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【小説】雨障み(あまつつみ)

三島問衣(ミシマ トイ)はアルバイトで、師事している教員が担当する必修科目講義の答案用紙を名簿順に並び替えていた。一枚、また一枚と学生の名前と名簿を照らし合わせながら答案の内容にも目を通した。

大学二年生が「文献」の「献(けん)」と「敵(てき)」の字を間違えるなよ、と自分の声で荒々しい口調を思い浮かべて、気分が良くなった。大学院生の問衣には答案を採点することは任されていない。こなれてきたアルバイトに見出だした楽しみの一つだった。

このアルバイトを数度して気がついたが、他人を否定すると気分がいい。生身の相手にも、うっかりやってみたいと思ったことが何度もあったとひらめいた。怒鳴り、啖呵を切り、罵倒し、普段は使わない声色、言葉、神経、身振りを好きなように披露する。現実では、そういったチャンスが来ても、やらなかった。我慢したというほど強い志向ではなかった。だが、その度に僅かに不満は残り、最近になって燻るようになった。

一枚、また一枚と粗を見つけて否定する度に不満が解消され、活き活きしてくる。仕事を終えると、脈打つような頭痛がひいている。いつもならば頭に重くのし掛かるような窓の外の曇り空も薄らいでいる気がする。

昼食を摂り終わると午後のアルバイトまで、やることがない。頭がまた痛くなって来たので、本も読みたくないし音楽も聴きたくないしネットも見たくない。パソコンが無いから自分の研究のための資料の続きを作ることも出来ない。辺りにいる学生たちの話に耳を澄ます。直ぐ隣にいる二人組の話がサークル内恋愛についてだった。二人組の内、どちらかの恋愛ではなく共通の友人のいざこざだったので、面白くない。情報が定かじゃないから薄っぺら。薄っぺらな話を親身になって話し合っている姿勢と、それとは矛盾したニヤニヤした下卑た口元が不快。図書館かコンビニで雑誌なら読めるかな、と思ったが止めた。萎れるように俯いて目を瞑った。

午後は文章の打ち直し。師事している教員が、古参の教授から借りてきた手書きの調査ノートを、ゼミナールの資料用に打ち直す。タイピングは得意だ。だが、十指全ての先に被せるように巻いた絆創膏のせいで打ちにくい。手を休めると指先が疼いた。親指のガーゼに滲んだ血の黒いシミ。ささくれを、爪にしていたように歯で引きちぎったせいだ。足の爪も深く切りすぎたせいで絆創膏を被せているため、暑いのにサンダルがしばらく履けない。

ーー「楽器を始めたの?」

と、宮田さんの声が思い浮かんだ。

そわそわしながらもアルバイトを終え、バスに乗った。学生劇団の同期だった内海くんのSNSを見ると、この前の飲み会の写真が公開されている。写真の背景が宮田さんのお祖母さんの空き家の居間だったので二次会の写真だ。その写真には宮田さんは写ってない(途中で帰った自分も写ってない)。宮田さんはシンガーソングライターをしているので、仕事に影響が出ないように皆で気を遣ったのだろう(もしかしたらSNSに公開しない用の写真で宮田さんと一緒に撮ってるかもしれないが、興味がないので訊いていない)。そう想像すると、写真に写る皆にAll for one的な、そういう優越感からくるような変な連帯感を醸し出しているように見えて、げんなりした。

指先が使えないので、指を折り曲げて節で画面をスクロールした。本当は、自分の指を見ても、誰も何も言わない、と問衣は思っている。それは無視されているのではなく気を遣われているのだということも、なんとか納得しようとはしている。だが、それでも問衣は最近になって、過去に戻りたいとでも切望しているかのように学生劇団にいた頃の、学部生時代に執着している。

内海くんからメッセージが来た、という通知が画面に表れたので節をこっ、と打ちつけた。宮田さんの充電お疲れさま&送別会やるよ、という最終確認のための連絡だった。日時と場所を、覚えていたけれど確認し、わかりました、と返信した。続いて他の同期たちのスタンプが次々表れ、スマホが鬱陶しく、赤ん坊のぐずり声のような音をたてて震えた。薄汚れた窓の向こうで、雨水を限界まで含んだ濃い雲が浮かんでいるのをじっと見ていた。

※※※※※※※※※※

送別会は宮田さんのお祖母さんの空き家で始めた。時間と人目を気にせず楽しみたいから、と内海くんは乾杯の音頭を取った。俺は明日も仕事だー、わたしもー、わたしも旦那がー子供がー、嫁さんがーという野次が飛んで、乾杯の声でうやむやになった。

