれないが、続ける動機、それもささやかな動機のようなものはあるのかもしれないと、思い起こしました。演劇人たちが顔合わせや打ち合わせで頷き、笑っている間に、演劇を続ける動機のようなものと心の中で唱えて返ってきた反応が、心当たりとなりうる出来事や思い出、味わえそうだった感覚が蘇って来たのです。
 私は、大学二年生まで明確に役者を目指していました。学生劇団に入ってからも、そこの定期公演のオーディションを受けました。でも、選ばれませんでした。声が小さいというのが理由です。声質が低音で痩せている、通りにくい声なのです。今まで発声練習と腹筋背筋運動を毎日やっていたので、ショックでした。これはもっと後で分かったことだが、喋り方と体の動かし方も不自然だった。津軽訛りとも違う、なんだか説明できない癖があるらしいのです。よく独特だと言われました。体も、肩が強張っていて、どれだけほぐしても動きの不自然な固さを指摘されます。中学高校と市民公募の演劇では、それが教育の現場であり、市民を受け入れる場であったため、味として黙認されていただけのことだったのです。しかも、これも、もっと後で分かったことですが、不自然な喋り方と体の動かし方は、もしかしたら直すのが難しい、生まれつきの体や頭の影響によるのではないかというおそれもありました。これは自分でとある分野の本を読んで診断したことなので、本当かどうかはまだ疑っていますし、このとある分野に詳しい知人も、そうとは言い切れないとは励ましてくれました。ですが今は、ほぼ受け入れかけています。
 学生劇団を引退するまでは、自分の至らないところを直そうとしていました。そのために私は、長い夏休みに東京へ演劇のWS(ワークショップ)を受けに行きました。大学二年生、十九歳の時です。
 私はWSが始まる前日の朝に出る新幹線に乗り、東京駅から電車で四ツ谷に行き、駅から徒歩でホテルに行きました。部屋に荷物を置いてから、向かいのビルに入っているサイゼリヤで昼食をとって、四ツ谷駅に戻り、新宿駅に行きました。今夜、東京の演劇を観るためです。
 紀伊國屋書店本店のビルは七階建てで、全て本を売っているフロアでした。その四階の奥に紀伊國屋ホールという劇場があります。五百人収容の、劇場としては中規模です。八十年代、小劇場運動という小さな劇場やテント芝居、大学の演劇研究会からスタートした劇団が演劇で食べていくことを目指して、このホールでの公演をゴールに設定していたのです。WSへ行くことが決まって、せっかくなら何か見ようと思って、チケットが取れた公演がここでやるものでした。サードステージ主催、鴻上尚史作演出の『朝日のような夕日を連れて2014』、U25チケット4300円です。かつて、小劇場ブームの筆頭に立った劇団の一つである「第三舞台」の旗揚げ作であり、代表作でした。今日は、その再演です。
 新宿通りは陽炎のように人がゆらゆら揺れながら、ぶつかりそうでぶつからない微妙な隙間を、まるで前もって約束していたような自然さで作っていて、そしてあんまりにたくさんいたので、あの人たちが人だとは思えず、本当に陽炎のような、骨格と肉感の無い影のように思えました。開場時間まで私は時間を潰して、そのへんを散策していたのですか、暑くてただ歩いていただけのように思えて、あんまり覚えていません。
 日が落ちかけた頃に夕食を取りました。紀伊國屋書店本店の地下一階に食堂街があると聞いていたのですが、地下に行くエレベーターや階段を見つけられず、諦めて靖国通りまで出て、歌舞伎町入口にある松屋でビビンバ丼を食べました。青森でも食べられるものにしかありつけなくて、ちょっと悔しかった。食べている間中、歌舞伎町で流れている大音量の放送が聞こえてきました。ぼったくりに、ぼったくりに、ご注意ください。
 開場時間にそれでもまだ時間があったので、紀伊国屋で本を観ました。演劇のDVDも専用の棚があって、たくさん売っていました。確か、一階の奥だったと思います。四階は理工学書、建築、コンピューター、紀伊国屋ホールの入口から離れたフロアに演劇、美術、古典芸能の本がありました。戯曲の単行本を立ち読みしました。野田秀樹とか宮藤官九郎とか、松尾スズキとか、その時は知らなかった人たちの本をめくりました。今は、その人たちの本もちゃんと読んで、知っています。
