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【小説】マゼンタ/シアン/イエロー

 スーツ姿を見たのは大学の卒業式以来だった。
 印刷の依頼に保険会社から営業の方がいらっしゃるのは事前に幸畑さんから聞いていた。この工場はデスクワーク用のスペースを通らなければ応接室に行けない作りなのだ。ここで働いている他の人すべてではないが、少なくとも私は事前に聞いていない来客があると、すごく緊張して仕事が滞る。そうならないようにの配慮である。
 梅津くんは私に気がついて挨拶をしてくれた。私は、彼がすぐに応接室へ行かなくてはならないと思っていたので、素早く会釈だけを返して顔を背けた。すると、応接室へ梅津くんを案内しようとしていた幸畑さんが気がついて、「お知り合いですか?」というように私を示したので、「大学のサークルの同期です」と梅津くんが答えた。
 私は膝の上で手をきつく組んでニコニコしながら俯いた。仕事着の薄い、黒いジャンパーが擦れてシャカシャカ鳴って、恥ずかしかった。
 梅津くん達が応接室へ入っても、私は仕事になかなか戻れなかった。
 
 昼休み、LINEで梅津くんから昼食に誘ってもらった。
 この工場には小さな食堂があるが、そこは、ここで働く人の中で事前に希望する人が食べる日を一週間ごとに予約しておかなくてはならない。私は自分でいつもご飯を持って来ていて、今日は市販の菓子パンと総菜パンだったので、これらはおやつにしようと決めて、梅津くんに返事を返した。
 幸畑さんに断りを入れて外に出た。「絶対に時間通りに戻って来ます」と、幸畑さんに言う時に緊張した。幸畑さんは無闇に怒る人ではないが、だからこそ信用されるようになりたいのだ。
 天気が良くて、風が柔らくて気持ちいい。梅津くんは入り口の屋根を支える柱に寄りかかっていた。そっと目を細めた顔を見て、溜め息をついた。

 工場を出て、緩い坂道を上がったところにある中華屋にしてもらった。
 坂道は、いつものように一人ならばすぐ着くのに、他人と歩くと相手との位置を気にしてしまうので、とても時間がかかっているように感じる。
 梅津くんの靴音を聞いていると、後ろめたい気持ちになる。そんな気持ちになる必要は無いのは分かってる。私は後ろ手を組んで、出来るだけジャンパーの擦れる音がしないように歩いた。「元気だった?」とか数言、のんびりと話していた。

「依吹さんって、社員証ないの?」

 ぎくりとした。でも、すぐに嘘をついた。

「うん。契約社員だから」

 ふうん、と梅津くんは返事した。
 嘘をつかなくていいことだけど、梅津くんに言うのが未だに怖かった。私がビクビクしなくても良いはずのことだ。でも、どうしても言うことを躊躇う。
 
 絶対に、彼は忘れているだろう。絶対に、彼らにとっては記憶とも呼べないほど、本当に些細なことだったのだろうから。

 二年生の冬の日だった。サークルの定例の集まりが始まるまで、早く来た同期生たちがだべりながら待っていた。
 梅津くん達は、サークルを止めてしまった先輩のことで愚痴を言い合っていた。その先輩はサークル活動に一生懸命になり過ぎて、周りの人の気持ちや都合を疎かにしてしまった挙句、孤立した。「寂しい」と、サークルの後輩の家を急に訪ねたことがあるとか、サークルのメンバーが何人も巻き込まれたらしい。私は全くそれを知らなかったので、あまり話に入らなかった。
 本を読んでいると梅津くんの声が聴こえて来た。

「あの人、まじアスペだよな」

 ショックを受けて呆然とした。涙も出ないくらい、傷ついた。
 アスペ。発達障害のうちの一つだった「アスペルガー症候群」から取ったスラングだ。元はネットが発祥らしい。KY、すなわち空気読めないという若者言葉より、さらに手に負えないような人に対して使われるらしい。
 発達障害とは、脳機能の偏りによって、さまざまな能力や感覚にムラが出てしまい、しばしば日常生活の中で脳機能の偏りが限りなく小さい方々(これは定型発達、いわゆる健常者とされる)に比べてやりにくいことが出てきてしまうことである。ただし、本人の偏りの程度には個人差があり、さらに本人が暮らす環境や人間関係によっては、障碍による日常生活への困難さが生じないこともあり、本人や周りの人が気がつかない場合もある。
 発達障害も、アスペルガー症候群も医療の専門用語だ。それを、こんなスラングとして使うとは。
「アスペルガー症候群」や「発達障害」について知らないのかもしれない? それはあり得なかった。彼らの中には教育学部で教員過程を取っている者もあり、講義で習っているはずだ。

「俺、キホン障碍者バカにしてっから」

「いいのかよ、教育学部がそんな」 

 と、梅津くんが教育学部に通うはずの同期生に笑った。
「彼らの言うアスペ」と「アスペルガー症候群」は、彼らにとってそんなに違いが無いものなのか? 迷惑をかけることをした人は、みんな、彼らにとっては「アスペ」なの? 迷惑をかけた人間は、その中身は見られず、切り捨てられてしまうの?
 身体が死体のように冷え、なのに腸は煮えくり返るように熱かった。ガタガタと身体が震え出した。