問衣も来てくれてありがとう、と内海くんが手を差し出した。懐かしい。演劇公演の打ち上げの時も握手してくれた。お酒に弱い内海くんは酔っていて、話が飛び飛びだった。宮田さん良かったよなー、一時期荒れてたから、そん時はもう……。一時期って、上京する前? と問衣が尋ねると内海くんは雰囲気を作るようにそっと目を伏せた。内海くんが言うには、宮田さんは当初はここに居るつもりだったらしい。メジャーデビューの話はあったが、宮田さん自身はその必要性を感じていなかったのだという。だけど俺が言ったんだ、宮田さん、宮田さんは自分が活躍できるとこに行くべきですって。そう得意気に内海くんは語った。問衣が話を掘り下げようと口を開きかけた途端、内海くんに立ち上がって皆のところに行ってしまった。皆が大笑いする声が聞こえてきた。

ああ、またか、と問衣は俯いた。皆の姿が見えるところに自分は取り残されている。皆の声が聞こえるところに自分は閉じ籠ってしまっていて、あの大笑いする声の一部ではない。自分から行くのは億劫。自分から輪に入っても尚、自分が分離している感覚が顕れたらと思うと、白ける。内海くんは狭い居間のあちこちにいる同期に話に回っていて、くるくる踊っているみたいだった。タイピンが外れていて、あちこち振り返る度にネクタイが揺れていた。

「問衣」

と宮田さんに呼ばれて振り向いた。宮田さんはビールを干して、本いらない? と尋ねてきた。急に言われて戸惑う問衣を、宮田さんは立ち上がって手招きした。

宮田さんの後について、問衣はスタジオに入った。宮田さんが電気を点けると、この前の飲み会の帰りに立ち寄った時には散らかっていた音楽の機材が無くなっており、封をした段ボール箱が三つ積み重なっていた。ピアノには毛せんが掛かっていて、壁際のアーム無しソファーはカバーで覆われていた。

「家ね、街づくりの事業に貸すことにしたんだってさ。だがら、必要なものだけ持ってかないと」

「街づくりって?」

「コミュニティスペースみたいなやつかな? よく知らない」

「だったら、本、勝手に頂いて大丈夫なんですか?」

「勝手じゃないから。あげるから」

宮田さんはピアノの椅子に腰掛けて言った。問衣は戸棚を眺めながら奥へ進んだ。中上健次の『紀州 木の国・根の国物語』を手に取り、開いた。それ? と宮田さんが尋ねた。拾い読みしながら、いえこれは持ってます、と答えた。朝来(あっそ)の馬の屠殺場の話を黙読して閉じた。太宰治の『新ハムレット』を取った。本から銅板で出来た栞が飛び出していた。まるで刺さっているかのように突出していたのを抜き取ってから拾い読みした。人物が庭かどこかで(というのも戯曲だから拾い読みが難しいのではっきりとしない)蘭を見ているところで止めて、栞をそこに挟んで閉じた。

「宮田さんは、これ全部読んだんですよね」

「うん」

「これは宮田さんが自分で選んだんですか?」

「ううん。全部、伯父と祖母のものだった」

「あの、じゃあ面白かった本、教えて頂けませんか? 知らない本が多くて、迷いまして」

宮田さんは立ち上がって、戸棚を見渡しながら一冊、一冊、本を抜き出して、抱きかかえるようにして腕に積み重ねていった。待っている間、問衣は甘やかされている子供のような気持ちになった。今まで自分で選んで買っていたものを、選んでもらえる、与えられると思うと、涙ぐむくらい嬉しくなった。

スタジオのドアを叩く音が響いた。宮田さーん、宮田さーん杏奈と沙也夏とオッティが帰りまーす、と内海くんが歌うように叫んだ。宮田さんは抱えていた本をピアノに置いてスタジオのドアを開けると、へべれけの内海くんに引っ張り出された。ばんっ、とドアが閉まると、防音が施された広間は切り離されたように静まり返った。

ちりっ、と胸が痛んだ。燻る不満から火の粉がはぜた。宮田さんに与えられた潤沢な本に囲まれて、惨めさから悔し涙が出た。自分の力では決して得られないものを突きつけられている気になる。