 ホールはとっくに観客で一杯でした。チケットに印字された席に行くと、一番後ろの角席でした。渡されたパンフレットには、大学ノート見開き二頁分に丸い字で書かれた演出の挨拶のコピーが挟まっていました。柔らかい文体でした。ビニール袋に入った紙の束も渡されました。見てみると、都内と関東周辺の演劇公演や劇団員募集のチラシでした。ちょっとした本一冊分の厚さがありました。青森ではありえないことなので、少し圧倒されました。私が座っている席は通路から二番目か三番目くらいの席でした。その通路にオレンジ色のポロシャツを着た、五〇代くらいの男の人がパイプ椅子を持って駆け込んできました。背が低くてずんぐりした体型なので、まるでパイプ椅子を抱えているように見えました。男の人はパイプ椅子を開くと、あとについて来た若い男の人を座らせて通路を下って行きました。あとで、分かったことですが、このパイプ椅子を抱えていた男の人、作演出の鴻上尚史氏でした。彼はこの頃から、若者中心の劇団を作っていたらしく、連れられていた若い男の人は、そこの団員だったのかもしれません。
 この演劇が一つ目の心当たりです。二時間五分の間、なんだかよく分からなかったが、凄かった。あらすじに直せるようなストーリーが無いのに、何が起こったのかの理解が出来たような気になった。むしろ、理解することを放棄していた場面や台詞があるのに、最後まで観ていた。途中何度も、意味のないシーンや件が何カ所も挟まれていて、その時は、これいつ終わるのって思っていたけど、役者の声の伸びや震えで、動きで、会話で、会話の無い目配せや、例えば物を渡したりするなどのコミュニケーションの演技で私はハッとさせられた。今まで観ていた演劇では、反れてしまった集中を自力で戻していた。うつむいている間が持たなくて仕方なく戻したのだ。この演劇では、集中が反れてしまったところは作品の緩みとして自分に必要で、その緩みが舞台に在るものによって、そっと緊張してゆく。自力で顔を上げるだるさは無くて、でも強引に注目させられているしんどさも無い。つまらなそうにしていたら、穏やかに話しかけられた感じ。顔を上げてみたら、凄いことをやっていた。観たというよりも、体感した。でも、肌が泡立つとか体が震えるとか、感動させようという意図を持った娯楽が持つ、いやらしいものは感じなかった。この舞台の上にいる全ての人たちには、演劇好きなの? とか、何で演劇始めたの? とは、私は決して訊けません。それだけ、当然のようにやっているのです。なんだかよく分からないがなんとなく凄かった、というものを一つでも観ていると、その後いくつもつまらないものを観ても、簡単には諦めなくなるのかも知れません。
 二つ目の心当たりは、翌日からの演劇WSでしょう。一週間、前半は体操や遊戯のようなトレーニングをして、後半は二本の戯曲の場面を実際に作りました。山谷典子の戯曲『ループ』と、フランク・ヴェーデキントの戯曲『春のめざめ』でした。
 まずやったのは山谷典子の『ループ』です。舞台はとある私立高校の会議室。生徒が原発反対デモに参加したことの処分を話し合うために集められた四人の教師たちの会話劇でした。劇中で話し合いを仕切る役回りのキャストが、このシーンの基準になっていました。その役は、WSのアシスタント講師で劇団員の俳優がやりました。彼の振る舞いに、私達は反応していくのです。彼が私に話しかける時、顔がまだ私を向いていなくて私の向かい側にいる違うキャストに「わかりましたね? 私の言ったこと理解しましたね」という風に顎をこくんと動かし、目線をピッと合わせていて、そのキャストは眉をひそめたり口を結んだり手を組んだりして反応して、その反応を受け取って、それを彼が確認してすっとこちらに向く前、その顎がつっと動くのを感じて、私への台詞を話した瞬間、はっきりと、彼が私に話しかけているということがわかりました。私は、まず彼に答えました。彼との会話を二、三回やりした時に、私は視野を広げました。私と彼以外のキャスト二人にも、この会話を聞いてもらった方が良いのではないかと思ったのです。目線をキャストにトン、トン、トン、と向け、それに合わせて顔の向きも小さく変えました。演技のプランとしてあらかじめ考えていたわけでも、即興でやったわけでもない、こうしたら良いかなという落ち着いた気持ちでした。そして、私が話しかけている三人が、あ、私の話を聞いている、聞かれている、と感じました。そうした演技を褒められると、自分の考えをいいねと言われたようで、幸福な気持ちになります。
