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演劇に出るより雑誌の立ち読みが好きだと気づいた夏

私は中学、高校ひいては大学まで10年間演劇部にいた。今も公共文化施設の演劇部で裏方をしている(職業ではありません。あくまで市民向けの文化事業)。

だが、最近は仕事がない。近々、大きな公演があるためだ。裏方と主要キャストはプロフェッショナルが担当するため、市民公募の裏方は仕事がない。任せられないからだ。俳優は公募された市民も数多く出演するし、そのため忙しいから俳優同士で固まる。稽古場に行くと、ああ私はここに来ているのではなく、演劇部の人から見ればここにいさせてやってるって感じなんだろうな、と感じてしまう。

もう芝居好きじゃないな、と覚めるのは、こういう場面だ。一昨年の夏からずっとそう思っている。

一昨年の夏、大学院浪人中に演劇公演に出演した。中心市街地を舞台に、あちこちで俳優、ダンサー、芸人、音楽家がパフォーマンスをする。

冒頭、大通りにて、白塗り黒装束の俳優たちによる集団舞踏と群読。私の出番はここと、公会堂で行うラストシーンの集団舞踏と合唱。舞台袖は住宅の陰。楽屋は空き店舗。アングラ俳優仕込みの白塗り化粧を落として私は他のパフォーマンスに向かう出演者を見送った(といってもさほど私が心を開いてないから一瞥した、という程度だ)。

私服に着替えて私も外に出た。街はハレである。白塗りのダンサーが道で踊るし、呪わしい重いエネルギーに満ちた音楽が演奏されて、誰かに愛された傑作を朗読する声もするし、カラフルな見世物集団もテントを張っている。観客の中には顔見知りの大学教員や地方の文化人だっている。

私はコンビニに入る。暑かったから。雑誌を見て、飲み物を買って、また外に出る。

街に戻れば、また変な場所が設けられてる。

自分が亡くしたものに思いをめぐらせる所、だと。

俳優すらいない、砂利の空き地である。多くの人が暑くて離れてしまう、もういない戯曲家が込めた狙いが掬われない場所で、私は「赤い襦袢と牧草地」と囁かれた。

それは、私の衣装と舞台だった。私はその役を断った。何故か。体調が悪かったからだ。長い移動時間、高い気温、その上、メールで担当教員から課題にお叱りを受けた直後、演出家に合同稽古で喝入れのために怒鳴られたし、出演者たちの出来上がった連帯感にはまたもや加われなかったと痛感して涙出てくるし、今日から本番まで出演者と雑魚寝で寝起きしなきゃいけないから不安だったし。それ以前に、私に役がつくが不安だった。この芝居は稽古と平行して配役を決めていたので、ギリギリまで告げられないこともあった。それにしたって本番三日前は遅すぎだろうよ、と捨て鉢になっていたのもネガティブに拍車を掛けた。よって、辞めてしまった。

飽きて、書店に入った。また雑誌を立ち読みした。

ああ、私は演劇に出るより本屋で立ち読みしてる方が好きだな、これは。

覚めた。覚めた。

なのに何でまだそこいるんだ、と言えば、大学院の研究テーマだからだけれど、だからといって、割り切ってしまえていなかった。

私は、あの芝居の打ち上げに行っていないから、乾杯もしてないし、そもそも出られなかった可能性だってあった。オーディションの連絡はメールできて、それは書類選考の合格通知も兼ねていた。だが、私にメールは来なかった。オーディションの当日、たまたま参加していた学生劇団の後輩が会場に私の名札が用意されていたことを知らせてくれたから助かったのだ。問い合わせて別日に合ってもらってさ。面談だけだったし、ちゃんとオーディションやりたかった。参加を許されたことに、しっくり来なかった。

もうそろそろ飲み込みたいのだ。向いてないこと。納得行く形で使われたいこと。清濁併せ呑む、の濁(だく)をジョッキに注いだまま、乾杯する相手がいなくて立ち尽くしている今を、どうにかして助けて欲しいことを。

亡くし物は無い。必要なものが分からないのである。みんな、必ずしも必要無いと言うものをニコニコしながら後生大事にしがみついているように見えて、困惑しています。みんなが必ずしも必要無いと言うものが、例えばお金に並んで力を持っているように見えて、悲痛です。

と、私は寺山修司青春歌集を一瞥した。


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