 あの日の悪寒が蘇りかけた。梅津くんが、さらに質問してきた。

「契約社員の人は黒いジャンパーなの?」

「そうだよ」

「じゃあ、赤い紐の人は?」

 ビクッとして、思わず立ち止まった。

「あの、幸畑さんの社員証、首に掛けるストラップがあるでしょ?」

 動悸が激しくなった。どうしよう、と焦れば焦るほど嘘が思いつかなくなる。

「幸畑さん達が赤で、他に青と黄色の人がいたから、なにで分けてんのかと思って」

 赤は、定型発達の正社員、もしくは就労移行支援を利用した後、この印刷工場に就職した正社員。青は、就労継続支援A型利用者。黄色は、就労継続支援B型利用者。
 就労継続支援とは、障碍の状況や本人の希望に合わせて就労の機会を提供される福祉サービスのこと。A型は雇用契約を結んで最低賃金の時給制で働く。B型は雇用契約を結ばず、工賃と呼ばれるお金を貰い働く。雇用契約を結ばないと言うと、保障がないのではないのかと誤解があるかもしれない。かける保険もそれぞれ違うが、例えば職場での事故等は就労支援事業所のお金で補償される。

 私は、嘘をつかずに、こう説明した。

「何も、分けてないよ。あの工場、とても大きな印刷機があるんだけど、要領が家庭用プリンターと似てるんだ。インクカートリッジを取り換える時に、インクが順番に並んだ台みたいなのがあるでしょ。マゼンタとシアンとイエロー。あれは色の原色で、混ぜればいろんな色になって、で、全部、必要っていうか、全部、使わない人がいても、この世に存在する色っていうか、つまり、そう、分けてるんじゃないの。分かれてても一緒に働けるように、そうしているだけなんだよ」
 
 仕事を続けるのが大変な時は、赤い紐の人に相談して、采配してもらったり、計画を組み直すことを手伝ってもらう。青い紐の人、黄色い紐の人が大変そうにしていたら声を掛ける。ただそれは絶対じゃなくて、赤でも青でも黄色でも、それぞれが一緒に働く人として気遣い合い、時には手を引いてあげること、気持ちを支えようとすることも多くある。

 怖かった。意味わかんない奴、と思われることが、とても。でも、一方で、もういいや、とも思っていた。梅津くんに、あのスラングを口にしていた時の顔を向けられても、そりゃあ、泣き出すくらいはするかもしれないが、それでも人格を傷つけられたようなショックは受けないだろう。
 至らないのは向こうだと思えばいいのだ。

「黒は?」

 と、梅津くんが聞いて来た。
 私は、言い訳も面倒になって、ただ唸って、そして黙った。
 黒いジャンパーは、就労移行支援利用者。一般企業への就職に必要な訓練をするための支援。あの工場に通って、簡単な仕事をし、パソコンスキルやビジネスマナーの勉強をし、同系列の相談所ではリフレーミングやストレスコントロール、コミュニケーションなどの情緒面での訓練を、私は受けている。

「だから、特に意味ないよ」

 と、ニコニコして答えた。

「俺の兄貴、ちょっと調子が悪くなったんだ。心の」

 と、梅津くんは言った。

「俺が高3の時にね。兄貴、大学辞めて以来、五年、家にいた」

 五年というと、梅津くんが大学に通っている間はずっとか……。梅津くんは実家生だったな、と思い出した。

 梅津くんは、こもごもと話し出した。

「だからねって言うとアレだけど、なんとなく、違う雰囲気の人は、見掛けるようになってさ、」

「つい言い争いになったりとか、……大変なことも、あって……、怒鳴ったりとか、うち男ばっかで、父親とか、カッとなったら手が出たりとかして、さ……」

「去年、兄貴、手帳を取って、就職したんだ」

「小山先輩、いたでしょ。それで俺、皆といろいろ言い合って、『アスペ』とか。俺も、あれ、ずっと後ろめたくて。あの時、ちょっと俺も、なにか、気持ちが、調子が良くなくて、皆の手前もあったし、小山先輩がサークルに迷惑かけてたのは本当っていうか、俺、幹部だったから色々相談受けてたから、滅入ってたのもあるし、つい……」

「でも、話し合わせてから、つい話を会わせるようなこと言ってから、いや、そういうこと言おうとした時からずっと、気分は悪い。兄貴のこと避けてたっていうか、向こうは家族のことそう思ってイラついてんだなって感じて俺だってイラついてたけど、イラついてんのに……、なんかさ……」

 次第に梅津くんは黙ってしまった。

 私は「アスペ」のことを絶対許さない。ただ、あの軽率な言動が彼の全てじゃない、ということについては、少し考えても、いいかもしれない。

 サークルの飲み会が苦手で、適当に嘘をついて行かないようにしたことがあった。皆、気づいてないと思ってたし、気づいていたとしても、私が去れば相手にしない。いつも、そうだった。私の困難には誰も気がつかないし、関わりもされないのだ、と小さな頃から苛々して過ごしていた。

 でも梅津くんが、「飲み会が苦手なの?」と訊ねてくれた。その事を思い出して、次第に楽しかったことや気遣われて嬉しかったことも蘇った。

 今の彼が話した彼のこと聞いて、戸惑ってもいた。
 
 私は、同期生たちに気づかれていたのだろうか? 
「アスペ」のことを許さないままでも、梅津くんは仲良くしてくれるだろうか? 
 それとも、そんな気兼ねをしなくて済む人たちの方が楽で良いのだろうか?

「ご飯、食べながらにしようか。時間通りに戻りたいから」

 私は坂の上を指差した。梅津くんは頷いて歩き出した。
 



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