 演技ではない日常生活の会話では、「私は演技をしているという優越感があって」「でも、じゃあ、こうしたら良いかなって程度でリラックスしていて」「しかし、人と向き合うそっとした緊張がある」「自分の言葉にし難い考えや気遣いを見せて褒められる」今を、感じたことがありません。青森でやっていた演劇でもです。人の真似をするような楽しさと背徳感、人ってこういうことするよねって皮肉を噛み締め、ほくそ笑み合うような優越感を。
 次にやったのは、フランク・ヴェーデキントの『春のめざめ』です。課題になったシーンは、ヒロインのベントラとその母親の掛け合いでした。叔母に出産祝いを届けるお使いを頼んだ母親がベントラに子供はどうやってできるのかと訊かれる。私は、娘の性のめざめに戸惑う頭の悪い母親(演出をした講師がそう形容したのです)の役をやった。ベントラ役は、私より二つ年下の、横浜からこのWSに通っている女子高生だった。母親はとにかく娘の追及から逃げなくてはならない。あしらったり、怒って話を打ち切ろうとしたり、嘆いたり、悲しんだり、しがみついてくるから身をかわしたり、ソファ(この時はただのパイプ椅子だったが)に逃げたり。ここでは、母親が、つまり私の役が基準だった。逃げる私を、ベントラが捕まえたり、様子を伺ったり、鋭い質問をして振り向かせたりする。ただ、母親が(つまり私が)捕まった時や様子を見られている時は、基準がベントラに渡る。私が、ベントラから逃げるために手をほどいたり、顔を背けたり、用意された台詞を使ってベントラに反応してもらう。反応が返って来たら、よしよし、と思う。うきうきとしていて、終わった後はぐったりと疲れている。
 よく、演劇で演技をすることは、「いつもと違う自分になること」「違う人の人生を疑似体験できること」が楽しいとかやりがいだという人を見かけます。それは間違いではないし、第一、本人がそう感じているならその人にとっては間違えようが無いのでしょう。私は、このWSで違う自分になったとは思えませんし、疑似体験をしたのは他人の人生では決してありません。私が体験したのは、会話を始めとしたコミュニケーションであり、一緒に演じた人たちと、「今、これ会話できてたんじゃない?」「こういう時、こういうことする人いるよね?」と言った再現を作り上げたような錯覚でした。他人の人生を疑似体験しているというよりは、自分の生活や考えを切り貼りして見せている、相手にも見せてもらっているようで、とても面白かったのです。
 それ以来、私は、小劇場演劇が好きになり、忘れたくない演技の体験を反芻しています。街に帰ってから、小さな劇場を四軒見つけ、そこで行われる演劇の公演を見るようになりました。私は、あの東京での観劇と演技の体験を忘れたくないから、ここでも演劇を続けているのでした。今はもう、役者は目指していません。大学院で地方に住む社会人の演劇活動を研究しながら、市民公募の演劇公演で、スタッフをしています。
 今日も、演劇を観に小さな劇場へ来ています。五十人収容で天井も低く、舞台も目の前、役者の髭の剃り残しまで、よく見えます。狭いとことは落ち着きます。
 ただ、上演中に反れてしまった集中は、残念ながら自力で戻しています。役者をもう目指していないというのも、少し嘘をつきました。選んでくれるものなら、やらせてもらいたい。ただ、ここで、この人たちの演技を見ていると、忘れたくない演技の体験をもう一度、味わうことは出来ないのではないかと思って、諦めたくなってくるのです。私は、忘れたくない体験を理解し合える人に、一緒に再現して楽しめる人に出会いたいのです。
 吊るされた照明の照射の中に塵が飛んでいます。塵は、役者の呼気や動き、体温によって遠ざかったり吸いこまれて引き寄せられたり、演劇に反応しているように見えました。塵の漂う様は、とても気持ちが良さそうです。私は、いっそ、あの塵の一片に、私はなってしまいたい。
 今日は、塵を眺めているうちに、カーテンコールが来てしまいました。私は、みんなと一緒に拍手をしました。
                              



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