劣化した輪ゴムのような匂いが鼻を刺した。また爪を噛み千切ろうとした。余計に惨めになった。ガーゼに滲みた黒い血が憎々しい。忌々しいものが溶け込んでいる。

問衣は父親が憎かった。母親が情けなかった。父親は自分の理解できないものを堂々と否定した。母親は自分には理解できないからと、卑屈そうな言い方で否定した。父親の否定する様子は愉快そうだった。母親のは、駄々をこねる子供のようで揺るぎなかった。しかも両親は、安易なイメージだけで否定した。実際を知ることは元より、安易なイメージに当てはまらない多くの実際があることすら認めなかった。問衣は血脈を重視する思想ではなかった。だがら両親のせいにすることに葛藤があった。だが、環境という血が身体に廻る血より薄いとは考えられない。そのせいで思い出したくない失敗と罪を犯した。それなのに自分は未だに、否定することに誘惑されるのだ。否定することに惹かれているのを自覚してから、趣味の小説は書けなくなるし、研究も停滞している。

きい、とドアが開いて宮田さんが戻って来た。誰も戻ってこないような気にすっかりなっていたので、問衣は安心した。

「内海のヤロー」

と、捕まれた腕を大袈裟に擦って呟いた。

なんだかんだでも内海くんは可愛がられている、そう思うと胸がまた、ちりりと痛んだ。正直、内海くんは騒がしい。一人で大人しく過ごしているのが好きだ。だが、内海くんたちが楽しく騒いでいる中に入っていないことは、入っていないで悔しい。自分が、今はまだ分からないが適切な行動をする事で、妥当とされる考え方をすることによって、違う過去があったんじゃないか? そして、早くその適切と妥当を理解はなければ、死ぬまでこのまま。ずっと願っているのは、自分のためにその適切と妥当を教えて見せてくれる他人が現れることだった。

問衣は本を選んでいる宮田さんに嫉妬した。

「でも、内海くん、宮田さんの背中を押した人なんですよね」

「あー、あいつまだ言いふらしてんのか」

宮田さんは苦笑いしながら、こう続けた。

「俺ね、体(てい)よく追い出されたんだと思ってんだよね、今でも。元々はここに居るつもりだったのに、居るのが嫌になって上京したっていうのも、ちょっとだけあったから、逃げたっていう感じもある。でもね、今はもうこれで良かったと思う」

どうして? と声が出そうになったが、飲み込んだ。あなたが追い出された場所は、それでは何も変わっていない。あなたを否定した人たちはあなたを否定する血を廻らせたまま、あなたを遠くから目下のものにするように褒める。かつてのあなたのような人たちは、あなたを否定した人たちに同じように消耗させられる。

問衣は不満を押し殺した。すると、研究のために今、資料を作っている文献を思い出した。問衣は、フランス地方都市の文化政策を勉強している。文化が発展する過程には「対決」がある。それは互いの文化を否定し合うことではない。高い芸術やその知識と財産を持っている人に箔がつくような文化が真の文化だ、と除け合うのではなく、それぞれの文化は等しく必要とされている。そういった考え方を共有するために、言葉を紡いだ研究会があるのだ。

問衣には、まだ対決をすることが出来なかった。それは問衣に自信が無かった、そして問衣が宮田さんを信用できなかったからだった。

※※※※※※※※

宮田さんから本を受け取って、帰り支度をした。宮田さんが玄関まで見送ってくれた。玄関で折り畳み傘を解いていると、内海くんも帰ると廊下に出てきた。雨降ってるの? と内海くんは額を手で覆った。貸してやるから引っ越し手伝え、と宮田さんが傘を差し出した。

問衣の不満が、また燻った。問衣は自分のものはきちんと用意が出来る。それが人間の基本的な能力だと思っていた。だが、そんなみみっちいことは出来なくても許されるのだ。こうして内海くんには、また可愛がられるチャンスが廻ってくる。そのチャンスをものにするのは内海くんの気質や人柄。それは、後から身に付けられない彼の血に溶け込んでいる宝のようなものだ。

玄関を開けると流れ込むような雨音が聞こえてきた。傘を開くと、

「じゃあね、問衣」

という、宮田さんの声に、振り返って傘の影から会釈を返した。

参考文献

太宰治(1974)『新ハムレット』、新潮文庫、新潮社

中上健次(1993)『紀州 木の国・根の国物語』、朝日文芸文庫、朝日新聞社

長嶋由紀子(2018)『フランス都市文化政策の展開』、美学出版

前日譚『子ども騙し』

https://note.mu/kise1995/n/n3d260485c7a2


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